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三章

睦月が俺の部屋にいる

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 真っ白なシャツを着た睦月が目の前にちょこんと座っている。残念ながら二台は出せないのだよ、と言っていた開発部長の穏やかな笑みが脳裏を過ぎる。

 嘘だろ。何度見ても俺はその光景が信じられなかった。ぐっちゃぐちゃに散らかった俺の部屋の真ん中に睦月がいるんだぞ。

「あー……えっと、お茶とか飲むか?」

 情けないくらい上ずった声で俺は言った。しばらく部屋の様子を見回していた睦月が黙って首を横に振る。あ、そう。喉は渇いてないか。そりゃそうだよな。さっきまで外の喫茶店で茶をたらふく飲んでたんだもんよ。

 事の始まりは開発部長の言葉だった。正直なところ、あのおっさんが考えてることなんざ俺には判らねえ。でも言われたことそのものはとても魅力的に思えた。これ以上のチャンスはねえだろう。何せシステマを外に連れ出してもいいってんだから。

 そう。開発部長は俺にそう言ったんだ。聞き間違いなんかじゃねえ。現に開発部長は俺と一緒に例の調整室に行ったんだからな。あのカードを俺にくれた時には、こいつ気が触れたんじゃないかとか思ったが。

 まだ俺の頭は混乱してる。あそこで会話したような気もするんだが、殆ど内容を覚えてない。二人をケースから出そうとした俺を開発部長が止めたのは覚えてる。二台は貸し出し出来ないって言われて……そう。だから俺は睦月だけをケースから出してシャワーを浴びさせて、着替えはなかったから下のテナントに慌てて買いに降りて、それを着せて……。

 頑張りたまえ。なんてありきたりのせりふで開発部長は俺を部屋から送り出した。これだけは持っていけ、と渡されたインターフェイスの片割れは俺のシャツのポケットにしっかり納まってる。もう片方は睦月が着けたままだ。

 頑張るって何を頑張れってんだ。何で俺はあのおっさんの言うことをほいほい聞いてるんだ。大体だな。睦月って妙に目立つんだよ。だから喫茶店で時間潰していたんだが、すぐに居たたまれない気分になっちまった。だからってストレートにうちに連れてくるのもどうかと思うだろ。まるで見合いの席ですかって感じでお互い黙りこくったまま二時間半。結局、コーヒー何杯飲んだか忘れちまったぞ、俺は。

「能戸さん」
「は、はい!?」

 考え事をしていた俺は呼びかけに慌てて返事した。静かな面持ちで正座していた睦月がじっと俺を見つめてる。

「暑くないんですか」
「あ、そうだな! クーラー入れた方がいいよな!」

 あははは、と空笑いした俺は、散らかったものを慌てて足でかき分け、部屋の隅に放り出してあったリモコンで空調のスイッチを入れた。ほどなく涼しい風が部屋に降りてくる。あ。よく見りゃ睦月のやつ、汗だくになっちまってるよ。この時期に閉め切った部屋にいればそりゃ汗くらい出るよな。って、俺もじゃん! 

 うわあ、情けねえ。睦月が座れるスペースを何とか確保したのはいいが、それで部屋は片付いた訳じゃない。散らかってた物を足で退けただけだ。俺はばかみたいに突っ立ったまま、頭を抱えて呻いた。

 何してるんだ、俺は。見合いしてる訳じゃねえんだぞ。もちろん彼女を部屋に招待したって訳でもない。相手はまだ世間がよく判っていないただの……。そこまで考えて俺は恐る恐る振り返った。相変わらず正座をしたまま睦月がじっと俺を見つめている。どうでもいいが、何だってこう、睦月とか時雨って真っ直ぐに人を見るかな。別に悪いことをしてる訳でもないのに居たたまれなくなる見つめ方ってどうよ。

 思わず目を逸らしてから俺は必死で考えを巡らせた。今はこの状況に緊張している場合ではない。本当は時雨も一緒の方が良かったのだが、開発部長のあのおっさんの権限では片方しか外に出せないらしい。開発部長の言った賭けの期間は今日と明日の二日間だけだ。俺が負けた場合、週明けには睦月は元通りケースに戻さなければならなくなる。

「よし。とにかくだな」

 まずはこの部屋を片付けよう。俺は睦月に頼んで一緒に部屋を片付けることにした。片付けついでに余計な荷物を処分すると、意外と部屋が広いことが判る。……まあ、ごみは山のように出たがな。

 ディスクだのを納めておく収納家具なんぞないから、部屋の隅に強引に積む。掃除機をかける。要らないものを端からごみ袋に突っ込む。睦月の目につくとやばそうなもんは手当たり次第にダンボールに放り込む。そりゃあな。俺だってエロビデオのディスクの一つや二つは持ってますよ。って、うわ!

