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閑話 初めて執事を雇った日
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「――今日からうちで働くことになった執事だ。面倒を見てやってくれるかい?」
今まで、男はお前に手を出すかもしれないからダメだ! と言い続けていたお父様が、初めて雇った執事の青年との出会いがこれだった。
はぁー? 執事なんていりませんけどー! と思っていたが、お父様の言葉へ違和感を覚える。
十歳のわたしでも分かるほどにお父様の言ったことはおかしい。普通、執事が面倒を見るほうで、わたしは面倒を見させるほうだ。
妙な言い間違いだなと思いつつ、青年を上から下まで見る。
夜の闇のように黒い髪で隠れているが、瞳も同じ黒色。
サイズは合っているはずなのに、どこか違和感を覚える執事服姿。普通ならば白であるはずなのに、両手に着けている手袋も黒で、まるで死神のようだな、と感じた。
だがなによりも興味をそそられたのは、その眼だろう。
わたしを見るわけでもなく、だが別のどこかを捉えているわけでもない。なにも見ていないような黒い瞳は、夜の海を覗き込んでいるような恐ろしさを思い出させた。
一度体を震わせた後、その震えを声に載せないよう気を付けながら父へ聞く。
「ふ、ふーん。彼の名前は?」
「名前……」
お父様はなぜか一瞬止まった後に答えた。
「……グラス、だよ」
「グラスね。わたしの名前はレイシル=シュティーアよ! 次からは先に名乗りなさい! よろしく、グラス!」
わたしはお父様に頼まれたこともあり、下手に出てやることにし、先に手を差し出してやった。かなり心が広いと思う。
なのにグラスはそのまま動かず、ただ差し出された手を見ていた。
「ほら、グラス。握手だよ。優しく握り、離すだけでいい。親愛の証だ」
「……」
言われた通りに手を優しく握り、そのまま離す。言われた通りにしている様は、まるで人形のようだった。
このやり取りを経て、わたしは気付く。面倒を見てやってくれ、というのは言葉通りの意味だったのだと。
正直、お父様に頼まれるくらい自分は成長した。面白い玩具を託された。……当時は、その程度に感じていたと思う。
しかし、彼の面倒を見るのは、想像より二千倍くらい大変だった。
「では、部屋に戻るわね」
「あぁ、よろしく頼むよ」
「……」
彼を伴い部屋へと戻る。
「ここがわたしの部屋よ。何度も訪れることになるから覚えておきなさい」
わたし付きの執事である以上、この部屋の場所は、一番初めに覚えてもらわなければならない。
だが予想通り返事は無く、想定の範囲内だと振り向き……想定外だと思った。
後ろに誰もいなかったからだ。
地面を踏みしめながら、来た道を戻る。お父様に案内され、こちらへ歩いて来るグラスの姿が目に入った。
「グラス!」
「……」
「どうしてわたしについて来てないのよ!」
「……」
彼はなにも口にせず、どこを見ているのか分からない眼で、わたしの方を向いている。吸い込まれてしまいそうで、背筋がゾクリとした。
なにを言えばいいのか分からない。
本当にやっていけるのだろうか。この瞳に、いつか呑み込まれるのではないか。
心中が恐怖へ包まれ始める。
「あー……。その、レイシル? 彼は――」
なにかを言おうとしたお父様の言葉を遮り、自分の頬を両手で強く叩いた。
お父様が唖然としている中、ヒリヒリとする頬を無視し、グラスの手を掴んだ。
「仕方ないわね! 手を引いて案内してあげるわ!」
わたしの名はレイシル=シュティーア。偉大なるブルード=シュティーアの娘であり、この家の跡継ぎだ。少々問題がある年上の青年程度に臆すことはできない。
