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一章
I 3604 Twins RC
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「ほら。何してるんだ」
ご丁寧にエレベーター前にガードボックスが設えてある。俺は疑問を覚えつつも勝亦と同じようにカード入りの財布をボックスにかざした。
この本社のビルの中で見たことがないような細く長い廊下が続くせいか、周囲の景色は酷く現実離れして見えた。ライトも何もないのに廊下全体がぼんやりと青白い光に包まれているのだ。勝亦曰く、壁が半透過性の材質で出来ており、向こう側の光を通すんだと。いや、それにしたってだよ。何でまた青白なんだよ。こんな不健康そうな色の光に囲まれてると、無意味に鬱になりそうなんだが。
俺はおっかなびっくりで壁に触った。つるんとした奇妙な感触だ。だが確かに勝亦の言う通り、壁そのものが光ってる訳じゃないらしい。ひんやりとした壁をしばし指先で確かめるように撫でてから俺は勝亦をうかがった。俺が好奇心に負けて色々してるのが面白いのか、勝亦の奴、わざわざ立ち止まってやがる。
「興味があるなら素材の解説でもしようか?」
「要らん」
勝亦の言い方にかちんと来て俺は素気なく返事した。そうか、と頷いて勝亦が歩き出す。今度は俺もちゃんと勝亦について歩いた。
ここが同じビルの中だとはとても思えない。誰もいない長く細い廊下が続いている。時折、影が過ぎるのは壁の向こうを何かが横切るからだと言う。青白かった勝亦の顔色は、この光のせいで余計に悪く見える。
直線に見えていた廊下は実は緩やかなカーブを描いていたらしい。光の加減でごまかされて真っ直ぐだと思いこんでいたようだ。気がつくと俺たちは振り返ってもエレベーターが見えないところに居た。へえ、曲がってたのか。振り向いてエレベーターが見えないことを確認してた俺は、勝亦に促されて壁の端にあるガードボックスに財布をかざした。……おいおい。一体何台ボックス設置してるんだよ。エレベーター降りてちょっと歩くだけでこれか。しかも特にドアがあったりする訳じゃない。ただの廊下のど真ん中だぞ。
「あの部屋に着くまでに七回チェックがあるかな」
俺が文句を言おうとしてたことに気付いたのか、あっさりと勝亦がそんなことを言う。ちょっと待て!
「七回だと!? んな、社長室に行こうってんじゃねえんだろ!?」
うちの会社役員は最上階からその二階層下辺りまでに個人的な部屋を持っている。その階層に足を踏み入れたことはないが、所長の自慢話によるとIDチェックも相当厳しいらしい。
だがここは違う。この階は開発部の管轄のはずだ。
「あんまり大きな声を出すなよ。一応、能戸は部外者なんだし」
「てめえが連れて来たんだろうが」
呆れるやら腹が立つやらで、ついつい怒鳴ってしまいたいところを堪えて俺は低い声で言った。くそったれ、勝亦。てめえ、どこまで俺を引っ張り回せば気が済むんだ。
「そうだっけ」
とぼけた顔で言い切ってからまた勝亦が歩き出す。さすがに付いて行くのもばからしくなり、俺は勝亦に背を向けた。
「あほくさ。そんじゃ、俺は帰るぞ」
「新しいシステマを見せてやろうと思ったんだけどな」
即座に勝亦が言う。俺は歩き出そうとしていた足をぴたりと止め、慌てて振り返った。勝亦がにやりと人の悪い笑い方をする。このやろう……。
「まだ出来てねえんだろが」
「過程とか、気にならないか? 僕なら気になるなあ。どんな風に作られた物を自分が売っているか、とか」
くそ、痛いところを突きやがって。俺はふん、と鼻を鳴らして廊下を再び進み始めた。冗談じゃねえぞ、まったく。文句言いまくりつつも俺は勝亦について歩いた。
青白い光の中に硬質な金属の扉が浮かぶように立っている。エレベーターからここまでそんなに距離はない。なのに何だ、この厳重な警戒ぶりは。たかだか廊下歩いて部屋に行くだけのことだぞ。しかも目的のドアが見えてからもガードボックスが二つ。もう、ここまで来ると警戒どころの騒ぎじゃねえだろ。
声を落とせと警告されてからの俺は、隣を歩く勝亦にだけ聞こえる程度の声で文句を言いまくった。なのに勝亦の奴はいたって平然としてる。こいつ、感覚がどっか麻痺してるんじゃねえか? そんな疑いを俺が抱き始めた頃、ようやく問題の扉が開いた。金属製のどうということもないありふれたドアが開いたその先は。
海?
