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二章

本当の商品

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 雨傘を傘立てに放り込んでにっこり笑顔で店員に挨拶。ついでにご機嫌伺いなんぞして、俺はとある営業先の店長が出てくるのを待った。

 待ちに待った新製品のリリースは梅雨のど真ん中のとある日に行われた。前評判は上々、客の食いつきもすこぶるいい。うちの営業所長はいつも以上の売上に珍しく上機嫌ときた。

「お待ちしておりました! さあ、どうぞ」

 にこにこ笑顔の店長が店の奥から出てきて俺にそう言う。おいおい、どっちが客だかわかんねえよ。そんなことを思いつつもいつもの通りに笑顔を作って営業開始。ああ、うぜえ。

 足を棒にして稼げ、なんて古臭いせりふで所長は俺たちに毎朝はっぱをかける。新製品が出てから一週間、それがずっと続いている。うざいったらないよな。あれだけ俺たちを毎日こき下ろしてた所長がだぞ。一気に手のひら返した日には、気持ち悪いとしか言いようがないだろ。

 それでもやっぱり中條先輩の成績は群を抜いていて、契約結んだ客の数は俺とは桁違いだ。いや、やっぱ中條先輩は凄いわ。俺も江崎も感心しきりで、でもそんな俺たちも酒飲んでる余裕がないくらいに営業に追われてた。

 本当は多分、売れ行きが好調だと喜ぶべきなんだろう。それは俺も判ってる。だが俺は件の製品版システマが初めてうちのオフィスに搬入された時、やっぱり落胆しちまった。ああ、勝亦の言ってたことは正しかったんだってな。

 営業所にお目見えしたシステマは、あの日、俺が見たものとは全く違っていた。姿形はこれまでに出ているうちの製品とそう変わらない。子供ほどのサイズだ。男女で揃ってはいるらしいが、俺の目にそれはさして珍しいものには見えなかった。あの時に感じた衝撃も何もない。ああ、これが新しい製品なのかと心のどこかが妙に冷えただけだった。

 そんな新製品がリリースされてからたかだか三日。その三日の間に営業所内はがらりと変わった。とにかくI 3604 Twinsを持ってこいと客がせがむのだ。前評判は確かに高かったが、何故ここまで売れるのか。その謎について考えつつ俺はいつも以上に手を抜いた営業トークを展開した。……正直、やってられっかよって気分だ。

 相手は笑顔を見せながら新しいシステマについて根掘り葉掘り聞いてくる。その度に俺も仕様書をご覧下さいとかわすんだが、それで客は諦めたりしない。要するにシステマの内容を仕様書を見るのではなく、俺の口から聞いて理解しようとしてるんだな。阿呆か。俺は開発者じゃねえんだよ。んな、商品のことを隅から隅までいちいち知ってる訳ねえだろうが!

 どうやらこのI 3604 Twinsって奴は客の間でもかなりの噂になってたようだ。そのことはリリースされた直後に俺にもはっきりと判った。そうでないとこの売れ方は説明出来んだろ。普段はのんびり適当に営業してる俺が、毎日残業までする始末だ。ああくそ、飲みにいきてえ。

 こっちがどれだけ手抜きの対応をしても客はお構いなしで話を振ってくる。中でも特に多いのは商品を優先的に回してくれって話だ。だが残念ながら俺だけじゃなく、営業の連中は複数の客を持っている。その上、工場から上がってくる商品の数には限りがある。一人あたりどれだけの注文を取ることが可能かは、実は最初から決まってるんだな、これが。まあ、その上限設定が役に立つのは営業所始まって以来のことらしいが。

 成績優秀者である中條先輩と俺の商品販売限界数には一桁の差がある。ま、当然だな。普段の成績を考えたらそれでも差が少ないくらいだ。そんでもって営業所はうちだけじゃない訳だ。それを考えると市場にどれだけの数が出るか、俺には見当もつかん。

 でも何かが気に入らない。俺は客を適当にあしらってその店を出た。傘立てから取り上げた傘を片手で開く。お願いしますよ、という店長の声に押されるようにして俺は足早に店を後にした。

