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第一章

3-8 オーガの一撃に勝る勇者の涙

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 泥沼に足をとられている。深いわけではないが、不快だった。……冗談を言っている場合じゃない。粘り気があるようで、足を抜くことが困難だ。
 それは他も同じはずなのだが、オーガだけは鈍いながらも動いている。というか、オーガは手の届く範囲にいた。

「くっそ……!」

 オーガが腕を振りかぶる。殴られると思い、顔を両腕で守った。
 強く、腕が握られる。殴るのではなく、掴むことが目的だたらしい。野菜を抜くように、体が泥沼から引き抜かれた。
 目の前にはオーガの顔。臭い息に顔を顰めた。

「カッハアアアアアアアアア」

 吐きそうだ。臭いにも、状況にも。
 武器は無い。なら作ればいい。当たり前なことだ。
 落ち着いて魔法を唱える。

「《ストーン・ステイク》」

 オーガの足を狙い、地面から土の杭が出現する……はず、だった。
 体がぐらりと揺れただけで、オーガの足を貫く石杭は姿を見せない。とても簡単な話だろう。威力が足りず、貫けなかったのだ。

「《アイス・ソード》!」

 空いた手で氷の剣を握り、オーガの目へ振る。ベキリと氷の剣は折れて、泥沼に落ちた。
 柔らかいはずの目にすら傷一つつけられない。体勢が不十分なこともあるが、それだけオーガが強固だということでもあった。

 足場が良く、体勢も十分であれば、オーガに傷をつけることができる。それは、山賊たちがやって見せたことからも間違いない。
 では、今の俺はどうすべきか? なに、大したことじゃない。倒すことを諦めればいいだけだ。

 力を抜けば、オーガがにたりと笑う。ようやく獲物が諦めた。その瞬間を見るのが一番好きだ、と言わんばかりに。悪趣味なことだ。

「ラックスさん! 諦めないで!」

 勇者様の声を聞きながら、ゆっくりと手を前に翳す。
 安心してください、勇者様。このラックス、まだ諦めてはおりません。

「《サンドストーム》!」

 オーガの顔面に向け、砂をぶち撒ける。威力などはなにもない。ただ、砂を勢いよくかけただけだ。
 しかし、それでいい。
 想定通り、目に異物の入ったオーガは、俺を放り出して悶えだした。

「バーカバーカ! 獲物の前で舌舐めずりは三流のすることだ! ベーヴェもオルベリアもそうだったけどな! いてぇっ!」

 兜になにかが当たり、カーンッと良い音がする。恐らくゴブリンが投擲したのだろう。

「兜を被っといて良かった!」
「それ、オヤジギャグです!」
 だからオヤジの芸とはなんなのか。よく分からないので、今度じっくり勇者様から聞き出すことにしよう。
 叫び、暴れるオーガの足にしがみ付いて泥沼の中に転ばせ、その体をよじ登る。後は他の足場を探し、泥沼を抜ければいい。

「グオオオオオオオオオオオ」
「残念、お見通しだ。《サンドストーム》」

 ここにいたオーガは二体。俺は颯爽と魔法を唱え――防がれた。
 砂を振り払ったオーガが拳を下から振り上げる。アッパーカットだ。両腕で防いだが、体は宙を舞っていた。

 洞窟近くの岩壁に体が叩きつけられて落ちる。
 しかし、これは幸運だ。お陰で泥沼を抜けることができた。
 起き上がろうとしたが、腕に激痛が奔る。逆の腕で立ち上がろうとしたが、同じように激痛が奔った。
 なぜ、と目を向ける。……どちらの腕も、あらぬ方向に曲がっていた。骨などが見えていないのは、防具があったお陰だろう。中でどうなっているのかは想像したくない。