「何ですか。これ」

 掃除機をかけた後、拭き掃除をしていた睦月が手にしたものを見つめて首を傾げる。どうやら積んでいた荷物の間からはみ出してたらしい。俺は慌てて睦月からそれを奪い取った。今は懐かしいレア物グラビア雑誌。俺が学生の頃に友人から強引に譲り受けた代物だ。

「保存しますか?」

 焦って雑誌を取り上げた俺に睦月が淡々と訊く。どうやら表紙の写真を視覚から読み込んだらしい。

「しなくていい!」
「ですが、その状態のままでは劣化が進みます。大切な写真なら尚更、データ化して保存することをお奨めします」

 生真面目な顔で言った睦月に俺は降参の意を表して片手を上げてみせた。睦月はこれで俺をからかってるつもりはないんだよな。深々とため息をついて俺は手にしていた雑誌をダンボールに放り込んだ。

 ダンボール箱にガムテープで封をしてから一息つく。その頃にはまるで別の部屋のように俺の部屋は綺麗さっぱり片付いていた。拭き掃除に励んでいた睦月も今は手を休めている。

 こうして見ると俺の部屋って何もないのな。テーブル一つありはしない。あるのはモニタとゲーム用の端末、積み重なったゲームソフト、それにやばいもの詰め込んだダンボール。それっきりだ。スーツなんかは備え付けのクローゼットの中に入れてあるし、下着やシャツなんかも全部その中だ。睦月に言われて窓硝子も拭いたために俺の部屋は妙に明るくなっちまってる。ここに住むようになってそんなに経ってない気がしたが、意外と無駄な物って増えるもんだな。玄関の脇にはごみのでかい袋が三つほど置かれてる。

 いやあ、俺の部屋ってちゃんと床があるんじゃん。なんて無邪気に喜んでいる俺とは対照的に睦月はいつもながらの穏やかな表情だ。感情がない訳じゃないが、俺みたいにストレートに顔に出ないらしい。

「手伝ってくれてありがとな」

 何となく他に言いようがなくて俺は素直に礼を言った。すると睦月が少しだけ首を傾げる。どうやら言われた意味が理解出来ないらしい。そうか。確かに俺はこれまで睦月に礼を言ったことはなかったかも知れない。

「掃除だよ。掃除。睦月が手伝ってくれたから楽に済んだだろ」
「命令として受理しました」

 当り前の顔で睦月が答えるのを聞いて俺はがっくりと肩を落とした。違う、俺は睦月に命令した訳じゃない。頼んだだけだ。そう言いかけたところで俺はぐっと堪えて言葉を飲み込んだ。いかん。ここで感情をぶつけたところで睦月には理解出来ないだろう。睦月にしてみれば命令を受理して実行するのは当り前なんだから。

「どっちでもいいんだって。とにかく助かったよ。ありがとう」

 俺は睦月の目の前に座って視線を合わせてから、もう一度礼を言った。するとしばらく考えるように黙ってから睦月が頷く。どうやら納得してくれたらしい。ほっと息をついて俺は睦月に頷き返した。

 その日の夕方近くになってから俺は睦月を連れて買い物に出かけた。さすがに街中をインターフェイス着けて歩くのはまずいだろう。それに俺はシステマとしての睦月と歩くつもりなんざさらさらない。そんな訳で睦月はインターフェイスなし、俺もごく普通の格好で出かけることになった。

