システマティックな少女と一般サラリーマンな俺

伊駒辰葉

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三章

カレーと水族館、悲しい笑み

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 出来た料理を皿に盛って、二つ並べたダンボール箱を挟んで向きあい、プラスチックのスプーンで一口ほど食ったところで睦月が言う。

「カレー……」
「おう。カレーだ」

 俺はビールを飲みながら頷いた。しばらく振りに使ったからなのか包丁がろくに切れなくて困ったが大丈夫だろ。見目は悪くても味さえ良ければいいんだし。じっと皿を見下ろして黙っている睦月のことを不思議に思いながら、俺は試しに自分の皿のカレーをひとすくいして口に入れた。そこで俺は目を見張って動きを止めた。こ、これは。

「悪い」

 しまった、味見をすればよかった。すげえ味が薄いんでやんの。でも辛さだけはやたらと……おっかしいなあ。インスタントのルーは使ったが、学生の頃と同じように作ったつもりだったんだがな。
 うあー、まずったなあ。そう言ってもう一度詫びた俺をじっと見ていた睦月が、ふと表情を緩める。お?

「能戸さん、面白い顔をしています」
「何だよ。俺の顔見て笑いやがったのか」

 即座に言い返して俺はそっぽを向いた。こっそりと伺い見た睦月は間違いなく口許に微かな笑みを浮かべている。初めて睦月の笑顔を見られただけで俺は妙に満たされた気分になった。カレーはまずいけどな。

 笑いながらまずいカレーを平らげて食器を片付け、俺はダンボール箱にチェス盤を乗せた。ビールを飲みながら小さな駒を並べる。睦月も一つずつ真面目な面持ちで駒を乗せていく。手加減しては貰ってるんだが酒のせいかな。一勝も出来ない。でも俺は上機嫌で睦月と何度も勝負した。

 チェスに飽きたところで交替でシャワーを浴びる。部屋の中でいきなり睦月が服を脱ごうとした時には慌てたけどな。まあ、それ以外は特に何事もなく夜が更けた。腰付近まである睦月の髪はもう乾いている。

「おやすみなさい」

 ぶかぶかのパジャマを着た睦月が挨拶して軽く頭を下げる。裾も袖も余りまくってるな。やっぱりけちなことせずに買った方が良かったんだろうか。そんなことを思いつつも俺はおやすみ、と挨拶を返して部屋を出た。暑いからドアを開けておくぞ、と言おうとして俺は口を閉じた。ベッドに入った睦月は既に目を閉じている。毛布を抱えて丸くなった睦月を俺はぼんやりと眺めた。一応、こっちの部屋も掃除はしたんだが寝にくくないかな。だが心配はいらなかったようだ。ほどなく睦月は穏やかな寝息を立て始めた。

 音を立てないように気をつけてリビングに戻る。今日は俺はこっちで寝ることにしたんだ。さすがに一緒の部屋ってのは気が咎めるしな。いや、俺にだって理性くらいあるぞ? 幾ら睦月が可愛いからってまずいだろ、それは。

 妄想終了。俺は強制的に頭を切り替えるために端末を立ち上げた。メールをチェックしてため息をつく。特に重要なメールは着ていない。二、三通ほど返事してから俺は端末の電源を落とした。

 そういえば睦月は食事を摂るのは初めてだと言っていた。茶やら水やらは実験中に飲んだりするらしいんだけどな。普段はケースの中だから食事は必要ないんだと。さすがに生まれて初めて食ったのがあれじゃ、ちょっと可哀想だったかな。そういえばベッドで寝るのも初めてなのか。その割にすぐに寝ちまったとこを見ると、案外と睦月って大物かも知れないな。

 俺はダンボール箱を片付けて、あらかじめ運んでおいた予備の布団を敷いた。要するに気にしなけりゃいいんだよ。こっちがシステマとして扱わなきゃ睦月だってそのうち忘れるだろ。明日、もっと楽しいところに連れてってやればいいんだよ。そうだ。遊園地なんてどうだろう。あ、でも遊園地のアトラクションってシステマ使ってるのが多いんだよな。下手なところに連れてったら逆に意識させちまうか。じゃあ、プールとか。……しまった。睦月のどころか自分の水着も持ってねえ。