「ほら、固まってないでさっさと来い」
細かな気泡がゆらゆらと立ち上る青い液体が俺の周りを取り囲んでる。いや、違う。青い液体の中に透明な壁に囲まれた通路に俺がいるのか。周囲はどこを見ても青。その液体の中に白い光が一定間隔で並んでる。さっきまでの廊下は乳白色の素材で出来てたらしい。だからこっちの色が透けて壁が青白く光ってたんだ。
「能戸」
勝亦の少し強い呼び声に俺ははっと我に返った。いかん。つい、見とれてしまった。水族館かよ、ここは。そんなことを言いながら俺は急いで勝亦のところに向かった。勝亦が呆れたように俺を見る。もしかしたら俺の反応が子供のようだとでも思っていたのかも知れない。
「これは浄化槽なんだ。あれは殺菌用のライトだ」
青い液体の中で光ってるライトを指差し、説明しながら勝亦は酷くゆっくりと進む。俺はその少し後ろを歩きながら黙って頷いた。青い液体の中で白いライトが光り、その周辺を大きな板状のものがゆっくりと移動する。勝亦曰く、液体を循環させるために底部を混ぜ返してるんだと。さっき廊下を歩いている時に過ぎっていたのは攪拌用の板の影だったらしい。
俺は本社ビルからは出てないんだよな。そう疑りたくなるくらいには周りの光景が非現実的に見えた。こんなので集中なんて出来るかよ。勝亦の説明なんて耳を素通りしちまう。
やがて通路が傾斜する。通路の行き止まりにはそこだけえらくぼろい鉄製の階段があった。どうやらこのフロアは四十三階までぶち抜かれているらしい。そう言えばエレベーターの階層を指定するボタンに四十三って数字はなかった気がするな。
階段の途中で思わず足を止める。俺は天井があるべきところを見上げて絶句した。
「卵……?」
青い液体の中を上に向かって進んでいくうちに、少しずつ液体の向こうの様子が見えてくる。ここからだと丁度、白い卵形のものが並んで中空にぶら下がっているように見える。ぶち抜きの四十三階の天井にはごく普通に明かりが灯っているのだろう。一定間隔で並んでいる白い卵が光のゆらめく青い液体に浮いているように見え、俺は何とも不思議な気分になった。
「ケースだよ、ただの」
こちらは足も止めずに勝亦が答える。ふうん、と一応は返事して俺はまた歩き出した。一面の青、光の揺らめく足元、宙吊りの卵、真っ白な壁と高すぎる天井。下手に真面目に観察してると眩暈を起こしそうな景色だ。
長い階段を上がり切ると透明な壁に囲まれた部屋に出た。非現実的な光景から、現実的な機械の置かれた部屋に景色が変わったからだろうか。さっきまで青い液体の中を自分が漂っていたって錯覚まで起きそうになる。そう考えて俺は慌てて首を振った。当り前じゃねえか。何メートルかは知らないが、この液体って相当深さがあるぞ。そんなとこを呑気に歩いて来れるはずがないだろ。息はどうすんだ、息は。そう考えつつ俺は改めて部屋の壁の向こうの景色を眺めた。この壁、透明度の高い素材で出来てるんだろうな。壁で仕切られてるってのに、まるで間に何もないように向こうの景色がクリアに見える。
下から見ると青い液体に白い卵が並んで浮いてるようにしか見えなかったが、この部屋から見下ろすと勝亦の言ったケースという意味がよく判る。卵を縦に半分に割ったような形の物が整然と並ぶ様を見て、俺は思わず壁に張り付いた。休日だからなのかな。この部屋には他には誰もいない。壁の向こうに見える不思議な光景の中で動いているのは微かに波打つ青い液体だけだ。
「この溶液は各ケースを循環した後、下の浄化槽に流れる仕組みなんだ。集められた溶液は不純物を取り除かれてまたケースを循環する」
淡々とした説明を聞きながら俺は目を細めた。だが光の加減かな。目を凝らしても並んでいるケースの中を窺い知ることは出来ない。下から見ると白かったケースも、表面は鉛色をしているのだ。縦半分に割れた卵の形、というのが一番近いか? 一つ一つのケースの大きさは子供用のベッドくらいかな。大人が身体を伸ばすと横幅はともかく、縦はちょっときついだろってサイズ。
