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四章
朝を迎えて
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バイオリンの旋律が聴こえる。順は薄く目を開けてから再度瞼を下ろした。心地のいい旋律にしばし耳を傾ける。聞き覚えのない曲だが聴いていて妙に心地がいい。バイオリンの後ろではマンドリンの音と低いコントラバスの音が鳴っている。
そういえば枕も布団もやけにふんわりとしている。夢見心地で順は気持ちの良さを確かめるように枕に頬擦りをした。こんなに柔らかな寝具はどれくらい振りだろう。羽毛の枕など数年振りかも知れない。
数年振り……? 順は胸の内で自分にそう訊ねてからはっと目を開いた。寝ぼけた気分が一気に吹き飛ぶ。見覚えのない光景に思わず息を詰める。恐る恐る周囲を見回した順はようやく事態を把握した。
ここはホテルの一室だ。真っ白なシーツを静かにつかんで順は布団を少しだけ持ち上げた。案の定、裸のままだ。順は低く呻いて額を覆った。ダブルベッドに横たわる順のすぐ傍では美恵が安らかな寝息を立てている。
あれからどうしたんだっけ。順はパニックに陥りそうになる思考を必死で現実に押し留め、フル稼働させた。美恵が抱きついてきたのは覚えている。硬直し、反応しない順に苦笑して、美恵は備え付けの冷蔵庫から次々にワインを取り出した。飲めば少しは落ち着くとの配慮だったのだろう。順は美恵に勧められるままに酒を飲み……。
その先の記憶がない。順は蒼白になって全身を緊張させた。もしかして、という考えに及ぶ。そう考えては順は心の中でそれを否定した。だがどう見てもこれは事後なのではないだろうか。自分は裸でおまけに美恵が隣に眠っている。その上、ほんの少し布団からはみ出した美恵の肩は剥き出しで、どうやら順と同じく裸で横たわっているようなのだ。
混乱する頭を押さえ、順はため息をついた。とにかく確かめよう。だが相手に直接訊ねるのは余りにも失礼な気がする。
すみません、昨日の夜のことを覚えていないんです。何かしましたか。
どう質問するかを考えてから順は駄目だと首を振った。もし万が一、本当に事に及んでいた場合に相手にその質問をぶつけたら酷く傷つけてしまうのではないか。
確かめる方法は。順は静かにベッドから抜け出した。とにかく裸のままでは落ち着かない。足音を殺して寝室のソファに歩み寄る。幸い、順の服は全てソファに揃っていた。服を手早く身につけてバスルームに急ぐ。顔を洗って乱れた髪を整えたところで順は我に返った。
「身支度してどうするんだ」
習慣的に身だしなみを整えてしまってから順はため息をついた。この部屋のバスルームはトイレとは別々になっている。脱衣所で洗面台に向かっていた順は何気なくバスルームのドアを開けた。
バスタブには水が張られている。その水を見た瞬間、順はくらりときてドアに寄りかかった。薄い紅色に染まった水は恐らく入浴剤入りではないだろう。順はその場にしゃがみ込んだ。落ち着けと自分を叱咤する。
よろけながら立ち上がり、順はバスルームを後にした。真っ白なバスタブの中で一体自分は何をしたのだろう。あの色は多分、血の色だ。きっとバスタブ内で出血するような何かがあったに違いない。
そこまで考えて順は再びよろけた。何かじゃなくてセックスだろう。そう自分に言ってみる。恐らくバスタブで交わった際に美恵が出血したのだろう。そう考えるのが自然だ。だが記憶がないためにどうしても実感が湧いて来ない。
「そうだ! ごみ箱!」
壁に寄りかかってぐったりと脱力していた順は慌てて顔を上げた。往生際が悪いかも知れないが、はっきりと事実を確認しなければ落ち着かない。そもそも相手は助教授なのだ。気軽に手を出していい相手ではない。