 ああでもないこうでもない、と口の中で呟いてから俺は腕組みをして座り込んだ。今時、システマを導入していない娯楽施設は殆どない。特にこういった人の多い街の施設はこぞってシステマを入れている節がある。避ける方が難しいのだ。

 要するにシステマがいない場所を探せばいいんだよ。アトラクションとか派手なものがあるところは駄目だ。となると。

 そうだ。水族館はどうだ。あそこなら水槽の裏側にはシステマはいるかも知れんが、派手な出し物さえなけりゃ、人目につくところには出てこねえだろう。それに静かで落ち着けるに違いない。

 我ながらいい案だ、と頷いて俺は早速寝ることにした。こんなにわくわくするのは本当に久しぶりだ。明日のことが楽しみですぐには眠れそうにない。子供か、と自分に突っ込みを入れながら、俺は部屋の明かりを落として布団に横になった。

 楽しい気分で目覚めて朝っぱらからまたあのまずいカレーを食って……仕方ねえだろ。捨てるのは勿体無いし、他に食えるもんがなかったんだよっ。で、睦月と二人で用意して出発。昼食は出先でとればいいってんで、俺は出来るだけ身軽な格好で家を出た。ちなみに睦月の服は昨日きっちり手に入れておいたから大丈夫だ。まあ、夏場ってこともあって薄手の軽い生地のワンピースだけどな。しかし女物の服ってどうしてああ色んな種類があるかな。上と下が繋がってるやつがワンピースってのは判るんだが、それ以外は俺にはさっぱり判らん。

 電車を乗り継いで目的の水族館にたどり着いた俺は、そこでがっくりとうなだれた。しまった。休日だってのをうっかり忘れてた。家族連れがうようよいるじゃんよ。

「能戸さん? 大丈夫ですか?」

 熱中症でしたら休まれた方が、なんて睦月の申し出に大丈夫だって答えて俺は覚悟を決めた。敷地に差し掛かっただけで賑やかな子供の泣き声だの、はしゃぎ声だの、叱りつける大人の声だのが飛んでるが、ここまで来て止めるのもむかつくしな。

 でも認証チップ入りのカードで入場券を購入できるってのはありがたいかな。あ、このカードは電車のと共用な。その気があれば色んなところの支払いをカード一枚で済ませることが出来る。要はうちの会社のIDカードみたいなもんだな。本人が持っていないと無効だから詐欺もしにくい。まあ、それでも悪巧みをする奴はいて、脳波を意図的に誤受信、偽の信号発信するなんてことも一部ではされているようだ。だが結局のところは手間やかかる費用の割に合わないらしく、その手の事件は滅多に起こらない。

 ちなみに俺だけならこのカードを受付にかざせば入場は可能だ。が、今日は睦月を連れてるからな。さすがに睦月の入場料は……ん?

「あの、能戸さん。私の入場料は必要ないはずです」
「は?」

 後ろから袖を引っ張られて振り返った俺は訝りに眉を寄せた。消え入りそうな小声で言った睦月が困ったように視線を彷徨わせる。俺は順番待ちをしていた次の客に詫びを入れ、睦月を連れて列から離れた。屋根のある入場券売り場の隅にそのまま睦月の手を引っ張って連れて行く。

「あの……あれを」

 睦月が小声で言って入場ゲートの上を指す。そこには液晶の掲示板が設えられていた。スクロールしていく画面をしばし見てから俺はため息をついた。なるほどね。

「いいんだよ、今日は」
「ですが」

 画面にはシステマは無料だと明記されていた。普通ならそうだろうな。だがここにいる誰も睦月のことをシステマだなんて思ってはいないだろう。たまにこっちを見ていく奴もいるが、それはきっと別の理由で見ているだけだ。