 地下鉄に乗るだけで案の定、睦月の奴は周囲の視線を浴びまくる。まあ、ついつい見ちまうくらいに見目が整ってるのは俺も認めるよ。だがどうも夕方ってのがまずかったらしい。少し混んだ電車の中で唐突に睦月がぐるん、と振り返る。……あーあ。幾ら睦月が可愛いからって痴漢はないだろう、痴漢は。特に恥ずかしがるでもなく、何ですかとじっと相手を見つめた睦月の視線に苛まれたのか、犯人であるらしい中年おやじはこそこそと別の車両に移動した。睦月、天晴れ。きっとあのおやじも今ごろ大反省してるだろ。比喩でなく、本当の意味で邪気のない睦月の視線ってある意味ではすげえ力があるのな。

 洗濯しても復活しそうにないカーテンを新調しようと、俺はまず最初にカーテンやらリネンやらが置いてある店に向かった。日用雑貨を豊富に取り扱っているテナントビルに入ると同時に睦月が唐突に足を止める。驚いた俺が声をかけてもじっとして反応しない。

「睦月?」

 通行人の邪魔かな、と不安になりながら俺は睦月に声をかけた。しばしの後、睦月が俺を見上げる。

「保有データのサーチが完了しました。以降、商品価格の比較対照が可能です。照合可能データ保有店舗数は百三十八です。データ保存エリアは」

 どうやら店の内容をぱっと見て調べ上げたらしい。俺は淡々と言う睦月の口を慌てて手で覆った。傍を通りかかった若いカップルが怪訝な目で睦月を見て過ぎる。あはは、と俺はその二人に愛想笑いしてから睦月にこっそり言った。

「そういうのはしなくていいから」

 小声で言った俺のせりふが効いたのか、睦月は少し眉根を寄せつつも口を閉じた。どうやら判ってくれたらしい。ほっと息をついて俺は睦月を連れてゆっくりとフロアに向かった。

 睦月に言わせるとインターフェイスがあれば入店と同時に瞬時にネットワークにアクセスすることが可能だという。大抵の店の入り口にはシステマ用の中継ポイントが設えてあるらしい。へえ、と感心した俺に睦月は小声で付け足した。

「市場が賑わえばそれだけポイントは増えます。この地域は特にIIS本社に近いこともあって、あらゆる箇所に設置されています」

 つまり俺たち営業がシステマを売れば売るほど中継ポイントは増える、と。まあ、そんなとこかな。睦月に言われるまでうっかり忘れてた俺も悪いが、生憎と今日は仕事をしに来た訳じゃない。俺はしかめ面で睦月にもういい、と言った。すると大人しく睦月が口を閉ざす。

「今日はそういう話は抜きにしたいんだよ。判るか? 仕事の話はしたくねえの」

 だからシステマもなし。そう俺が付け足したところで睦月が何事かを言いかける。だが俺はそれを制していいんだってば、と強く言った。俺の口調に驚いたのか、睦月が目を軽く見張る。

「普通に買い物しよう。普通に。な?」
「普通、ですか」

 えらく平坦に睦月が言う。だが俺はさして気にせずに頷いた。睦月にしてみりゃ初めてだもんな。戸惑っても不思議はないか。心配するなって、と励ますつもりで睦月の肩を叩き、俺は歩き出した。

 カーテンを選んでテーブル売り場に向かう。うん。テーブルくらいあってもばちは当たらんだろ。試しにどれがいいと訊ねると、しばし考えた後、睦月は丸く白いテーブルを指差した。へえ。シンプルなのが好きなんだな、と笑みかける俺に睦月は少しだけ首を傾げてみせた。

 荷物を抱えた俺を時折、睦月が振り返る。……何だ。俺がいちいち言わなくても人に気を遣うっての、理解してるじゃないか。そうだよな。睦月は生身なんだし、人らしくなるなんて簡単なんだよ。そんなことを考えながら俺は上機嫌で次の店に向かった。

 休日で賑わう街中を俺たちはのんびりと歩いた。睦月が時折、物珍しそうにショーウインドウに寄っていく。だが明るく笑ったりといったことはしない。静かに対象を見つめているだけだ。どうも感情の出し方が判らないらしいんだな。何度か思ったままを言ってみろと促してみたが、駄目だった。