ここが例えば俺の勤めるいつものオフィスだったら。これがごく普通の、俺にとって非日常的な光景でなかったら、すぐに卵のケースのところに行かせろとせがんでいたのかも知れない。だがこの時の俺は驚くのが精一杯だった。同じビルの中にまさかこんなもんがあるとも思わなかったし、何より勝亦がこれを見ても平然としてるのが酷く不気味だった。
目の前の光景に息を詰めていた俺はふと気付いた。そう言えば卵の間に細長い通路っぽいのがある。通路を目で辿った俺は顔をしかめた。ずっと向こう、俺たちが入ってきたドアの方に伸びた通路はあるところで別の通路に交わり、でもってその先がこことは違う場所に向かっているのだ。
このフロア、どんな構造してんだよ。ドアが幾つあるんだ? しかもよく見りゃ、ここだけじゃない。フロアの壁に沿って別のところにも部屋がある。でもこの部屋に繋がってるドアは一つきり、さっき来た道を通るしかここに来る方法はないように見えた。
「おい。ここって一体、何なんだよ」
透明な壁にへばりついたまま、俺は勝亦に声をかけた。振り返った俺を勝亦がやけに静かに見ている。
「試験機を製作するためのフロア、かな。ここは見学室だ」
だから見るだけなんだが、と言いながら勝亦が部屋の隅に寄る。そこにはシステマではない、ごく単純な機械が設えられていた。赤と青のボタンの並んだその横に、テンキーだけがある。何だそれ、と俺が訊ねる前に勝亦が言う。
「これはケースを動かす操作盤だ」
「……いつも思うんだが」
勝亦の前にある操作盤とやらを指差したまま、俺は眉を寄せた。
「何で俺が言いたいことが判るんだよ」
「そりゃあ、能戸がポーカーフェイスが苦手だからだろ」
要するに読みやすい顔してるってか。けっ。悪かったな。勝亦はわざわざ言わなかったが、言葉の端々に営業の癖してって匂いがすんだよ。こっちの機嫌が悪くなったことをすぐに見取って知らん顔するとこも実に可愛くない。
勝亦がボタンを押してテンキーを打ち込む。すると間近で何かが軋む音がした。何だ? 俺は慌てて音のする方を向いた。そこで目を見張る。
並んでた卵が動いてる!?
「試作機別にケースが分かれていてな。番号を指定するとそれが近くで見られるようになってるんだ」
そう言いながら勝亦が俺の横に並ぶ。俺は壁に手をついて足元で動く卵型のケースを凝視した。少し離れてるから判りにくいが、ケースごとに確かに番号が振られているように見える。俺は目を凝らしてケースの表面に書かれている文字を読んだ。あ、これ知ってる。I 3600 J。ちょっと前にかなり売れ線だったシステマの商品番号だ。次はI 3601 cherry。女性向けってことで鮮やかなカラーリングってコンセプトで開発されたんだが、システマの頭や瞳、爪をさくらんぼ色に染めたところで客は大して興味を抱かないらしい。うちの商品の中では今ひとつ売上も伸びなかった。
見覚えのある商品番号が続く。卵型のケースはまるで線路を行く電車のようにゆっくりと進んでいる。二列で環状になったレールの上を移動しているのだと勝亦は説明した。なるほど。電車みたいだっていう俺の感想は間違ってないわけか。で、ケースを横に動かすときは横二列のレールの上を動くんだと。縦横の組み合わせで自在にケースを移動させることが出来るらしい。まあ、それをするのは機械だけどと勝亦が笑う。俺は横目にちらっとだけ勝亦を見てから視線を戻した。
そしてゆっくりと一つのケースが近付いてくる。I 3604 Twinsの文字を確認した俺は思わず息を潜めた。自然と脈が上がる。くそ、何でこんなにどきどきするんだよ。授業で指された生徒じゃあるまいし。俺たちのいる部屋の一番近くで止まった卵型のケースを俺はじっと見下ろした。これじゃ中なんて確認できやしねえ。近いっつっても五メートルは離れてる。しかもケースの中はどういう訳か真っ暗で、表面に書かれた灰色の文字が少し浮いて見える程度だ。これで文字が黒だったら全然見えなかっただろう。
「見えねえよ」
仏頂面で言った俺に勝亦がはいはい、と笑って返事する。すっかりいつもの調子を取り戻したのか、勝亦はまるで子供のように俺をあしらってくれる。だが俺はそんなことに構っていられなかった。
