冥府への案内人

伊駒辰葉

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二章

初めてのキス

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 あれこれと考えこんだ順の顔は無意識のうちに不機嫌そのものになった。順がコーヒーを睨みつけたまま腕組みをしていると和也が部屋に戻ってくる。物音に気付いた順は反射的にドアの方を睨んだ。

「……何だ? なに怒ってんだ」
「それはこっちのせりふだ。何で俺がお前の機嫌をわざわざ伺わなきゃならないんだ」

 考えすぎで頭の中が混乱していたために、順は和也の様子も気にせず思ったままを口にした。喉は渇く一方なのにまだコーヒーを飲めずにいたのだ。

「なに訳わかんねえこと言ってやがる」

 真横に立っていた和也がおもむろに身を屈める。順は和也に腕を引かれ、不機嫌なままで顔を上げた。力を入れた様子もないのに和也が順を片手で軽々とその場に立たせてしまう。和也のつかんだ上腕をじっと見つめ、順は眉間に刻んでいた皺を一層深くした。

「大体な。ご主人様のご機嫌伺いっつったら基本中の基本だろが」

 荒い口調で言いながら和也が唐突に腕を放す。順は咄嗟に反応できず、思わずその場によろけた。文句をつけようとした矢先に今度は和也が顎をつかむ。強引に上向かせられた順は、乱暴な仕草にかちんときて怒りを込めて和也を睨みつけた。

「そんなに強くつかむな! 痛いだろう!」

 思わず怒鳴りつけてから順ははっと息を飲んだ。いつの間にか和也の目は吊り上がり、口許には不気味な笑みが浮かんでいた。間違いない。怒っているのだ。そのことを知って順は自然と口を閉じた。だが顎をつかまれているために余所を向くことが出来ない。

「まだ自分の立場がちゃんと判ってないみてえだな。都子ちゃんがどうなってもいいのか?」

 きっと本当は都子に手を出すつもりはない。この時まで順は和也の脅しを信じてはいなかった。だが今の和也の目は本気にしか思えない。瞬間的に怒りが込み上げ、目の前が真っ赤になりそうになる。順が殺意を剥き出しにしかけたその時、急に和也が身を屈めた。

 生温かい感触が唇を塞ぐ。唐突に口づけられた順は思わず息を殺して目をかたく閉じた。顎を握った和也の手が動いて強引に順の口を開く。順は発作的に和也を突き飛ばそうと腕を伸ばした。だがその寸前に和也が片腕に順の身体を抱く。順は夢中でもがいて和也の腕から逃れようとした。が、がっちりと抱きしめられていて、もがいた程度では拘束が外れない。

 開いた口の中にぬるりとした感触のものが入ってくる。それが和也の舌だと理解する前に、順は目を見張って顔を背けようとした。口を閉じようと試みるが顎を強い力でつかまれているために力が入らない。

 不意に何かが背筋を走る。順はびくりと身体を震わせて微かに呻いた。がむしゃらに抵抗していた身体から急に力が抜ける。舌で舌を弄られたのだ。和也とそんな真似をするのは絶対に気持ち悪いと確信していた順は、自分自身の反応に酷く動揺した。昨日は熱があったからだと思っていたのに、いま何故か口づけが気持ちいいと感じてしまっている。

「んっ、う……ふぅ」

 微かに喘いだ順は抵抗することを完全にやめた。どうせ逃げようとしても和也の拘束は外れない。下手に動くと痛い思いをするだけだ。そんな思いを悟ったのか、和也は顎から離した手を順の後頭部に回した。ただ乱暴なだけだった口づけが次第に穏やかなものへと変化する。口の中を探る和也の舌の動きの変化に順は思わずほっと安堵の息をついた。

 これがファーストキスだって言ったらさすがにびっくりするかな。ふとそんなことを思って順は苦笑した。これまで女性と付き合おうと思ったこともないし、実際にそんな状況になったこともない。キスに特に意味があるとすれば、性欲の促進という程度だろう。そんな認識だったからこそ、順は例え初めての相手が男だとしても特に衝撃は受けなかった。

 何かが身体の奥からこみあげてくる。互いの唇が離れても順はしばしぼんやりとしていた。和也はもう腕から力を抜いている。順の身体に手を添えているだけだ。なのに順は不思議と和也の腕から逃れようとは思わなかった。

「何だ。喉が渇いてるなら飲めば良かったろ」

 和也が振り返って手を伸ばす。テーブルに置かれていたコーヒーを取り上げた和也が、そのまま順にグラスを差し出す。それを受け取って、順は無言でグラスに口をつけた。どうして喉が渇いていることが判ったのだろう。疑問を感じながら順は和也を上目遣いで伺った。すると訳知り顔で和也が頷く。

「んな、口の中がそれだけ乾いてれば誰でも判るだろ」

 素っ気なく告げた和也の言葉に思わず吹き出しそうになる。慌てて口許を押さえて順は咳き込んだ。気管にコーヒーが入ってしまったのだ。むせる順をしばし呆れたように眺めてから和也はため息をついた。

「おいおい。その程度のことでびびっててどーすんだよ。ほら、零すなよ」

 咳き込む順の手から和也がコーヒーをひったくる。順は胸を押さえてしばし咳き込んでから涙の浮かんだ目を上げた。まだ喉がざらついている気がする。何度か咳払いをしてから順は大きく深呼吸をした。

「別に、そんな、つもりじゃ」

 ただ、口の中なんて言うから。まだ違和感のある喉を押さえながら順はそう続けた。和也が眉を寄せて手にしたグラスと順を交互に見る。

 二人はしばらく黙っていた。静かなピアノの旋律が流れる。歌のない曲に順は自然と耳を傾けた。クラシックとは違う、聴き慣れないメロディに集中する。
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