「いいんだってば。昨日も言ったろ? その話はなしだ」

 きっぱり言い切って俺はもう一度、入場券を買う列の最後尾についた。おずおずと睦月が俺の横に並ぶ。何か言いかけては止める睦月の素振りを俺は見て見ぬ振りした。しまったなあ。入り口前でシステマの話が出てくるとは思わなかった。意識させまいと思ってたのに、これじゃ逆効果じゃねえか。

 面白くない気分で俺はさっさと入場券を買った。それを睦月に手渡して別々のゲートに向かう。カードで入場する客と入場券を利用する客が使うゲートは別なんだよ。カードはケースごと出してかざすだけでいいが、入場券の方はいちいちスロットに突っ込まなきゃならない。そのためかそっちのゲートの列の方が長い。先にゲートをくぐった俺は睦月が出てくるのを待った。

 白いワンピースに白いサンダルという格好の睦月が待ってた俺のとこに駆けて来る。睦月に手を上げて応えようとした俺は何となく気になって周囲を見た。どうも睦月って目立ってるらしいな。まあ、白いシンプルなデザインのワンピースが厭味じゃなく似合う少女ってのも珍しいとは思うがな。だからってあからさまに好奇の目で見るのはどうなんだろう。

「お待たせしました」
「そんなに焦らなくても大丈夫だって」

 はいはい、男共の言いたいことは判りますよ。睦月の横に俺ってのが似合わねえとか思ってんだろ。どうせ睦月に比べりゃ俺の顔は平凡な作りだよ。悪かったな、地味で。俺は睦月を無遠慮に見ていた奴らを睨みつけた。

 トンネル状になった入り口は、まるで本社ビルの四十二階を思わせる作りだった。淡く青い光を帯びたトンネルが細く長く続き、俺と睦月は必然的に二人で並んで進むことになった。トンネルを進む睦月の顔はいつもと同じだ。横目に何度か伺っては俺はほっと胸をなで下ろした。そうだよな。睦月はあの不思議な廊下は知らないんだ。俺は一度あそこを通ってるから、どうしてもシステマを思い出すんだけどな。

 トンネルは進むにつれて徐々に暗くなる。これで目を慣らそうってことらしい。やがてトンネルを抜けた俺たちは広々としたフロアに出た。でかい水槽がぐるっと周囲を取り囲んでる。フロア全体は少し暗いが水槽内を照らすライトがあるから歩くのに支障はない。

 はしゃいだ声を上げて子供達が俺たちのすぐ脇を過ぎる。元気だなあと感心した俺に、睦月が相変わらずの穏やかな顔でそうですねと応える。

「もしかして楽しくない?」
「いいえ」

 やっぱりあっさり応えて睦月が首を横に振る。うーん。ちらっとでも昨日みたいに笑ってくれれば楽しいって感じてると判るんだがな。さすがにそれは虫のいい注文か。昨日の睦月の微笑みを思い返していた俺は、はっと我に返って慌てて頬を押さえた。いかん。ついにやけちまった。でもついにやけちまうくらいには睦月の笑顔は可愛かったんだよ。

 ああ、駄目だな、俺。睦月には笑うだけじゃなくて、もっと色んなことを覚えて欲しいんだよ。笑顔一つで満足してるようじゃ駄目だ。そう思い直して俺はこっそり一人で頷いた。

 でかい魚が目の前を左から右へ過ぎる。急に視界に割り込んできた魚影に俺は慌てて目を見張った。思わず一歩下がったところで睦月にぶつかってしまう。

「あ、ごめん」
「いえ、大丈夫ですか?」

 人が多くて危険ですから、と睦月が俺の手を握る。俺は睦月に手を引かれて歩く格好になっちまった。うわ、情けねえ。これじゃ、どっちが主導権握ってるんだか判りゃしねえ。しかも睦月の奴、自然な顔して俺の手を引いてるよ、ああ。

