冥府への案内人

伊駒辰葉

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四章

夏の嵐

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 ちょっと遅くなりそうだから先に出ていいわ。そう美恵に促されて順は呆然としたまま部屋を出た。ふらふらとした足取りでエレベーターホールに辿り着く。時計を見るともう針は朝の十時を回っていた。

 この格好で大学に行ったら何事かと思われるな。エレベーターを降り、ホテルを出た辺りでようやく順の頭は回り始めた。慌てて締めたために捩れていたネクタイをきっちり結び直す。半ばやけくそになりながら順はアパートに戻った。

 記憶はないが避妊はしていたのだ。精液が直に美恵の体内に入ったのでなければ深刻な事態に陥る可能性は低い。それに今朝見た美恵の様子は普段とそれほど変わらなかった。だから大丈夫だ。そう自分に言い聞かせながら順はアパートの部屋の鍵を開けた。

 ドアを開けて玄関で靴を脱ぐ。急いで部屋に向かおうとしていた順は、途中でドアが半開きになっていた和也の部屋を何気なく覗いた。そこで硬直する。

「おー、いっちょまえに朝帰りか。いい度胸だ」

 低い低い声がする。順は恐る恐るドアから離れた。慌てて部屋に駆け込む寸前に後ろから腕をつかまれる。腕を背に回されねじ上げられた順は、その痛さに思わず叫んだ。

「痛い! 離せ!」
「しかもまあ、ご丁寧にスーツなんざ着て……おら。どこ行ってたか白状しろ」

 不機嫌極まりない声で和也が告げる。順は腕を振り解こうともがきながら和也を肩越しに睨みつけた。

「いいだろう、どこだって!」

 自由になる左手を振る。だが順の肘はすぐさま和也の手のひらで受け止められてしまった。そのまま左手首を強く握られる。

「つっ!」

 両手をねじ上げられ、順は強引に壁に押さえつけられた。和也は遠慮のない力で順の手ごと背中を押さえる。

「誰に向かってそんな口叩きやがる。てめえ、オレが飼い主様だってこと、まだ判ってねえみてえだな!」

 そう叫んだかと思うと和也は片手に順の両手首を握り、余った手で順の喉をつかんだ。そのまま喉が締められる。順は苦しさと痛みに仰け反った。息が出来ない。

「どこで誰と何してやがった! 吐け!」
「く……っ」

 ごく僅かだけ首を締める力が緩む。順は懸命に息を吸って何とか拘束を解こうともがいた。だがもがけばもがくほど痛みが酷くなる。

「そ、んな、こと」

 途切れ途切れにそこまで言って順はまた懸命に息を吸った。目を閉じて額を壁に強く押し付けて一気に怒鳴る。

「俺の勝手だろう!」

 その途端、和也が目を吊り上げる。和也の雰囲気が変わったことを背中越しに感じ取り、順は苦しい呼吸をしながら振り返ろうとした。

 不意に身体が浮く。和也は順の身体を横抱きにして部屋に続くドアを蹴飛ばした。嫌がってもがく順をベッドに放り投げる。慌てて身体を起こした順は目にした和也の表情に硬直した。和也は満面に怒りを表している。

 何でそこまで怒られなきゃならないんだ。たった一晩、家を空けただけなのに。納得出来ないものを感じつつ順は和也を睨み返した。だが和也は怯むどころかより一層鋭い目で順を睨む。

 無言で和也がシャツを脱ぎ捨てる。順はベッドを蹴って飛び降りようとした。身体が宙に浮いた一瞬の隙に和也が音もなくベッドに駆け寄る。浮いたと思った次の瞬間、順は鳩尾に深い衝撃を覚えてベッドに転がった。腹を押さえて激しく咳き込む。殴られたのだと順が理解したのは視界に和也の足が割り込んできた時だった。

「勝手に逃げるんじゃねえ!」

 そう叫んで和也が足を払う。わき腹を蹴られた順の身体は壁に叩き付けられた。後頭部を窓枠に打ち付けた瞬間、視界に火花のようなものが散る。倒れた順の背に和也が膝を叩き込む。その途端に息も出来ないほどの衝撃に襲われる。

「こ、の……っ」

 身体の中で嫌な音が鳴る。順は歯を食いしばって必死で起き上がろうとした。咳き込んだ拍子に口から血が流れてくる。抵抗しようとする順の背を膝で踏みつけ、和也は低い声で嗤った。

「おら、言えよ。どこで誰と何してた? 素直に言ったら退いてやってもいいぜ」

 和也の嘲りに順の中で何かがぷつんと切れる。順はシーツを握りしめて鋭い目をして和也を振り返った。

「誰が言うか!」

 渾身の力をこめてベッドを押す。順は強引に身体を起こし、背中に乗っていた和也を払い落とした。

 緩やかに空気が流れる。いつの間にか順の周囲には風の流れが生まれていた。だが怒り狂う順には周囲の状況を把握することは出来なかった。ただ、怒りを込めて和也を睨みつける。順に払い落とされてその場に屈んでいた和也が剣呑な表情をして顔を上げる。

 黒い瞳から虹彩が消える。

「いい度胸だ! 後悔するなよ!」
「それはこっちの」

 順が言い終わる前に和也が動く。え、と息を飲んだ順は次の瞬間、視界を完全に遮られた。和也が順の顔面をつかんでそのまま腕を伸ばす。激しい音を立てて順は壁に頭を打ち付けた。

 意味をなさない叫びが順の口から漏れる。和也の手の下で目を見張り、順は呼吸を止めた。何かが身体の中を酷く乱暴な力で這い回っている。経験のない激しい痛みに順は掠れた声を上げた。

「ボケが! 百年はええ!」

 勝ち誇った和也の声が遠い。順は顔を押さえている和也の手首を両手で強くつかみ、爪を立てた。歯を食いしばって力をこめる。和也の肌に順の爪が食い込み、幾筋もの血が伝う。だがそれでも和也は手を離そうとはしない。

 順は和也の手で壁に押さえつけられていた。ベッドの傍にあった小さな棚が倒れ、中身が床に散乱する。順は視界を塞がれたままで死に物狂いで暴れた。でたらめに振り回した順の足がベッドのパイプを折り曲げ、壁にへこみを作る。

「暴れんなっつってるだろうが! 大人しくしやがれ!」

 怒声が間近で響く。順は大きく息を吸って声を張り上げた。その瞬間、順の髪が一気に空色に染まる。それと同時に周囲を取り巻いていた風が急に強さを増した。部屋の中を激しい風が荒れ狂う。風はあたり構わず暴れまわり、あらゆるものをなぎ倒した。
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