「こっちよ!」
恐れを振り払おうと、グラスの右手を強く握る。彼はほんの僅かに眉をひそませた後、素直に従ってくれた。不愉快だったのかもしれないが、わたしに従ってもらう。
グラスへ自分の部屋を案内した後、今度は一緒に台所へ向かう。淑女たるもの、紅茶を嗜むのは当然のことだ。
今後は執事であるグラスの仕事にしようと思っている。そのため、台所へ連れて行き、メイド長のメイリーに必要なことを教えるよう伝え、先に部屋へと戻った。
最初は準備に時間がかかるだろう。寛大な心で待っていると――横から手が伸び、机の上に皿が置かれた。
「ひゃっ!?」
手の主はグラスで、彼はそのまま机にカップを置き、紅茶を注いだ。わたしの悲鳴など、まるで気にしていない様子だ。
音も無く現れたグラスは、部屋の扉を開け放ったまま準備をしている。
わたしは心を広く持ち、彼へと伝えた。
「……扉は開けたら閉めるものよ。後、入る前にノックを」
「……」
グラスは無言のまま扉へと近寄って閉める。少しだけ彼を理解した。
「返事は大事よ。頷いたり、声に出したり。でないと何を考えているのかは分からないからね」
グラスは一度頷く。わたしの言い方が良くなかったようだ。
「頷くだけでなく、できるだけ声でも返事をしてくれる?」
「……はい」
初めて声を聞き、わたしはなぜか飛び上がりたくなるほど嬉しくなった。なんなら、頭を撫でまわし、褒めてやりたい。
なるほど、これがペットを躾ける気持ちなのだろう。
「えぇ、そうね。それでいいわ。よくできたわね、グラス」
良い気分のまま注がれた紅茶を飲み――あまりのマズさに吹き出した。
「ブッフォオオオオオオオオオオ! ちょ、なによこれ! なにを入れたの!? ゲロマズ!」
彼は淡々と、紅茶の中へ入れたものを並べていく。事前に用意していたのか、と言いたいが今は置いておこう。
茶葉、砂糖、ミルク、薬、肉、魚、野菜……。
見ているだけで頭が痛くなってくるので、途中でやめさせた。
今すぐ「クビだ!」と言ってやりたいところだが、それは器の小さい人間の話である。わたしはとても寛大だ。
グラスのやったことは、恐らく善意からくるもの。彼なりに健康を考え、バランスを良くしようとしたのだろう。きっとそうだ。信じたい。
声を震わせながら、グラスへ言う。
「ま、まずはポットに茶葉とお湯をいれ、それをカップへ注ぐだけでいいわ。砂糖とミルクは自分で入れるから。後はなにも要らないわ。えぇ、本当になにも」
ポットへ大量に入っている廃棄物を、彼の好意だと思って必死に飲む。もしかしたら、後で腹を壊すかもしれない。
冷や汗をダラダラ流していると、妙な光景が目に入った。
「……ねぇ、グラス。あなたなにを飲んでいるの?」
「水」
「ぶっ飛ばすわよ?」
あれほどの怒りを覚えたのは初めての経験だった。
グラスが執事となり、徐々に色々なことを理解し、彼にも変化が現れる。紅茶の腕前は少しずつ上がっており、口にする単語も増えていた。
「はい」「いいえ」「行く」「止まる」などなどだ。かなりの成長が窺える。
そして、いくつかのことに気付いた。
まず最初に気付いたことは、彼が執事ではない、ということだ。
ちなみにこれはかなり早い段階で気づいた。あんなに話せず使えず常識の無い青年を、執事として雇うはずがない。
だがまぁ、決定的だったのはあれだろう。彼が、常にわたしの近くへいたことだ。
執事とは呼ばれたら来るもので、呼ばれなかったら来る必要が無い。その説明もしたが、わたしをつけている気配は消えなかった。
ある日、お風呂へ入っているときに、まさかなと思いながら「グラス」と呼んだことがある。秒で姿を現したので、手に届く範囲のものを全て投げつけ追い出した。
