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一章

海のような

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 梅雨だってのにその日はやけによく晴れていた。気温は真夏かと勘違い出来るくらいに高い。朝っぱらから空気はうだるように暑く、はっきり言って不快指数はこれ以上はないってくらい高かった。すげえ嫌な気分で目が覚めたもんな。思わず慌てて空調のスイッチ入れちまったよ。

 目が覚めちまったもんは仕方ない。と、俺は休日だと言うのにいつもと同じくらいの時間に家を出た。勝亦に約束した通りに差し入れ用の食い物や飲料を道中に買う。店員の異様に明るい声に押されるようにして俺は店を出た。

 週末の駅構内はいつもと違って閑散としている。今日は隣接するホールで催し物もないからだろう。行き来する人はまばらだ。自動改札を抜けた俺はいつものエレベーターに向かった。妙な気がするのはきっと、いつもと着てる服が違うせいだな。シャツにジーンズなんて格好で会社に入るのは初めてだ。

 目的の開発部があるのは四十階。うちの営業所と開発部の間には他の営業所が一つ、企画部、総務部が挟まってる。社員用エレベーターの脇にある警備員室のおっさんに挨拶がてらカード出して身分証明。エレベーターに乗る前に身分証明。でもって各フロアにエレベーターから降りたところで身分証明。更にフロア内にある各部署、営業所に入る前に身分証明……。考えたらごく普通にオフィスに入るだけで四回もカード呈示しなきゃならんのか。うわ、改めて考えるとけっこうな手間だな。まあ、カードを出すっつったって、入れ物ごとスキャンさせればいいだけなんだけどな。だからIDカードを忘れた日にはえらい目に合う。始末書提出の上で総務に仮ID発行手続きしてもらって、でもって所長に怒られると。まあ、そういう訳だな。更になくしたりしたらもっと大変らしい。俺はやったことはないが、同僚の中にはそういう奴もいた。これが再発行までにかかる手間が尋常じゃないらしい。まず、前に使用していたカードを使用不可にする。まあ、これはシステマを介してすぐに出来ることなんだが、その後が凄い。心電図取るだろ。脳波調べるだろ。指紋、網膜、声紋パターン登録するだろ。そりゃもう、入社時に比べるとカードの発行にはどえらく手間がかかるらしい。プライバシーなんてあったもんじゃねえってぼやいてたっけな、そいつ。

 でもうちの会社だけじゃない。今はどこも身分証明には似たような方式とってるんじゃないかな。一時期、偽造IDだのが騒がれたせいで、今はカードと本人が揃わないと身分証明が出来なくなっている。カードに埋め込まれたチップが所持者の脳波を読み、信号として変換した後に端末にデータを転送する。これはうちの看板商品であるところのシステマにも利用されているシステムだ。つまり、IDカードも各所に据えられたガードボックスもただの送受信機ってわけ。

 まだうちはいい方だ。金融関係なんてもっと大変らしい。俺の同級生にも金融関係に就職した奴がいるが、話によれば自分が人間なんだか機械なんだか判らなくなっちまうらしい。感覚がどっか麻痺してるかも、とそいつは言ってたっけ。俺なんてそいつの話を聞くだけで絶対に嫌だと思ったもんな。

 件のカード入り財布をドアの脇のガードボックスにかざして一秒。軽い電子音がして開発部のドアは開いた。ドアの上に記された名は開発部一課。勝亦はここにいるはずだが……ああ、居た。俺はドア近くの机についている勝亦に声をかけた。それまでキーボードを打っていた手を止め、勝亦が振り返る。

 ……おい。俺は自分の目を疑っちまったぞ。勝亦の奴、どんな仕事の仕方してんだよ。

「あ、悪いな。まあ座れよ」

 そう言いながら立ち上がった勝亦の顔色は随分と青い。俺はまじまじと勝亦の顔を見ながら勧められた隣の席に腰掛けた。ぶら下げていた食い物の入ったビニール袋を差し出す。すると勝亦は少しだけ笑ってそれを受け取った。

 そういえばここ最近、こいつに会ってなかったっけ。でもそれだってたかが数日だろ。何でここまで痩せられるんだよ。

「昨日から食べてないからありがたいよ」
「おいおい」

 呆れながら俺は顔をしかめた。すると勝亦が小声で笑う。

「切羽詰ってくると、腹が減ってるとかいう感覚がなくなるんだ」

 それってやばいんじゃないのか。そう言いかけた俺をよそに勝亦がビニール袋を探る。差し出された茶の入ったボトルを反射的に受け取り、俺は潜めた声で言った。

「おい。ちょっと病的だぞ。お前の顔色」
「いつもこんなもんだけどな」

 新しい商品開発の時にはよくあることなのだ、と勝亦は事もなげに言った。言われて俺はやっと気付いた。そういえばこれまで、新しいシステマが出来る直前に勝亦と顔を合わせたことがない。俺も勝亦も入社して一年ちょっとだが、その間にうちから出た新機種は六種類。つまり二ヶ月に一作というハイペースで新作をリリースし続けているのだ。