 結局俺は睦月に逆らえず、そのまましばらく手を引かれて歩いていた。時折、睦月が立ち止まっては水槽付近に設えられた液晶画面を見る。ふう。でかい水族館じゃなくて良かった。大きな水族館だとシステマを介して直接頭の中に魚のデータを叩き込む、なんてやり方してるところもあるらしいしな。って、うわ。

 やっぱり居やがったか。そりゃそうだよな。あれだけ売れてるもんな。俺はシステマを連れて歩いている男をぼんやりと目で見送った。システマの普及率が一気に高まってること考えりゃ、当り前だったんだよ。施設内部にシステマが設えられてなくても、連れて歩いてる奴はいる。あああ、しかもうちの商品だ、あれ。俺は思わず睦月の手を引いて男と逆の方に向かって歩き出した。

 進行方向とは逆ですよ、という消極的な睦月の忠告を無視して俺は人の波を分けて水槽から少し離れた場所に出た。壁際まで進んで並んでるベンチに腰掛け、所在なげに佇む睦月に手招きする。睦月はためらったように視線を彷徨わせてから俺の隣に腰掛けた。どうやら睦月は俺が体調を崩していると勘違いしたらしい。そうじゃないよ、と苦笑してから俺はぼんやりと前にある大きな水槽を見上げた。

 青い水の中をゆったりと魚が泳いでいく。水槽の中はあの日、あそこで見た光景ととてもよく似て見えた。この年で恥ずかしいなんて言われるかも知れないが、青いあの光景は俺の目にはまるで別世界に見えたんだよ。海を思わせる青い液体の上に浮かんでいるように見えた卵の一つ一つから少女たちが羽化するのだ。どんな作り話より、俺にとってはそれが凄くロマンティックに見えたのだ。

 いかん。感傷的になっちまってる。俺は我に返って慌てて首を振った。

「もう少し休まれた方がいいのでは」

 よし、と立ち上がった俺に睦月が言う。だが俺は大丈夫だと応えて睦月の手を引いた。睦月と一緒に人の波に混ざってフロアの奥に進む。ぐるりと大きな水槽の手前を回るとフロアの奥には別の水槽が並んでいた。へえ。世界の色んな国から集めた魚を泳がせてるのか。ゆっくりと進む人の列に紛れて進んでいた俺はとある水槽の前でふと足を止めた。見慣れないカラフルな魚が群れを作って泳いでいる。幾つもの水槽に分かれているのは、地域別に魚を管理してるからなんだと。液晶画面に映し出された説明を読んで俺はなるほど、と納得した。水質や水温が水槽ごとに違うわけか。

 水槽の前で立ち止まってた俺たちの後ろを若いカップルが通りかかる。多分、特に珍しい魚が入ってる訳じゃないんだろうな。カップルは話をしながら横目に水槽を見て過ぎる。……あ。カップルじゃねえわ。眼鏡タイプだったからすぐにそれと判らなかったが、インターフェイス着けてやがる。よく見れば女の動きもどことなくぎこちない。あの顔立ちにあの容姿。間違いない。男が連れてるシステマはうちのライバル社の機種だ。I 3604 Twinsがリリースされて一週間後だったかな。システマ業界最大手のうちの商品に対抗すべく出された機種だ。

 やつらが行過ぎる時、俺の耳にシステマの声が入ってきた。周囲の客に邪魔ならない程度の声量でシステマは淡々と魚の説明をしている。その中に俺が納得した水質や水温の差などの説明も入っていた。何か変な感じだ。インターフェイス着けてるんなら喋らなくても問題ないだろうに。わざわざ喋らせるのってシステマの持ち主のこだわりなのかね。そんなことを考えながら俺は遠ざかる男とシステマを目で追った。