お風呂で裸を見られたこと、見られていたかもしれないことには、さして恨みは無い。あんな抑揚のない、無機物を見るような眼で見られたからといって、恨んでも仕方ないだろう。さっさと忘れてしまうほうがよっぽどマシだ。……それはそれとして、殴るのは当然の権利であるため、部屋に戻った後にぶっ飛ばしておいた。
しかし、このことで彼の受けている命令は明確となった。
わたしの護衛である。
たまに用事があると姿を消すのは、別の任務でもあるのだろう。
だが、護衛とは穏便ではない。なにがあったのかは分からないが、貴族である以上問題とは遭遇するものだ。そのうえで、わたしに護衛を付けねばならないような事態があったのだと思う。気を抜くことはできない。
彼を雇って一年経った日。グラスをお気に入りの場所へ案内してあげることにした。
王都内のとある場所なのだが、白い王城が夕焼けで赤く染まり、徐々に変化していくのを楽しむスポットだ。
カップル御用達の場所だが、もちろんそんな目的で来ていない。彼にも、王都一美しい景色を見せてやろうじゃないか。それだけだった。
程なくして、空が茜色に染まり出す。同じく城も色を変化させた。
「わぁ……!」
わたしは感嘆の声を上げ見惚れていたのだが、本来の目的を思い出し、グラスへ目を向けた。
「……」
無表情である。感動しているのかもさっぱり分からない。
これまでは我慢してきたが、この態度にはカチンとくるものがあり、わたしはつい言ってしまった。
「ちょっと、グラス! この美しい景色を見て、なにも感じないの!?」
感じるはずだ、それが人間だ、と自信を持って告げる。
しかし、グラスは夕焼けを見たまま、ポツリと言った。
「……わからない」
その言葉は、この一年で、初めて発された言葉だった。
分からないとは、分かりたいということでもある。彼はこの美しい風景に、なにかを感じているか、なにかを感じたいと思っている。
もしかしたら気付いていなかっただけで、今までもそうだったのかもしれない。
わたしはまだ子供だ。我慢できないこともあれば、うまく伝えられないこともある。そんな自分の年齢に無力さを感じながら、彼の手を握り、拙い言葉を紡いだ。
「目が離せないでしょう? 胸の中でなにかが疼くでしょう? それがたぶん、美しいと思う感情で、美しさに感動しているということよ」
「……」
自分の胸に手を当てたまま、グラスは動かなくなる。
でもその目は変わらず、夕焼けを見ていた。
きっと彼も変わっているのだと信じ、届けばいいなと必死に想いを伝える。
「思ったことを、考えていることを教えて。あなたの感じていることがどんな感情かを、わたしも頑張って伝えるわ。だから、なんでも正直に話してね」
だがグラスはなんの反応も見せず、どうしてもっと自分は真面目に勉強をしておかなかったのだろう、どうしてうまく伝えられないのだろう、と悲しくなってしまう。
でも不意に、手がほんの少しだけ強く握られる。
顔を上げると、彼が小さく息を吐きながら言った。
「……美しい」
赤から青に紫、そして黒へ変わっていく。
グラスだけでなく、誰もが景色を見ている中で、わたしは彼の横顔を見続ける。
ほんの僅かにだけ緩んだように思えるグラスの表情に、わたしは初めて感情というものを見た気がしていた。
――数年後。
「……だー! うおー! 起きろー! ひゃっはー!」
早朝から、なにか鍋かフライパンを叩きながら、叫び声を上げつつ、屋敷の中を走り回っている人がいる。言葉の感じから、火事で避難を呼びかけているのだろうと思い、眠気も忘れて飛び起きた。
「あわわわわわわわ」
逃げ遅れたら大変だと、寝間着姿のまま窓から飛び出す。くるりと回って庭へ着地すると、ふわりとなにかを肩に掛けられる。良い匂いのするそれは、シーツかなにかのようだ。