順は必死な面持ちでごみ箱を探した。だがリビングにもバスルーム周辺にもごみ箱はない。辛うじてトイレの中に小さなごみ箱を発見したが空っぽだった。
寝室に移動する。まだベッドで美恵が眠っていることを確認し、順は足音を立てないように注意しながら部屋の中を歩いた。美恵のイブニングドレスは無造作にソファに投げられている。ストッキングと下着もついでに発見した順の顔に自然に血が昇る。脱ぎ散らかされた美恵の服をしばしぼんやりと眺めてから順は慌てて首を振った。違う。今は服を見ている場合じゃない。そう内心で呟いて振り返る。そこで順は目を見張った。ベッドの近くに白く背の低いごみ箱を発見したのだ。
恐る恐るごみ箱に近付く。傍にしゃがみ込んで中を覗いた順は思わず絶句した。大量のティッシュが丸めて放り込んである。その間に見え隠れしていた物に順はゆっくりと手を伸ばした。端を摘んで静かに手を持ち上げる。
使用済みコンドームをつまみあげた順は呆然となった。よれて捻れたコンドームには白い液体が付着している。間違いない。残っているのは精液だ。
「おはよう」
不意に声がする。順は息を飲んで慌てて手をごみ箱に突っ込んだ。テッシュの間にコンドームをねじ込んで立ち上がる。
「おっ、おはようございます!」
深々と礼をしながら順は叫ぶように挨拶した。ベッドに横たわっていた美恵が面食らったように瞬きを繰り返す。それから美恵はうっとりと目を細めて微笑を浮かべた。腕を順に差し伸べる。順は誘われるままに美恵の手を取った。
「あっ、あの」
「ふふ。昨日は激しかったわ」
決定打を叩きつけられた順の頭の中が真っ白になる。美恵は妖艶な笑みを浮かべて順をじっと見つめた。
「だからすぐには起きられそうにないの。ごめんなさい」
「あ、ええと……その」
順は真っ赤になって視線を泳がせた。腕を戻して布団を口許まで引っ張り上げた美恵が目だけで笑む。
「お、俺、その、初めてで」
動転しきって順は考えもせずにそう口走った。すると美恵が嬉しそうに笑う。
「まあ、嬉しい。じゃあ、お互い初めてだったのね」
すみません、でも覚えてないんです。正直にそう言いかけて順は慌てて言葉を飲み込んだ。うっとりとした面持ちで美恵が目を閉じる。順はショックでしばらく反応出来なかった。
そういえば枕も布団もやけにふんわりとしている。夢見心地で順は気持ちの良さを確かめるように枕に頬擦りをした。こんなに柔らかな寝具はどれくらい振りだろう。羽毛の枕など数年振りかも知れない。
数年振り……? 順は胸の内で自分にそう訊ねてからはっと目を開いた。寝ぼけた気分が一気に吹き飛ぶ。見覚えのない光景に思わず息を詰める。恐る恐る周囲を見回した順はようやく事態を把握した。
ここはホテルの一室だ。真っ白なシーツを静かにつかんで順は布団を少しだけ持ち上げた。案の定、裸のままだ。順は低く呻いて額を覆った。ダブルベッドに横たわる順のすぐ傍では美恵が安らかな寝息を立てている。
あれからどうしたんだっけ。順はパニックに陥りそうになる思考を必死で現実に押し留め、フル稼働させた。美恵が抱きついてきたのは覚えている。硬直し、反応しない順に苦笑して、美恵は備え付けの冷蔵庫から次々にワインを取り出した。飲めば少しは落ち着くとの配慮だったのだろう。順は美恵に勧められるままに酒を飲み……。
その先の記憶がない。順は蒼白になって全身を緊張させた。もしかして、という考えに及ぶ。そう考えては順は心の中でそれを否定した。だがどう見てもこれは事後なのではないだろうか。自分は裸でおまけに美恵が隣に眠っている。その上、ほんの少し布団からはみ出した美恵の肩は剥き出しで、どうやら順と同じく裸で横たわっているようなのだ。
混乱する頭を押さえ、順はため息をついた。とにかく確かめよう。だが相手に直接訊ねるのは余りにも失礼な気がする。
すみません、昨日の夜のことを覚えていないんです。何かしましたか。