 そのうちI 3604 Twinsもどこかの社に真似されるだろうな。要するにどの社も売れ線の商品が欲しいんだよ。I 3604 Twinsがあれだけ売れたんだ。粗悪コピーみたいのをリリースする会社も出てくるだろ。この業界はまだ新しいし、発明者の意向とかでシステマそのものに対する特許ってのはないんだよ。いや、ないわけじゃなかったのか。ジェネラルパブリックなんとかいうポリシーに従って……あー、くそ。勝亦が何度か説明してくれたんだが俺にはさっぱりだな。よく判らんが、とにかくどこかの社の売れ線のシステマをもじって別商品作るってのは可能なわけ。客にしてみりゃ、安くていい商品ならいい訳だからな。デザインまでまんまパクったらやばいかも知れんが、似たような機能をつけるのは可能なんだそうだ。

 俺はため息をついて水槽前の手すりに寄りかかった。隣にいた睦月が俺の顔を覗き込む。あ、しまった。システマの話は嫌だって言いながら、自分で思い浮かべてるし、俺。

「見てください。稚魚がいますよ」

 俺の情けない気分を察したのか、睦月は決まり文句になりつつある大丈夫ですかってのを口にしなかった。変わりに小声で言って水槽を指差す。稚魚ってのは魚の子供だよな。俺は睦月の指差したところを見て目をしばたたいた。割と大きい魚が水槽内にディスプレイされた茶色の岩の辺りにいる。その周囲に漂っているようにしか見えない細かいごみのようなものに目を凝らし、俺は思わず呻いた。

「餌だと思ってた」
「違います。よく見てください」

 ちょうど、子連れの魚がゆっくりと俺たちの前に泳いでくる。俺は間近に来たカラフルな魚とその周辺にいる小さなものに目を凝らした。……本当だ。爪楊枝の先くらいの大きさだが、確かに魚の形をしてる。
 メダカ? 違います。睦月とそんなやり取りをして俺はちょっと笑ってしまった。親がど派手なのに子供ときたら、細くて小さくて茶色くて、まるで川からさらってきたメダカみたいでな。これが成長したらあのカラフルな親と同じ形になるなんてすぐには信じられなかった。そう言って笑った俺に睦月が淡々と説明してくれる訳だ。んでも不思議とさっき聞いたシステマのあの声とはまるで違って聞こえる。まあ、メダカは淡水魚ですからこの水槽では生育できません、なんて説明を冷静にされると俺もさすがに笑ってごまかすしかなかったんだがな。

 のんびりと水槽を見て歩いていた俺たちは、ちょっとルートを外れてレストランで小休止することにした。時間外して正解。昼時はきっとごった返すだろうレストランのフロアにはまだ空席があった。しかし、睦月はメニュー見ても迷ったりしないのな。あっという間に注文する料理を決めちまう。俺の方が逆に焦って決まらない始末だ。かなり迷ってから俺は無難にランチセットを頼むことにした。

 飯を食いながら睦月は不思議な魚の話をしてくれた。その魚は群れで行動するタイプで、普段は雌ばっかりなんだと。で、その群れの中から雄に変化する奴が出てくるらしい。で、その雄がいなくなるとまた別の雌が雄になるらしい。俺はその話を聞きながら感心して言った。

「常時ハーレム状態ってことか?」

 言ってからしまった、と俺は慌てて口をつぐんだ。今の言い回しはちょっとまずかった気がする。大体、魚にハーレムもくそもあるかよ。そんなことを俺が思ったと同時に睦月が言う。

「ハレムを作る動物は他にもいます」

 あくまでも冷静に睦月が言うのを聞いた俺は慌てて周囲を見回した。大丈夫だ。このテーブルの周囲に客はいない。俺が危惧した通り、睦月は穏やかな表情のままで子種だの子宮だのに話を移しやがった。頼むよ、もう。

「め、飯時にその手の話はちょっと」
「お気に召しませんか?」

 ちょっと首を傾げて睦月が問う。俺はここぞとばかりに力強く頷いてやった。話題自体はな。そんなに嫌でもないんだよ、正直なところ。だがその手の単語が睦月の口から出るってのが俺には耐え難いというか。ぶっちゃけた話、睦月にそういう話は似合わねえんだよっ。