そのケースの内部に光が灯る。ケースの中で照らし出されたものを見て俺は息を飲んだ。青い溶液の中で身体を丸め、横たわっているのは一人の少女に見えた。ケースの表面に浮き上がった商品番号がなければ、俺はそれをシステマと思えなかったかも知れない。
「な、なんだ。もう出来てんじゃねえか」
動揺を隠したつもりでも俺の声は勝手に上ずっていた。だが勝亦は不思議と俺をからかうことはなく、静かに隣に戻ってきた。じっとケースを見下ろして指差す。俺は勝亦の指の先を見て眉を寄せた。
I 3604 Twins RC1。ケースにはそう書かれていた。最後の文字を見取った俺は、その瞬間に理解した。これは試作機なのだ。恐らく実際に客に売る商品はこのままの形はしてはいない。勝亦の少し歪んだ顔が何よりそのことを物語っていた。寂しそうな、それでいて怒っているようにも見える不思議な表情だ。
「RCというのはリリースキャンディデートって言ってな。実際に製品化が確定する前に候補としてあげるバージョンのことだ」
勝亦の顔に浮かんでいた見慣れない表情はすぐに消えた。だが俺はしばらくじっと勝亦を見ていた。こいつがあんな顔するなんて珍しいってのもあった。でも本当は多分、本音を言うって判ってたんだろうな。目が離せなかったってのがある意味正しいかも知れない。
「本当はRC1がRTMになる予定だった。でも、方針が変わってな。結局はRC2が製品としてリリースされることに決定したんだ」
RTMというのは要するに工場行きって意味だ、と勝亦は小声で補足した。
「つまり実際に俺らが売り歩くのはこいつじゃないってことか」
訊かなくても判っていたのに俺は勝亦にそう訊ねた。ばかばかしい話だとは思う
が、膝を抱えて丸くなったシステマを見下ろした勝亦がとても残念そうに見えたんだ。
勝亦は俺の質問には答えなかった。
ご丁寧にエレベーター前にガードボックスが設えてある。俺は疑問を覚えつつも勝亦と同じようにカード入りの財布をボックスにかざした。
この本社のビルの中で見たことがないような細く長い廊下が続くせいか、周囲の景色は酷く現実離れして見えた。ライトも何もないのに廊下全体がぼんやりと青白い光に包まれているのだ。勝亦曰く、壁が半透過性の材質で出来ており、向こう側の光を通すんだと。いや、それにしたってだよ。何でまた青白なんだよ。こんな不健康そうな色の光に囲まれてると、無意味に鬱になりそうなんだが。
俺はおっかなびっくりで壁に触った。つるんとした奇妙な感触だ。だが確かに勝亦の言う通り、壁そのものが光ってる訳じゃないらしい。ひんやりとした壁をしばし指先で確かめるように撫でてから俺は勝亦をうかがった。俺が好奇心に負けて色々してるのが面白いのか、勝亦の奴、わざわざ立ち止まってやがる。
「興味があるなら素材の解説でもしようか?」
「要らん」
勝亦の言い方にかちんと来て俺は素気なく返事した。そうか、と頷いて勝亦が歩き出す。今度は俺もちゃんと勝亦について歩いた。
ここが同じビルの中だとはとても思えない。誰もいない長く細い廊下が続いている。時折、影が過ぎるのは壁の向こうを何かが横切るからだと言う。青白かった勝亦の顔色は、この光のせいで余計に悪く見える。
直線に見えていた廊下は実は緩やかなカーブを描いていたらしい。光の加減でごまかされて真っ直ぐだと思いこんでいたようだ。気がつくと俺たちは振り返ってもエレベーターが見えないところに居た。へえ、曲がってたのか。振り向いてエレベーターが見えないことを確認してた俺は、勝亦に促されて壁の端にあるガードボックスに財布をかざした。……おいおい。一体何台ボックス設置してるんだよ。エレベーター降りてちょっと歩くだけでこれか。しかも特にドアがあったりする訳じゃない。ただの廊下のど真ん中だぞ。
「あの部屋に着くまでに七回チェックがあるかな」
俺が文句を言おうとしてたことに気付いたのか、あっさりと勝亦がそんなことを言う。ちょっと待て!