 勝亦の奴から聞いた話では、正式に商品化されたシステマは、俺が見たあのシステマとは別に製品候補に上がってたものらしい。そのことを話したあの日から今日まで、勝亦は珍しく俺の前に姿を現していない。俺からも連絡を取っていないから勝亦が今何をしているのかは判らないままだ。もしかしたら新しい製品の開発に着手しているのかも知れないし、それとも少しはのんびりしているのかも知れない。そんなことを考えつつ、俺は雨の中を足早に歩いた。

 社用車の中で一息。鞄から引っ張り出したボトル入りの茶はぬるくなっちまってる。ジャケット脱いで汗を拭き、とりあえず俺は乾ききった喉を潤した。このくそ蒸し暑い中で、何で喉だけ律儀に渇くかな。湿気がこれだけあれば、呼吸するだけで肺から水分取り込んでも良さそうなもんじゃないか。それとも何か。出してる汗のが摂ってる水分より多いって……まあ、実際、そうなんだけどな。

 エンジンかけて空調入れ、涼しくなったところで俺は鞄から携帯端末を取り出した。営業表を呼び出してさっきの店をチェックする。契約数書き込んで、商品搬入予定日を書き込む。うわ、やっぱり今日も残業かよ。残りの客数見た俺はうんざりしてため息をついた。

 自慢じゃないが、俺は特に仕事が好きって訳じゃない。要領よくやって、出来れば楽して金だけ貰いたい。なのにちっとも上手く行かないんだよなあ。内容のことなんざどうでもいいと思ってるのに、勝亦の奴がシステマの解説をしまくってくれる。営業成績なんてそこそこでいいじゃんと思うのに、所長は目を吊り上げて俺を説教する。中條先輩も江崎もそれなりに上手くやってるってのに、何で俺は駄目なんだろう。

 あ、やばい。のんびりしてる暇なんてなかったんだ。俺は慌てて車を出した。

 疲れ果てて仕事を終え、帰った家でビールの一本でも飲めれば上出来って日々がしばらく続いた。最初は家に帰ってベッドに直行してた俺も、日が経つにつれて忙しさに慣れていった。I 3604 Twinsの売上は相変わらずで、爆発的って言ってもいい勢いで市場に流出してる。マスメディアで商品のことを取り上げられることも多いらしい。宣伝費が浮いていいねえ、と笑ってたのは確か広報の奴らだったかな。奴らが特に動かなくてもマスメディアが勝手に取り上げてくれるんだと。

 I 3604 Twinsがリリースされて二週間。そろそろ梅雨も終わって本格的な夏が始まるって頃になっても俺の気分はすっきりしなかった。営業成績上がったら給料増えていいじゃないですか、なんて江崎の言葉も頭を素通りする。いつもなら俺も諸手を挙げてその意見に賛同してたんだろうがな。何せ、俺たちが苦労しなくても客の方から売ってくれって煩く言われるんだ。営業努力が微塵も関係ないなんて、こんな笑える話もないだろう。

 もちろん先回りして情報を流したってのもあるんだろう。所長が必要以上に喜んでるのも多分そのせいだ。きっとあれだな。上司に誉められでもしたんだろ。でなけりゃ、どう見ても手抜き営業しかしてねえ俺はさすがに叱られてるだろう。

 そんな時だった。俺は終業時間を超過して帰社し、警備室で所定の手続きをしてからオフィスに向かうエレベーターに乗ろうとした。降りてきたエレベーターの扉が開き、乗り込もうとしたところで俺は動きを止めた。一人きりでエレベーターで降りてきた勝亦が俺と同じように驚いた顔をしている。

「久しぶりだね」
「おう」

 いつも通りに返事した俺の脇を抜けた勝亦がじゃあ、と歩いて行く。俺は慌てて振り返って勝亦を呼び止めた。警備員の詰める部屋の前を過ぎようとしていたところで勝亦が足を止める。

「ちょっと訊きたい事があるんだが」
「今すぐ?」

 もしかしたらリリース直後から別の商品の開発でも始まったのか。そう俺が思っちまう程度には勝亦の顔色は冴えない。おまけに白衣着たまんまじゃねえか。そんな格好で電車に乗ろうってのか?