 それでは仕方ありませんね、と少し気落ちしたように睦月が言う。俺はそれを聞いて慌てて話を逸らそうとした。何でだ? 営業してる時にはあんなに喋ることが出来るのに、俺は睦月にろくな話を振ることが出来なかった。思いつくのはシステマに絡んだ話ばかりだ。なんて面白みがないんだろう、と情けない気分に浸ってた俺にふと睦月が声をかけた。

「能戸さんがつけてくださった私とTypeBの名前にはどういう意味があるのですか?」

 俺は食事の手を止めて何となく睦月を見つめた。たぶん、睦月は名前の意味を知ってはいるのだろう。睦月は一月。時雨は冬の初めくらいに降る通り雨のことだ。だが俺がどこからその名前をつけたかは判っていないらしい。そうか。そういえば説明したことなかったっけな。

 学生の頃に読んだ紙の束で出来た本の話を俺はし始めた。ゆっくりと食事をしつつ睦月が時折、合鎚を打つ。俺はそれを確認しては話を進めていった。要約すればすげえ単純な話。仲のいい姉弟がいて、力を合わせて世界を救うのな。周りにはたくさんの人、友達、家族がいて……。

 あの当時、システマがこの世を救ったと騒がれた頃には不思議とこの手の本は売れなかったそうだ。事実は小説より奇なりってな。どんなに上手く作られた物語もあの瞬間の騒乱にはかなわなかったんだと思う。俺が読んだ本も、そんな時代よりずっと昔に書かれたものだった。

 その本に描かれていたのもよくある読み捨てられる物語の一つだった。俺が生まれるずっと前に出版されたらしく、試しに調べてみたが、その本を出していた出版社は今はもう存在すらしていないようだ。その物語の作者の名前すら広大な情報ネットワークの中には残っていない。過ぎていった時の中に埋もれたその他大勢の人間と同じだ。生きてるんだか死んでるんだかも定かじゃない。

 笑っちまうだろ? 表紙なんてぺらぺらの作りでさ。端っことかがよれて汚くなっててさ。印刷も甘くて字がところどころ消えかけてやんの。でも紙が痛みかけて随分とくたびれたその小説を俺は何故か何度も読み返した。俺だって思ったよ。現実の騒ぎはこんなもんじゃないってな。だけどどうしても気になって仕方がなかった。他にたくさんの有名な小説はあるのに、俺にはそれらよりもその物語の方が魅力的に見えたんだ。

 その本をやけに熱心に俺が読んでたら勝亦が笑ってたっけな。お前でも熱中することがあるんだなって。よっぽど俺のその本への入れ込み方がおかしかったのかな。でも勝亦は俺の勧めに従ってあの本を読んだ。そうしたら。

 そうしたら勝亦は妙に真面目な顔で言った。……思い出した。そうだ、あの時だ。

 システマがこの世界を変えるのかも知れない。今からきっと面白い時代になる。

 妙にリアルに脳裏に勝亦の言葉が蘇る。

 たった一台のシステマが地球を救ったあの日からほんの十年足らず。あの日、前日までの生活がまるで嘘のように俺の周囲はパニックに陥った。俺だって例外じゃない。深い絶望なんてなものに浸る余裕はどこにもなかった。とにかくどこかに逃げなきゃ、と人の波にもまれていたのを思い出す。

 一方で世界を何とか救おうと動いていた人間たちがいた。部外者の俺には想像することしか出来ないが、突然襲ってきたトラブルを何とか処理しようと必死になっていたに違いない。計算が間に合わない以前に、その計算を実行するプログラムを組んでいる暇さえなかったのだ、と当時のことに詳しい勝亦が俺に説明してくれたことがある。

 そんな中で現れたシステマは現場の人々の最後の希望の光だったのかも知れない。丁度それは俺が熱心に読んでいたあの小説の登場人物の睦月と時雨のように。

「能戸さん?」

 急に押し黙った俺を訝ったのか、睦月がそっと声をかける。俺は慌てて俯きかけていた顔を上げた。何でもない、と笑ってみる。だが俺自身、その笑みがぎこちないと判っていた。