「七回だと!? んな、社長室に行こうってんじゃねえんだろ!?」
うちの会社役員は最上階からその二階層下辺りまでに個人的な部屋を持っている。その階層に足を踏み入れたことはないが、所長の自慢話によるとIDチェックも相当厳しいらしい。
だがここは違う。この階は開発部の管轄のはずだ。
「あんまり大きな声を出すなよ。一応、能戸は部外者なんだし」
「てめえが連れて来たんだろうが」
呆れるやら腹が立つやらで、ついつい怒鳴ってしまいたいところを堪えて俺は低い声で言った。くそったれ、勝亦。てめえ、どこまで俺を引っ張り回せば気が済むんだ。
「そうだっけ」
とぼけた顔で言い切ってからまた勝亦が歩き出す。さすがに付いて行くのもばからしくなり、俺は勝亦に背を向けた。
「あほくさ。そんじゃ、俺は帰るぞ」
「新しいシステマを見せてやろうと思ったんだけどな」
即座に勝亦が言う。俺は歩き出そうとしていた足をぴたりと止め、慌てて振り返った。勝亦がにやりと人の悪い笑い方をする。このやろう……。
「まだ出来てねえんだろが」
「過程とか、気にならないか? 僕なら気になるなあ。どんな風に作られた物を自分が売っているか、とか」
くそ、痛いところを突きやがって。俺はふん、と鼻を鳴らして廊下を再び進み始めた。冗談じゃねえぞ、まったく。文句言いまくりつつも俺は勝亦について歩いた。
青白い光の中に硬質な金属の扉が浮かぶように立っている。エレベーターからここまでそんなに距離はない。なのに何だ、この厳重な警戒ぶりは。たかだか廊下歩いて部屋に行くだけのことだぞ。しかも目的のドアが見えてからもガードボックスが二つ。もう、ここまで来ると警戒どころの騒ぎじゃねえだろ。
声を落とせと警告されてからの俺は、隣を歩く勝亦にだけ聞こえる程度の声で文句を言いまくった。なのに勝亦の奴はいたって平然としてる。こいつ、感覚がどっか麻痺してるんじゃねえか? そんな疑いを俺が抱き始めた頃、ようやく問題の扉が開いた。金属製のどうということもないありふれたドアが開いたその先は。
海?
「ほら、固まってないでさっさと来い」
細かな気泡がゆらゆらと立ち上る青い液体が俺の周りを取り囲んでる。いや、違う。青い液体の中に透明な壁に囲まれた通路に俺がいるのか。周囲はどこを見ても青。その液体の中に白い光が一定間隔で並んでる。さっきまでの廊下は乳白色の素材で出来てたらしい。だからこっちの色が透けて壁が青白く光ってたんだ。
「能戸」
勝亦の少し強い呼び声に俺ははっと我に返った。いかん。つい、見とれてしまった。水族館かよ、ここは。そんなことを言いながら俺は急いで勝亦のところに向かった。勝亦が呆れたように俺を見る。もしかしたら俺の反応が子供のようだとでも思っていたのかも知れない。
「これは浄化槽なんだ。あれは殺菌用のライトだ」
青い液体の中で光ってるライトを指差し、説明しながら勝亦は酷くゆっくりと進む。俺はその少し後ろを歩きながら黙って頷いた。青い液体の中で白いライトが光り、その周辺を大きな板状のものがゆっくりと移動する。勝亦曰く、液体を循環させるために底部を混ぜ返してるんだと。さっき廊下を歩いている時に過ぎっていたのは攪拌用の板の影だったらしい。
俺は本社ビルからは出てないんだよな。そう疑りたくなるくらいには周りの光景が非現実的に見えた。こんなので集中なんて出来るかよ。勝亦の説明なんて耳を素通りしちまう。
やがて通路が傾斜する。通路の行き止まりにはそこだけえらくぼろい鉄製の階段があった。どうやらこのフロアは四十三階までぶち抜かれているらしい。そう言えばエレベーターの階層を指定するボタンに四十三って数字はなかった気がするな。
階段の途中で思わず足を止める。俺は天井があるべきところを見上げて絶句した。
「卵……?」
青い液体の中を上に向かって進んでいくうちに、少しずつ液体の向こうの様子が見えてくる。ここからだと丁度、白い卵形のものが並んで中空にぶら下がっているように見える。ぶち抜きの四十三階の天井にはごく普通に明かりが灯っているのだろう。一定間隔で並んでいる白い卵が光のゆらめく青い液体に浮いているように見え、俺は何とも不思議な気分になった。