「いいから来い」

 そう言って顎をしゃくってから俺はエレベーターに向き直った。タイミング悪すぎだ。何で乗ろうとしたとこで閉まるかな。どうやらエレベーターの扉が閉まったところでたたらを踏んだ俺を見ていたらしい。勝亦が格好つかないな、と笑う。相変わらず嫌な野郎だ。

 社員が専用で使えるエレベーターは二基だ。それ以外のエレベーターはテナントの入った六階で乗り換えることになる。行ってしまったのとは別のエレベーターが下りてくるのを待っている間、俺たちはどちらも口をきかなかった。俺の方は訊きたいことは山ほどあるんだがな。どうも人の目が気になって切り出せない。勝亦はそんな俺に言いたいこともないのか、やっぱり黙ってる。

 無言でエレベーターに乗り込んで扉が閉まったと同時に勝亦が言う。

「売れてるらしいな」
「あー? ああ、新しい奴か?」

 わざわざ訊き返さなくても新製品の話に決まってる。なのに俺は何となく訊き返した。するとああ、と勝亦が頷く。

「そうらしいな」
「何だ。売れているのに浮かない顔して」

 不思議そうに勝亦が言う。俺は深々とため息をついて肩から力を抜いた。くそ暑い中を歩き回ったおかげで足は痛いし、身体はだるい。

「お前、俺に嘘を教えやがっただろう」

 言いたい放題に愚痴を吐いてから俺は勝亦にそう言った。すると勝亦が怪訝そうに眉を寄せる。ばかやろう。そんな顔したって無駄だ。

「お前が俺に説明したのと、新しい奴って違うじゃねえか」
「へえ」

 感心したような声を出して勝亦が薄く笑う。その笑い方に引っかかるものを感じ、俺は続けて文句を言おうとしていた口を閉じた。何だ? いやに不気味なんだがな、その笑い方。何だよ、と俺が声を荒らげたと同時にエレベーターのドアが開く。

 誰が聞いているかも判らない、こんなところで文句をぶちまける訳にもいかない。俺はまばらに人の残るオフィスで手早く営業日誌を書き込んだ。慌ただしく作業する俺の後ろで勝亦はじっと待っている。隣に座る江崎にお疲れ、と声をかけてから席を立つ。

「下で待ってても良かったじゃないか」

 作業を終えてジャケットを取り上げた俺に勝亦が呆れたように言う。うるせえ。うだぐだ言うんじゃねえ、と小声で勝亦を脅してから、俺はオフィスを出た。こんなとこで落ち着いて話してられない。かと言って、勝亦が言うように地下で待たせておくって気にはならなかったんだよ。逃げられたらしゃくだしな。大体、白衣着たままどこ行くってんだ。

 勝亦を促して、俺は開発部に向かった。何で下に行かないのかって? 決まってんだろう。俺は確認したいことがあるんだよっ。

「で? 僕が嘘を教えたって?」

 不思議なことに開発部一課には誰もいなかった。勝亦が明かりのスイッチを入れる。すっかり暗くなっていた部屋はすぐに明るくなった。がらんとした部屋をぐるりと見回してから俺は勝亦の席に近づいた。

「そうだ。てめえが言ってたのと、リリースされた奴、まるで違うだろう」

 勝亦からさんざっぱら聞かされた解説は多分あのシステマの内容だ。あの日に見たシステマのことを思い起こしながら俺は訊ねた。勝亦は自分の席に腰掛けてじっと俺を見上げている。