 俺はあの時、勝亦の言ったことを笑い飛ばした。道具が世界を変えてたまるもんか。だが勝亦は笑った俺に文句一つ言わなかった。そうかって答えただけだった。あの時の俺は勝亦もばかなこと言いやがってと思ってたが、もしかしたらあの答えにはもっと別の意味が含まれてたんじゃないだろうか。

 なーんてな。やめやめ。考えたところでどうせ今さらだしな。睦月にはずっと前に読んだ本の中に出てきた姉弟の名前だ、と言えば簡単に済むことじゃないか。何も楽しい気分を自分からぶち壊すこたあねえよな。

 飯を食って館内を巡り、夕方近くなったころ俺たちは水族館を出た。ゆっくり回ったおかげか、帰りは家族連れの客たちに揉まれるようなことはなかった。まばらに行き交う人々に混ざって広い遊歩道に出る。この水族館は入り口と出口が別のところにあるんだよ。蒸し暑い中を俺は睦月の手を引いて歩いた。

 古びて所々が割れたアスファルトの遊歩道が続いている。右手には人工の林、左手に長さの揃えられた芝生の広場がある。もしかしたら昼時辺りはこの広場も親子連れで賑わうのかも知れない。遊歩道の周囲に植えられた樹にとまっているのだろう。敷地内には蝉の声がうるさいくらいに響いていた。睦月が道端に植えられた樹を珍しそうに見つめる。どうやら睦月は生の蝉の声を聞いたことがなかったらしい。まあ、そりゃそうか。よく考えてみれば睦月にとっては生まれて初めてのことばっかりだ。

 立ち止まった睦月に合わせて足を止めた俺は道端のベンチに睦月を促した。睦月が頷いて大人しく腰掛ける。夕方といってもまだ直射日光を浴びると暑い。日差しを避けて座った俺たちの周囲では蝉が鳴いていた。

 特に喋るでもなく俺たちはしばらくベンチに座っていた。施設の閉館時間を報せる音楽と放送が鳴ってからようやく腰を上げる。途中で買ったボトル入りの茶もすっかりぬるくなっちまってる。俺はまた睦月の手を引いて歩き出した。

 睦月は水族館にいる間、笑うことはなかった。ほんの少しでもいい、笑ってくれたらっていう俺の甘い願いは打ち砕かれたってわけだ。そりゃあな。笑えって言えば睦月も笑ってくれるんだろう。だが俺が見たかったのはそういう笑いじゃなくて、昨日の晩の微笑みだったんだよ。

 だが現実にはその微笑みすら拝めなかったわけだ。最寄の駅で電車を降り、マンションへの道を歩きながら俺は睦月に訊ねた。

「なあ。睦月は人になりたいだろ?」

 繋いだ睦月の手が微かに震えた気がした。振り返った俺を真っ直ぐに見つめて睦月が答える。

「なぜですか」
「なぜって……」

 だって人の方がいいだろう。俺は思わず足を止めて素直に言い返した。まさか睦月がそう返すと思わなかった。だって当り前じゃないか? こんなに人っぽく見えるんだ。それなら人間として生きてみたいって願うと思うじゃないか。システマが幾ら流行ってると言ったって、まだ人間の数の方が圧倒的に多いんだぞ。周りを人に囲まれてれば、自然と同じになりたいと思うもんじゃないのかよ。

 睦月が黙っている間、俺は考え続けた。睦月はもしかして物理的に無理だって解答を出すのかな。でもほら。肉体を構成している物質そのものにはさほど違いはないって開発部長も言ってたじゃないか。

「そんなに考えることないだろ? 睦月だってその気になればすぐに人になれるって。それだけ人っぽい外見なんだしな」

 それに俺は睦月を人としてしか見てないぞ。睦月が答えに困っているのを見かねて俺はそう自分から言ってみた。すると睦月が少し伏せていた目を上げる。

 ふわりと笑った睦月の顔が何故かとても悲しそうに見えた。
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