 もちろん他社からもシステマは出ている。この一年で売り出された新機種はざっと三十種ってところか。でもそれだけ出ているにも関わらず、どの社の製品の売り上げもそれほど伸びていないのが現状だ。うちの社の新製品についても客の食いつきはいいのだが、長く続かない。要するに飽きちまうんだな。

 勘違いしている客も多いと思うが、システマは買取ではない。システマの基本はリースだ。リース期間が過ぎるとシステマ本体はただのがらくた同然となる。他の廃棄物と同様にごみとして投棄してしまうと違法になるため、通常はリース終了したシステマは売買した企業に回収される。発売当初、知らずに不法に投棄して捕まった奴がけっこういたっけな。

 人々が服を替えるほどの気軽さでシステマを取り替える。……というのが俺たち営業の理想だ。そうでなけりゃこんだけの営業所を作るはずもない。コレクターなんてもんが出てくりゃ儲けもん。その手の奴らが希少価値の商品に飛びつく傾向は今も昔も変わっちゃいねえ。

 俺は勝亦の顔色を見て改めて考えた。でもそんな営業の理想の裏には、こうした勝亦みたいな奴らの努力ってのがある訳で。

「炭水化物ばっかり」

 笑いながら言って勝亦がおにぎりの包みを剥く。文句言うなら食うな、とお決まりのせりふを吐いて俺は眉を寄せた。それまでぐったりと憔悴していた勝亦がいつもの調子を取り戻しつつある。それを感じ取って俺は内心でほっとため息をついた。だって気色悪いだろ。いつも元気に人に厭味吐いてる奴が疲れきってるのは。

 この部屋はうちのオフィスとかなり違う。各自の机が並んでるとこまでは同じだが、システマがフロアをやたらとうろちょろしているのだ。いや、それはな。判るよ。開発だからだってのはな。それにその辺に投げておいたら邪魔になるしな。だからって……。

「……何で裸……」

 少し安心したからか、部屋の中をうろうろしてるシステマに今度は目が行ってしまう。そんな俺を横で勝亦が笑った。

「道具なんだから気にするな。自動的に指定の受信機に近付いてるだけだ」
「気にするなって言ってもな。何でカバーくらい着けないんだよ」

 受信機やインターフェイスは当たり前だが、システマには購入段階でもれなく専用カバーが付いてくる。つまり買えば絶対についてくる菓子のおまけみたいなもんだ。でもこいつら、それすら着けてないんだよ。いっくら道具だって判っててもさすがにちょっとまずいだろ、これは。

「変なところで拘るなあ。能戸も。こんなの、ここじゃいつもなのに」

 近くを通ったシステマを呼び止めてから勝亦が意地悪く笑う。あのな。いつもの調子が戻ったのはいいが、俺をからかうなよっ。

「だから! 何か着せろ、なにか!」
「変な趣味でもあるんじゃないだろうな。百歩譲るとしても子供にしか見えないだろ」

 そりゃあな。お前はいいよ、お前は。見慣れてるんだしな。んでも、俺は剥き出しのまんまのシステマなんざ滅多に見たことねえんだよ、ぼけ!

「いいから!」

 子供だろうが大人だろうが、裸でちょろちょろされると気持ち悪いんだよ。尖った声で言ってから、俺は勝亦の椅子の背に引っかかっていたシャツを取り上げた。白いただの綿シャツだが何もないよりましだろう。傍に立ったシステマにそれを手早く引っ掛けてから俺は勝亦に向き直った。

 あー、と呻いて俺は俯いた。元気付けようとしてた俺の親切心を嫌な形で踏みにじりやがって。不機嫌に睨んでみるが当の勝亦は飄々としている。傍に立ったまんまのシステマはぼうっとしていて、どこを見ているのか判らない。捉えどころのない視線はもちろん、表情のない顔も、人間を連想させるものじゃない。あくまでも道具、よく言えば人形程度の見てくれだ。だが、妙な趣味があるならともかく、普通は人形だって素っ裸で飾ったりはしないだろ。

 勝亦のシャツを羽織ったまま、システマは突っ立ってるだけだ。俺はため息をついて横目にシステマを睨んで手を伸ばした。くそ、手間のかかる。そうぼやきながらシャツを引っ張ってシステマの腕を袖に通す。続いてボタンを留め始めたところで勝亦が堪えきれない、という風に吹き出した。

「なんだよっ」
「いや。能戸って子供の世話とか得意そうだと思ってさ」

 ど阿呆。誰がだ。そう即座に応えて俺はシャツのボタンを留め終わった。人間の子供とシステマを一緒にするな。こんなぎくしゃく動くんじゃ、人形そのものじゃねえか。関節曲げる時の違和感も相変わらずだ。俺は笑った勝亦にそう文句をつけてみた。するとほう、と勝亦が感心したような声を漏らす。あのなあ。