「引っ張り出された会議で妙なこと言われたんだ。2wayとは資料のどこにも書いてないってな」

 だからえらい恥をかいてな。俺はしかめっ面でそう言った。すると勝亦がなるほど、と頷く。ばかにするかと思ったのに勝亦はやけに真面目な顔をしている。

「なのに2way方式を採用しているって勘違いしてる客が殆どだ。これはどういうことだろうな?」

 そう。俺が一番腹が立っているのはそこだ。何で客達は口を揃えて勝亦の説明した通りのことを言うんだろう。二台で一台、大きな仕事を分けてさせるんですね、と納得顔で頷いていた客達の顔が脳裏を過ぎる。その方式ならこれまでよりずっと速く作業が進む。客達はそう理解しているんだ。

 もちろん前振りとして流した情報もまずかったんだろう。後で俺も確かめたが、いかにも2wayですって言わんばかりの情報だったしな。だがしかし、所長が意図的に流したその情報ですら、はっきりと2wayとは明記されていなかった。

 俺たちゃ総出で客を騙くらかしてんじゃねえか? それが売り上げ絶好調、システマの新商品に対する俺の感想だ。

「能戸の意見はある意味では正しいな。そう、リリースされたあの商品は2wayじゃない。そう見えるようにされてはいるが、全く違うものだ」

 淡々と勝亦が言う。俺は目を吊り上げて怒鳴りつけた。

「最初から俺を嵌めるつもりだったのか!?」
「違う」

 憤りに任せて喚いた俺に勝亦がぴしゃりと言う。あっさりと否定されて俺は口をつぐんだ。

「僕が能戸に説明した時まではRC1が製品化されることになっていたんだ。そのつもりで僕たちも動いていた」

 勝亦の声は少し掠れている。喋りながら少しずつ俯く勝亦を俺は見下ろした。こいつ、こんなに小さかったっけ。そんなことを思ってしまうほど、勝亦は消沈して身体を縮こまらせている。

「通常、新製品の開発は複数のチームであたることになってるんだ。RC1は僕らのチームが開発したものだ」

 複数の試作機を作ることで選択にも幅が広がるから。それは確かに道理だ、と俺は頷いた。商品開発の際、幾つかの候補作を作るってのは先に勝亦が言ってたことだ。俺もその方がより多くの可能性が生まれると思う。たった一つきりのものを候補にしてストレートに商品にしちまうより、チームごとに競わせた方がはるかに品質が向上するだろうしな。企業の上の奴らがそう狙ってるってのも頷ける。

 勝亦たちのチームが開発したI 3604 Twins RC1……くそ長いな。略してTwins RC1か。で、本当はTwins RC1が正式に商品化される予定だったんだそうだ。工場にも発注書を送り、材料が揃い、さあ商品を作りましょうって段で急に変更がかかったらしい。

 生産発注なんて冗談じゃ出来ないし、現に工場に勤める連中は変更通知を受け取って泡を食ったらしい。Twins RC1はRC2とはまるで別物だ。用意しなきゃならない素材だってまったく違う。だからおいそれと変更なんてしないでくれ、と工場長が泣きついてきたと言う。

 慌てたのは勝亦たちだった。何しろ勝亦たちは件の工場長の話で初めて方針の変更を知ったのだから。

「確かにRC1はRC2に比べると製造コストがかかる。でも僕たちはだからこそ、ぎりぎりまで案を詰めて何とかあれを作り上げたんだ」

 俯いてしまった勝亦を見下ろしていた俺は何も言うことが出来なかった。だからあの時、勝亦は俺にあれ以上の説明はしてくれなかったのだ。

「……何で急に変更になったか知っているか?」

 そう俺に問いかけながら勝亦が顔をあげる。質問されたことで俺はようやく喋るきっかけを得て答えた。んなもん、判るはずねえだろ。我ながら驚くくらい乾いた声が出る。俺はどうやら勝亦の話を聞きながら緊張してるらしい。自分らしくない声を聞いて俺は顔をしかめた。そんな俺に勝亦が力なく笑いかける。

「コスト削減のためというのがその理由らしい」
「要するに何か? 金がかかるからあっちにしたってことか?」

 大企業なのにせこい話だな。俺は呆れた気分でそう付け足した。すると勝亦が小声で笑ってため息をつく。疲れきった顔で俺を見てから勝亦はさりげなく視線をずらした。
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