目を瞬かせていると、事前に庭へいたのであろう、なぜか全く慌てていないメイリーが言った。
「お嬢様。寝間着姿で庭へ飛び出すのはどうかと思います。女性として反省するべきことです」
呆れているメイリーに、あたふたしながら言い訳をする。
「ち、違うのよ! どうも火事みたいで、まずは脱出しなければと――」
「声を良くお聞きください」
最後まで言い切ることすら許されず、少々ムッとしながら耳を澄ます。
「朝だー! 起きろー! あーさー!」
「…………」
「ご理解いただけましたか?」
この声はグラスだ。わたしを起こすため、このようなことをして遊んでいるのだと瞬時に理解した。
運の良いことに、わたしが窓から飛び出したことには気付いていないらしい。今、屋敷に戻れば裏を突けるだろう。
どうしてくれようかと腕を回しながら歩を進めていたのだが、メイリーに声を掛けられた。
「変わりましたね」
「あんな風に変わると思わなかったのよ。屋敷へ初めて来たころの、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた時に戻ってくれないかしら……」
額に手を当て呻いていると、メイリーは真っ直ぐにわたしを見ながら言った。
「本当にそう思っているのですか?」
本音が聞きたいのだと分かり、わたしは肩にかかる髪を勢いよく払って言った。
「まさか! 今のほうが、とても人間らしくて好きよ。面倒を見た甲斐があったわ。 ……違う意味で手がかかるようにはなったけどね」
小さく息を吐くと、満足したのか、メイリーは一つ頷いた。
「お嬢様のお力あってこそですよ」
「本当にそう思うわ! ……じゃあ、そろそろとっちめてくるわね。また後で」
今度こそ、いまだ屋敷内で騒いでいるグラスの元へ向かい歩き出す。
「――でも、我がままで生意気だったお嬢様も、グラスの面倒を見ることで成長したんですよ?」
メイリーがなにか言っていたように思い振り向くも、彼女は背を向け歩き始めている。
たぶん、風の音だったのだろうと、わたしは屋敷へ向かう足を速めた。
今まで、男はお前に手を出すかもしれないからダメだ! と言い続けていたお父様が、初めて雇った執事の青年との出会いがこれだった。
はぁー? 執事なんていりませんけどー! と思っていたが、お父様の言葉へ違和感を覚える。
十歳のわたしでも分かるほどにお父様の言ったことはおかしい。普通、執事が面倒を見るほうで、わたしは面倒を見させるほうだ。
妙な言い間違いだなと思いつつ、青年を上から下まで見る。
夜の闇のように黒い髪で隠れているが、瞳も同じ黒色。
サイズは合っているはずなのに、どこか違和感を覚える執事服姿。普通ならば白であるはずなのに、両手に着けている手袋も黒で、まるで死神のようだな、と感じた。
だがなによりも興味をそそられたのは、その眼だろう。
わたしを見るわけでもなく、だが別のどこかを捉えているわけでもない。なにも見ていないような黒い瞳は、夜の海を覗き込んでいるような恐ろしさを思い出させた。
一度体を震わせた後、その震えを声に載せないよう気を付けながら父へ聞く。
「ふ、ふーん。彼の名前は?」
「名前……」
お父様はなぜか一瞬止まった後に答えた。
「……グラス、だよ」
「グラスね。わたしの名前はレイシル=シュティーアよ! 次からは先に名乗りなさい! よろしく、グラス!」
わたしはお父様に頼まれたこともあり、下手に出てやることにし、先に手を差し出してやった。かなり心が広いと思う。
なのにグラスはそのまま動かず、ただ差し出された手を見ていた。
「ほら、グラス。握手だよ。優しく握り、離すだけでいい。親愛の証だ」
「……」
言われた通りに手を優しく握り、そのまま離す。言われた通りにしている様は、まるで人形のようだった。