「ケースだよ、ただの」
こちらは足も止めずに勝亦が答える。ふうん、と一応は返事して俺はまた歩き出した。一面の青、光の揺らめく足元、宙吊りの卵、真っ白な壁と高すぎる天井。下手に真面目に観察してると眩暈を起こしそうな景色だ。
長い階段を上がり切ると透明な壁に囲まれた部屋に出た。非現実的な光景から、現実的な機械の置かれた部屋に景色が変わったからだろうか。さっきまで青い液体の中を自分が漂っていたって錯覚まで起きそうになる。そう考えて俺は慌てて首を振った。当り前じゃねえか。何メートルかは知らないが、この液体って相当深さがあるぞ。そんなとこを呑気に歩いて来れるはずがないだろ。息はどうすんだ、息は。そう考えつつ俺は改めて部屋の壁の向こうの景色を眺めた。この壁、透明度の高い素材で出来てるんだろうな。壁で仕切られてるってのに、まるで間に何もないように向こうの景色がクリアに見える。
下から見ると青い液体に白い卵が並んで浮いてるようにしか見えなかったが、この部屋から見下ろすと勝亦の言ったケースという意味がよく判る。卵を縦に半分に割ったような形の物が整然と並ぶ様を見て、俺は思わず壁に張り付いた。休日だからなのかな。この部屋には他には誰もいない。壁の向こうに見える不思議な光景の中で動いているのは微かに波打つ青い液体だけだ。
「この溶液は各ケースを循環した後、下の浄化槽に流れる仕組みなんだ。集められた溶液は不純物を取り除かれてまたケースを循環する」
淡々とした説明を聞きながら俺は目を細めた。だが光の加減かな。目を凝らしても並んでいるケースの中を窺い知ることは出来ない。下から見ると白かったケースも、表面は鉛色をしているのだ。縦半分に割れた卵の形、というのが一番近いか? 一つ一つのケースの大きさは子供用のベッドくらいかな。大人が身体を伸ばすと横幅はともかく、縦はちょっときついだろってサイズ。
ここが例えば俺の勤めるいつものオフィスだったら。これがごく普通の、俺にとって非日常的な光景でなかったら、すぐに卵のケースのところに行かせろとせがんでいたのかも知れない。だがこの時の俺は驚くのが精一杯だった。同じビルの中にまさかこんなもんがあるとも思わなかったし、何より勝亦がこれを見ても平然としてるのが酷く不気味だった。
目の前の光景に息を詰めていた俺はふと気付いた。そう言えば卵の間に細長い通路っぽいのがある。通路を目で辿った俺は顔をしかめた。ずっと向こう、俺たちが入ってきたドアの方に伸びた通路はあるところで別の通路に交わり、でもってその先がこことは違う場所に向かっているのだ。
このフロア、どんな構造してんだよ。ドアが幾つあるんだ? しかもよく見りゃ、ここだけじゃない。フロアの壁に沿って別のところにも部屋がある。でもこの部屋に繋がってるドアは一つきり、さっき来た道を通るしかここに来る方法はないように見えた。
「おい。ここって一体、何なんだよ」
透明な壁にへばりついたまま、俺は勝亦に声をかけた。振り返った俺を勝亦がやけに静かに見ている。
「試験機を製作するためのフロア、かな。ここは見学室だ」
だから見るだけなんだが、と言いながら勝亦が部屋の隅に寄る。そこにはシステマではない、ごく単純な機械が設えられていた。赤と青のボタンの並んだその横に、テンキーだけがある。何だそれ、と俺が訊ねる前に勝亦が言う。
「これはケースを動かす操作盤だ」
「……いつも思うんだが」
勝亦の前にある操作盤とやらを指差したまま、俺は眉を寄せた。
「何で俺が言いたいことが判るんだよ」
「そりゃあ、能戸がポーカーフェイスが苦手だからだろ」
要するに読みやすい顔してるってか。けっ。悪かったな。勝亦はわざわざ言わなかったが、言葉の端々に営業の癖してって匂いがすんだよ。こっちの機嫌が悪くなったことをすぐに見取って知らん顔するとこも実に可愛くない。
勝亦がボタンを押してテンキーを打ち込む。すると間近で何かが軋む音がした。何だ? 俺は慌てて音のする方を向いた。そこで目を見張る。
並んでた卵が動いてる!?