「感心してどうすんだよ。大体、人間と比べるなんて間違ってるんだ」

 あそこも違うしここも違う。俺が指摘するたびに勝亦がふんふん、と頷く。てめえ、真面目に聞いてんのかよ。腕組みして感心顔で頷いたところで俺は納得なんざしねえぞ。まあ、元気になったのは安心したが。

 さんざっぱらシステマの文句をまくし立てた俺に勝亦が言う。

「いつもながら思うんだが」
「何だよっ」

 早口でシステマをこき下ろしたからか、俺の息は少し上がっていた。だが俺と勝亦が話をしていても当のシステマはぼんやりと突っ立ってるだけだ。ほらみろ。悪口言われたとも感じてないじゃないか。感情スイッチ入っててこれだぞ。人間と比べるなんて間違ってる。

「能戸ってシステマのことよく見てるよな」

 のんびりとした口調で指摘された途端、俺の頭は真っ白になった。しばし思考停止。でもって動き出したと同時に俺は思わず喚いた。

「当り前だ! 営業が商品のこと知らなくてどうすんだよ!」
「でも内容については能戸の耳ってザルなんだよな」

 怒りを込めて言った俺に勝亦が呑気に答える。さすがに俺は二の句が告げなかった。確かに言われてみればそうだ。システマの中身については俺はてんで把握していない。せいぜいが勝亦の説明を流し聞きする程度だ。

「いいんだよ、中身は。技術営業が何のためにいると思ってんだ」

 勝亦の言い草をふん、と鼻で笑ってから俺は改めてシステマを見た。背丈は……そうだな。俺の姪っ子でこのくらいのがいるから七、八歳てとこか。でも体型なんて比べ物にならないな。システマはあくまでも細く、言わば痩せっぽちだ。今時、そのくらいの歳でこんな体型してる子供のが珍しいだろ。姪っ子なんてあの歳でけっこうめりはりの利いた体型してるしな。なんてなことをシステマを見ながら俺はぼんやり考えた。勝亦が上着代わりにしてるらしい長袖のシャツはシステマには合っておらず、袖や裾が余りまくってる。肩なんて細すぎて襟ぐりからはみ出しちまいそうだ。

「その数が絶対的に足りないって文句言ってたのは誰だったかな?」

 茶化して言ってから勝亦がなあ、とシステマに話を振る。阿呆。こいつに話を振ったって仕方ないだろ。俺がそう思った通り、システマは何の反応もしない。ほらみろ、とつい呟いてしまってから俺はため息をついた。勝亦が訳知り顔でにやにやと笑ってる。こいつ、俺の反応を見るためにわざとシステマに話を振りやがったな。

 勝亦は特にシステマに用があって呼んだ訳ではなかったらしい。が、システマからシャツを剥ぎ取ることもなく席を立つ。ついでだからちょっと付き合え、と言われて俺は渋々と勝亦に従った。

 開発部の部屋を出たところでふと勝亦が足を止める。IDカードを携帯しているか確認され、俺は素直に頷いた。というか、基本的に俺はポケットに財布突っ込んでるからな。カードはいつも持ってるぞ。そう答えた俺に勝亦がよし、と頷く。何なんだよ、一体。

 客に直に接することのない開発部所属の勝亦の格好は今の俺と変わらない。うわ、何か遊びに来てるみてえ。そんな感想を言った俺に勝亦が困ったように笑う。よし。勝亦の顔色はまだ良くはないが気分は良くなってきてるみたいだ。飯も食ったしこれなら大丈夫だろう。勝亦と喋りつつ俺はそう思った。

「お前、納品担当にならなくて良かったな」

 からかい混じりの勝亦の言葉に舌打ちをし、俺はため息をついた。要するに納品担当の連中は裸のシステマを当り前に扱ってるって言いたいんだろう。それは判る。

「仕事なら別に動揺もしないだろ。そのうち見慣れるだろうし」

 エレベーターに乗り込んでから俺は階層を示すパネルを見つめ、勝亦に声をかけた。

「何階だ」
「四十二」

 はあ? たかが二つ上? そんなもん、階段上がった方が早いじゃねえか。俺はしかめっ面で勝亦を振り返った。だが勝亦は平然としている。へえへえ、と返事して俺はボタンを押した。ほどなくエレベーターの扉が閉まる。軽い抵抗感の後、エレベーターはあっけなく四十二階に着いた。まあ、そりゃそうだわな。地下鉄の駅のある地下二階から営業所までにしたって、エレベーターでかかる時間なんて短い。二階層分くらい、あっという間に着いてしまう。会話する間もなかったな。そんなことを思いながら俺は開いた扉の向こうを見て絶句した。

 青白い廊下が真っ直ぐ続いている。
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