このやり取りを経て、わたしは気付く。面倒を見てやってくれ、というのは言葉通りの意味だったのだと。
正直、お父様に頼まれるくらい自分は成長した。面白い玩具を託された。……当時は、その程度に感じていたと思う。
しかし、彼の面倒を見るのは、想像より二千倍くらい大変だった。
「では、部屋に戻るわね」
「あぁ、よろしく頼むよ」
「……」
彼を伴い部屋へと戻る。
「ここがわたしの部屋よ。何度も訪れることになるから覚えておきなさい」
わたし付きの執事である以上、この部屋の場所は、一番初めに覚えてもらわなければならない。
だが予想通り返事は無く、想定の範囲内だと振り向き……想定外だと思った。
後ろに誰もいなかったからだ。
地面を踏みしめながら、来た道を戻る。お父様に案内され、こちらへ歩いて来るグラスの姿が目に入った。
「グラス!」
「……」
「どうしてわたしについて来てないのよ!」
「……」
彼はなにも口にせず、どこを見ているのか分からない眼で、わたしの方を向いている。吸い込まれてしまいそうで、背筋がゾクリとした。
なにを言えばいいのか分からない。
本当にやっていけるのだろうか。この瞳に、いつか呑み込まれるのではないか。
心中が恐怖へ包まれ始める。
「あー……。その、レイシル? 彼は――」
なにかを言おうとしたお父様の言葉を遮り、自分の頬を両手で強く叩いた。
お父様が唖然としている中、ヒリヒリとする頬を無視し、グラスの手を掴んだ。
「仕方ないわね! 手を引いて案内してあげるわ!」
わたしの名はレイシル=シュティーア。偉大なるブルード=シュティーアの娘であり、この家の跡継ぎだ。少々問題がある年上の青年程度に臆すことはできない。
「こっちよ!」
恐れを振り払おうと、グラスの右手を強く握る。彼はほんの僅かに眉をひそませた後、素直に従ってくれた。不愉快だったのかもしれないが、わたしに従ってもらう。
グラスへ自分の部屋を案内した後、今度は一緒に台所へ向かう。淑女たるもの、紅茶を嗜むのは当然のことだ。
今後は執事であるグラスの仕事にしようと思っている。そのため、台所へ連れて行き、メイド長のメイリーに必要なことを教えるよう伝え、先に部屋へと戻った。
最初は準備に時間がかかるだろう。寛大な心で待っていると――横から手が伸び、机の上に皿が置かれた。
「ひゃっ!?」
手の主はグラスで、彼はそのまま机にカップを置き、紅茶を注いだ。わたしの悲鳴など、まるで気にしていない様子だ。
音も無く現れたグラスは、部屋の扉を開け放ったまま準備をしている。
わたしは心を広く持ち、彼へと伝えた。
「……扉は開けたら閉めるものよ。後、入る前にノックを」
「……」
グラスは無言のまま扉へと近寄って閉める。少しだけ彼を理解した。
「返事は大事よ。頷いたり、声に出したり。でないと何を考えているのかは分からないからね」
グラスは一度頷く。わたしの言い方が良くなかったようだ。
「頷くだけでなく、できるだけ声でも返事をしてくれる?」
「……はい」
初めて声を聞き、わたしはなぜか飛び上がりたくなるほど嬉しくなった。なんなら、頭を撫でまわし、褒めてやりたい。
なるほど、これがペットを躾ける気持ちなのだろう。
「えぇ、そうね。それでいいわ。よくできたわね、グラス」
良い気分のまま注がれた紅茶を飲み――あまりのマズさに吹き出した。
「ブッフォオオオオオオオオオオ! ちょ、なによこれ! なにを入れたの!? ゲロマズ!」
彼は淡々と、紅茶の中へ入れたものを並べていく。事前に用意していたのか、と言いたいが今は置いておこう。
茶葉、砂糖、ミルク、薬、肉、魚、野菜……。
見ているだけで頭が痛くなってくるので、途中でやめさせた。
今すぐ「クビだ!」と言ってやりたいところだが、それは器の小さい人間の話である。わたしはとても寛大だ。