 日が暮れてマンションに戻った俺は睦月に料理が出来るかと訊ねてみた。荷物を解いていた睦月が手を止めて少し考えるように黙る。

「どんな料理ですか。現在保有しているレシピデータはフレンチ、イタリアン、和食です」
「いや、そういうのじゃなくて」

 どう言えば判るんだ。誰も店で出されるような料理を食いたい訳じゃないんだ。俺は苦労しつつ何とか意志を伝えた。すると睦月がちょっとだけ眉を寄せて黙る。どうやら困っているらしい。

「アレンジメントのデータは保有していません。ネットワークで検索しますか?」

 ああ、違うんだよ。俺は別に完璧な料理を望んでるんじゃなくて。俺は頭をかいて言葉を濁した。くそ、何て言えば判るんだ。

「データとかネットワークとかはいいんだってば。そうじゃなくて」

 置いたばかりのテーブルの傍に座り、睦月がじっと俺を見つめている。その視線から逃げるように目を逸らして俺は小声で言った。

「……頼むよ。そういうのは止めてくれ」

 俺は睦月にシステマであることを望んではいない。そう言って俺はため息をついた。これでも営業部にいるんだ。システマが欲しければ格安で手に入れることくらい出来る。

 しばし黙った後で睦月が言った。

「でも私はシステマです」

 いつもなら穏やかな綺麗な声だと思ったのだろう。だがこの時の俺には睦月の声が酷く冷たいものに思えた。慌てて目を戻した俺はそこに睦月のいつもの表情を見止めて言葉をなくした。

 違う。だってお前はこんなに人にそっくりじゃないか。そう言いかけて止める。そうだよな。すぐに理解してくれなんて無茶な話だよ。何しろ睦月はずっとケースの中にいたんだ。人の大勢いる街に出たのも今日が初めてだろうし、電車に乗ったり喫茶店に入ったりも初めてだっただろう。そんな睦月にいきなり人になれなんて、そりゃあ無理ってもんだ。

 俺は自分の考えに納得して頷いた。そもそも開発の連中が睦月を人扱いするはずがない。あいつらは根っからのシステマ好きだからな。そんな奴らにこれまでずっと囲まれてたんだ。もし、開発の奴らが人として睦月に接していたら違っていただろう。考えを巡らせていた俺は顔をしかめた。もしかして開発部長はだから賭けなんて言い出したんじゃないか? 絶対、無理だって思ってたからこそ、あんなに簡単に睦月を連れ出させてくれたんじゃないのか。そう考えると開発部長の行動も納得がいく。

 そうはいくか。俺は脳裏に浮かんだ開発部長の顔を追い払った。睦月は誰が何て言おうと生身の普通の……。

「能戸さん。大丈夫ですか? 具合が悪いなら休みますか?」

 黙りこんで俯いた俺を気遣ったのだろう。睦月がそっと話し掛ける。ほらみろ。こうして気を遣ったりすることが出来るんだぞ。下手な人間と比べりゃ、よほどちゃんとしてるじゃねえか。

「大丈夫だ。ちょっと考え事をしてただけだから」

 笑顔で睦月にそう答えてから俺はふと気付いた。こんな風にごく自然に笑ったのっていつぶりだろう。そういえば近頃は営業に出て愛想笑い、飲みに行ってばか笑いくらいしかしたことがない気がする。睦月や時雨と一緒にいる時だけ、俺はこんな風に笑ってるんじゃないだろうか。

 ゲームを一緒にして、本を読んで、時々は冗談を言う。些細なことなのに何で俺はあんなに楽しいと思っていたのだろう。睦月も時雨も表情には乏しいが、それなりに楽しんでいたような気がする。

 睦月は普通の女の子だよ。その辺にいる女の子とどこが違うってんだ。

「飯、作るか」
「え、でも」

 睦月が戸惑いの声を返す。俺は大丈夫だと笑ってキッチンに向かった。後ろからついてくる睦月に言う。

「俺が作るから手伝ってくれ」

 さあて。何年ぶりかな。まずは材料を揃えるところからか。近頃は外食で済ませてたから、冷蔵庫はビールを冷やすだけの倉庫みたいになっちまってるが大丈夫だろ。全部洗わなきゃならんだろうが、包丁もあるし食器も一応はある。簡単な飯くらいなら作れるだろう。算段しながら俺は睦月の手を引いて再び外に出た。
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