「試作機別にケースが分かれていてな。番号を指定するとそれが近くで見られるようになってるんだ」
そう言いながら勝亦が俺の横に並ぶ。俺は壁に手をついて足元で動く卵型のケースを凝視した。少し離れてるから判りにくいが、ケースごとに確かに番号が振られているように見える。俺は目を凝らしてケースの表面に書かれている文字を読んだ。あ、これ知ってる。I 3600 J。ちょっと前にかなり売れ線だったシステマの商品番号だ。次はI 3601 cherry。女性向けってことで鮮やかなカラーリングってコンセプトで開発されたんだが、システマの頭や瞳、爪をさくらんぼ色に染めたところで客は大して興味を抱かないらしい。うちの商品の中では今ひとつ売上も伸びなかった。
見覚えのある商品番号が続く。卵型のケースはまるで線路を行く電車のようにゆっくりと進んでいる。二列で環状になったレールの上を移動しているのだと勝亦は説明した。なるほど。電車みたいだっていう俺の感想は間違ってないわけか。で、ケースを横に動かすときは横二列のレールの上を動くんだと。縦横の組み合わせで自在にケースを移動させることが出来るらしい。まあ、それをするのは機械だけどと勝亦が笑う。俺は横目にちらっとだけ勝亦を見てから視線を戻した。
そしてゆっくりと一つのケースが近付いてくる。I 3604 Twinsの文字を確認した俺は思わず息を潜めた。自然と脈が上がる。くそ、何でこんなにどきどきするんだよ。授業で指された生徒じゃあるまいし。俺たちのいる部屋の一番近くで止まった卵型のケースを俺はじっと見下ろした。これじゃ中なんて確認できやしねえ。近いっつっても五メートルは離れてる。しかもケースの中はどういう訳か真っ暗で、表面に書かれた灰色の文字が少し浮いて見える程度だ。これで文字が黒だったら全然見えなかっただろう。
「見えねえよ」
仏頂面で言った俺に勝亦がはいはい、と笑って返事する。すっかりいつもの調子を取り戻したのか、勝亦はまるで子供のように俺をあしらってくれる。だが俺はそんなことに構っていられなかった。
そのケースの内部に光が灯る。ケースの中で照らし出されたものを見て俺は息を飲んだ。青い溶液の中で身体を丸め、横たわっているのは一人の少女に見えた。ケースの表面に浮き上がった商品番号がなければ、俺はそれをシステマと思えなかったかも知れない。
「な、なんだ。もう出来てんじゃねえか」
動揺を隠したつもりでも俺の声は勝手に上ずっていた。だが勝亦は不思議と俺をからかうことはなく、静かに隣に戻ってきた。じっとケースを見下ろして指差す。俺は勝亦の指の先を見て眉を寄せた。
I 3604 Twins RC1。ケースにはそう書かれていた。最後の文字を見取った俺は、その瞬間に理解した。これは試作機なのだ。恐らく実際に客に売る商品はこのままの形はしてはいない。勝亦の少し歪んだ顔が何よりそのことを物語っていた。寂しそうな、それでいて怒っているようにも見える不思議な表情だ。
「RCというのはリリースキャンディデートって言ってな。実際に製品化が確定する前に候補としてあげるバージョンのことだ」
勝亦の顔に浮かんでいた見慣れない表情はすぐに消えた。だが俺はしばらくじっと勝亦を見ていた。こいつがあんな顔するなんて珍しいってのもあった。でも本当は多分、本音を言うって判ってたんだろうな。目が離せなかったってのがある意味正しいかも知れない。
「本当はRC1がRTMになる予定だった。でも、方針が変わってな。結局はRC2が製品としてリリースされることに決定したんだ」
RTMというのは要するに工場行きって意味だ、と勝亦は小声で補足した。
「つまり実際に俺らが売り歩くのはこいつじゃないってことか」
訊かなくても判っていたのに俺は勝亦にそう訊ねた。ばかばかしい話だとは思う
が、膝を抱えて丸くなったシステマを見下ろした勝亦がとても残念そうに見えたんだ。
勝亦は俺の質問には答えなかった。
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完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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