グラスのやったことは、恐らく善意からくるもの。彼なりに健康を考え、バランスを良くしようとしたのだろう。きっとそうだ。信じたい。
声を震わせながら、グラスへ言う。
「ま、まずはポットに茶葉とお湯をいれ、それをカップへ注ぐだけでいいわ。砂糖とミルクは自分で入れるから。後はなにも要らないわ。えぇ、本当になにも」
ポットへ大量に入っている廃棄物を、彼の好意だと思って必死に飲む。もしかしたら、後で腹を壊すかもしれない。
冷や汗をダラダラ流していると、妙な光景が目に入った。
「……ねぇ、グラス。あなたなにを飲んでいるの?」
「水」
「ぶっ飛ばすわよ?」
あれほどの怒りを覚えたのは初めての経験だった。
グラスが執事となり、徐々に色々なことを理解し、彼にも変化が現れる。紅茶の腕前は少しずつ上がっており、口にする単語も増えていた。
「はい」「いいえ」「行く」「止まる」などなどだ。かなりの成長が窺える。
そして、いくつかのことに気付いた。
まず最初に気付いたことは、彼が執事ではない、ということだ。
ちなみにこれはかなり早い段階で気づいた。あんなに話せず使えず常識の無い青年を、執事として雇うはずがない。
だがまぁ、決定的だったのはあれだろう。彼が、常にわたしの近くへいたことだ。
執事とは呼ばれたら来るもので、呼ばれなかったら来る必要が無い。その説明もしたが、わたしをつけている気配は消えなかった。
ある日、お風呂へ入っているときに、まさかなと思いながら「グラス」と呼んだことがある。秒で姿を現したので、手に届く範囲のものを全て投げつけ追い出した。
お風呂で裸を見られたこと、見られていたかもしれないことには、さして恨みは無い。あんな抑揚のない、無機物を見るような眼で見られたからといって、恨んでも仕方ないだろう。さっさと忘れてしまうほうがよっぽどマシだ。……それはそれとして、殴るのは当然の権利であるため、部屋に戻った後にぶっ飛ばしておいた。
しかし、このことで彼の受けている命令は明確となった。
わたしの護衛である。
たまに用事があると姿を消すのは、別の任務でもあるのだろう。
だが、護衛とは穏便ではない。なにがあったのかは分からないが、貴族である以上問題とは遭遇するものだ。そのうえで、わたしに護衛を付けねばならないような事態があったのだと思う。気を抜くことはできない。
彼を雇って一年経った日。グラスをお気に入りの場所へ案内してあげることにした。
王都内のとある場所なのだが、白い王城が夕焼けで赤く染まり、徐々に変化していくのを楽しむスポットだ。
カップル御用達の場所だが、もちろんそんな目的で来ていない。彼にも、王都一美しい景色を見せてやろうじゃないか。それだけだった。
程なくして、空が茜色に染まり出す。同じく城も色を変化させた。
「わぁ……!」
わたしは感嘆の声を上げ見惚れていたのだが、本来の目的を思い出し、グラスへ目を向けた。
「……」
無表情である。感動しているのかもさっぱり分からない。
これまでは我慢してきたが、この態度にはカチンとくるものがあり、わたしはつい言ってしまった。
「ちょっと、グラス! この美しい景色を見て、なにも感じないの!?」
感じるはずだ、それが人間だ、と自信を持って告げる。
しかし、グラスは夕焼けを見たまま、ポツリと言った。
「……わからない」
その言葉は、この一年で、初めて発された言葉だった。
分からないとは、分かりたいということでもある。彼はこの美しい風景に、なにかを感じているか、なにかを感じたいと思っている。
もしかしたら気付いていなかっただけで、今までもそうだったのかもしれない。
わたしはまだ子供だ。我慢できないこともあれば、うまく伝えられないこともある。そんな自分の年齢に無力さを感じながら、彼の手を握り、拙い言葉を紡いだ。