どう質問するかを考えてから順は駄目だと首を振った。もし万が一、本当に事に及んでいた場合に相手にその質問をぶつけたら酷く傷つけてしまうのではないか。
確かめる方法は。順は静かにベッドから抜け出した。とにかく裸のままでは落ち着かない。足音を殺して寝室のソファに歩み寄る。幸い、順の服は全てソファに揃っていた。服を手早く身につけてバスルームに急ぐ。顔を洗って乱れた髪を整えたところで順は我に返った。
「身支度してどうするんだ」
習慣的に身だしなみを整えてしまってから順はため息をついた。この部屋のバスルームはトイレとは別々になっている。脱衣所で洗面台に向かっていた順は何気なくバスルームのドアを開けた。
バスタブには水が張られている。その水を見た瞬間、順はくらりときてドアに寄りかかった。薄い紅色に染まった水は恐らく入浴剤入りではないだろう。順はその場にしゃがみ込んだ。落ち着けと自分を叱咤する。
よろけながら立ち上がり、順はバスルームを後にした。真っ白なバスタブの中で一体自分は何をしたのだろう。あの色は多分、血の色だ。きっとバスタブ内で出血するような何かがあったに違いない。
そこまで考えて順は再びよろけた。何かじゃなくてセックスだろう。そう自分に言ってみる。恐らくバスタブで交わった際に美恵が出血したのだろう。そう考えるのが自然だ。だが記憶がないためにどうしても実感が湧いて来ない。
「そうだ! ごみ箱!」
壁に寄りかかってぐったりと脱力していた順は慌てて顔を上げた。往生際が悪いかも知れないが、はっきりと事実を確認しなければ落ち着かない。そもそも相手は助教授なのだ。気軽に手を出していい相手ではない。
順は必死な面持ちでごみ箱を探した。だがリビングにもバスルーム周辺にもごみ箱はない。辛うじてトイレの中に小さなごみ箱を発見したが空っぽだった。
寝室に移動する。まだベッドで美恵が眠っていることを確認し、順は足音を立てないように注意しながら部屋の中を歩いた。美恵のイブニングドレスは無造作にソファに投げられている。ストッキングと下着もついでに発見した順の顔に自然に血が昇る。脱ぎ散らかされた美恵の服をしばしぼんやりと眺めてから順は慌てて首を振った。違う。今は服を見ている場合じゃない。そう内心で呟いて振り返る。そこで順は目を見張った。ベッドの近くに白く背の低いごみ箱を発見したのだ。
恐る恐るごみ箱に近付く。傍にしゃがみ込んで中を覗いた順は思わず絶句した。大量のティッシュが丸めて放り込んである。その間に見え隠れしていた物に順はゆっくりと手を伸ばした。端を摘んで静かに手を持ち上げる。
使用済みコンドームをつまみあげた順は呆然となった。よれて捻れたコンドームには白い液体が付着している。間違いない。残っているのは精液だ。
「おはよう」
不意に声がする。順は息を飲んで慌てて手をごみ箱に突っ込んだ。テッシュの間にコンドームをねじ込んで立ち上がる。
「おっ、おはようございます!」
深々と礼をしながら順は叫ぶように挨拶した。ベッドに横たわっていた美恵が面食らったように瞬きを繰り返す。それから美恵はうっとりと目を細めて微笑を浮かべた。腕を順に差し伸べる。順は誘われるままに美恵の手を取った。
「あっ、あの」
「ふふ。昨日は激しかったわ」
決定打を叩きつけられた順の頭の中が真っ白になる。美恵は妖艶な笑みを浮かべて順をじっと見つめた。
「だからすぐには起きられそうにないの。ごめんなさい」
「あ、ええと……その」
順は真っ赤になって視線を泳がせた。腕を戻して布団を口許まで引っ張り上げた美恵が目だけで笑む。
「お、俺、その、初めてで」
動転しきって順は考えもせずにそう口走った。すると美恵が嬉しそうに笑う。
「まあ、嬉しい。じゃあ、お互い初めてだったのね」
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