「目が離せないでしょう? 胸の中でなにかが疼くでしょう? それがたぶん、美しいと思う感情で、美しさに感動しているということよ」
「……」
自分の胸に手を当てたまま、グラスは動かなくなる。
でもその目は変わらず、夕焼けを見ていた。
きっと彼も変わっているのだと信じ、届けばいいなと必死に想いを伝える。
「思ったことを、考えていることを教えて。あなたの感じていることがどんな感情かを、わたしも頑張って伝えるわ。だから、なんでも正直に話してね」
だがグラスはなんの反応も見せず、どうしてもっと自分は真面目に勉強をしておかなかったのだろう、どうしてうまく伝えられないのだろう、と悲しくなってしまう。
でも不意に、手がほんの少しだけ強く握られる。
顔を上げると、彼が小さく息を吐きながら言った。
「……美しい」
赤から青に紫、そして黒へ変わっていく。
グラスだけでなく、誰もが景色を見ている中で、わたしは彼の横顔を見続ける。
ほんの僅かにだけ緩んだように思えるグラスの表情に、わたしは初めて感情というものを見た気がしていた。
――数年後。
「……だー! うおー! 起きろー! ひゃっはー!」
早朝から、なにか鍋かフライパンを叩きながら、叫び声を上げつつ、屋敷の中を走り回っている人がいる。言葉の感じから、火事で避難を呼びかけているのだろうと思い、眠気も忘れて飛び起きた。
「あわわわわわわわ」
逃げ遅れたら大変だと、寝間着姿のまま窓から飛び出す。くるりと回って庭へ着地すると、ふわりとなにかを肩に掛けられる。良い匂いのするそれは、シーツかなにかのようだ。
目を瞬かせていると、事前に庭へいたのであろう、なぜか全く慌てていないメイリーが言った。
「お嬢様。寝間着姿で庭へ飛び出すのはどうかと思います。女性として反省するべきことです」
呆れているメイリーに、あたふたしながら言い訳をする。
「ち、違うのよ! どうも火事みたいで、まずは脱出しなければと――」
「声を良くお聞きください」
最後まで言い切ることすら許されず、少々ムッとしながら耳を澄ます。
「朝だー! 起きろー! あーさー!」
「…………」
「ご理解いただけましたか?」
この声はグラスだ。わたしを起こすため、このようなことをして遊んでいるのだと瞬時に理解した。
運の良いことに、わたしが窓から飛び出したことには気付いていないらしい。今、屋敷に戻れば裏を突けるだろう。
どうしてくれようかと腕を回しながら歩を進めていたのだが、メイリーに声を掛けられた。
「変わりましたね」
「あんな風に変わると思わなかったのよ。屋敷へ初めて来たころの、ミステリアスな雰囲気を醸し出していた時に戻ってくれないかしら……」
額に手を当て呻いていると、メイリーは真っ直ぐにわたしを見ながら言った。
「本当にそう思っているのですか?」
本音が聞きたいのだと分かり、わたしは肩にかかる髪を勢いよく払って言った。
「まさか! 今のほうが、とても人間らしくて好きよ。面倒を見た甲斐があったわ。 ……違う意味で手がかかるようにはなったけどね」
小さく息を吐くと、満足したのか、メイリーは一つ頷いた。
「お嬢様のお力あってこそですよ」
「本当にそう思うわ! ……じゃあ、そろそろとっちめてくるわね。また後で」
今度こそ、いまだ屋敷内で騒いでいるグラスの元へ向かい歩き出す。
「――でも、我がままで生意気だったお嬢様も、グラスの面倒を見ることで成長したんですよ?」
メイリーがなにか言っていたように思い振り向くも、彼女は背を向け歩き始めている。
たぶん、風の音だったのだろうと、わたしは屋敷へ向かう足を速めた。
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