 仰向けのまま体を動かし、岩壁に背を押し付けてずり上がり、やっと座ることができた。
 だが、時間をかけすぎたのだろう。目の前にはもうオーガの姿があった。

 立ち上がり、一撃避けたら走る。それだけを考えていたのだが、立ち上がることができなかった。
 足は……折れていない。なら、どうして? 
 少し考え、すぐに答えへ至った。
 俺の体は限界で、もう立ち上がる力すら残っていなかった、ということだ。

 ――ならば転がって避ければいい。
 味方はたくさんいる。助けは必ず来る。無様でも生き残れば俺の勝ちだ。
 後はタイミング次第。瞬き一つできぬと気合を入れていたのだが、叫ぶ声が聞こえた。

「あ、あああああああああああああああああああああああ!」

 見てみれば、勇者様の目が青く輝き、両手が真っ赤に燃えている。

「ラックスさんを! 助けないと! ……殺し、て、でも!」

 オーガが強いということは、勇者様も理解しているのだろう。今までよりも遥かに魔力を籠め、魔法を放とうとしていた。

 しかし、それはいけない。
 勇者様に殺す覚悟を持ってほしいと思ったことはある。だが、仕方なく殺してしまえば、彼女は一生後悔するだろう。

「《フレ、イ、ム……》!」

 ダメだ、と言う時間も無い。
 頭を己の膝に叩き落とす。立ち上がれないなどという甘えは許されない。

「う、ぐ」

 クラクラする。膝も痛い。少し強くやりすぎたかもしれない。
 反省しながらも、倒れるように前へ飛び出す。

「《バー……スト》!」

 それは、俺の知っている炎では無かった。
 白い光の線、とでも言えばいいだろうか。
 真っ直ぐに伸びるそれが胸へ当たり、体が泥沼から押し出される。
 また岩壁へ叩きつけられ、地面へと落ちた。

「ラックスさん!?」

 それが、意識が落ちる前、最後に聞いた声だった。


 ――体が重い。特に胸は重く、なにがあったかを思い出す。
 たぶん、俺は死んだのだろう。あれほどの炎だ。鎧は融け、体でも防げず、魔法は貫通した。
 今頃、俺の胸にはポッカリと穴が空いている。きっとそれが悲しく、重いものを感じさせているのだ。

 ふぅ、と息を吐く。
 勇者様にモンスターを殺させたくなかった。なのに、仲間を殺させるという、より大きなトラウマを植え付けてしまった。
 きっと彼女は、失意のままに王都へ戻るだろう。そして、泣きながら国へ帰るのだ。

 ……せめて、記憶を失う魔法などがあるのなら、彼女に施してもらいたい。
 仲間を殺したという最悪の出来事を忘れ、元の生活に戻ってほしい。

 伝える手段を持たない俺は、ただ切に願う。
 どうか、勇者様に救いを――にしても、胸が重い。穴が空いたのなら、軽くなるのが当然だ。精神世界かなにかなのかもしれないが、これは堪ったもんじゃない。

 俺は痛む腕を動かし、胸元に触れる。……大きな膨らみと、もさもさの毛があった。
 おぉ、なんということだ。俺は巨乳の女性になっただけでなく、胸毛までフッサフッサなワイルドレディになっていた。

「――なんでやねん!」

 前、勇者様に教えてもらった、”カンサイノツッコミ”を口にする。これを言えば、大抵のことは笑って許されるらしい。すごいツッコミだ。

 さて、現実逃避はこの辺にしておこう。どうやら俺は生きているようだ。
触れているものを撫でてみるに、これは胸ではない。
 あれはもっと柔らかく、触っているだけで幸せになれるものだ。と、兵士長が言っていた。

 なら、このもさもさとした固くて丸いものはなにか?
 億劫ではあったのだが、少しだけ目を開く。……泣いている勇者様と目が合った。もう一度目を閉じた。

 俺はクールな男だ。王都内でも、クールラックスと呼ばれていた。嘘だ、呼ばれていない。
 しかし、泣いている女性への対処方法ならば、兵士長に教えてもらっている。優しく頭を撫でて落ち着かせればいいのだ。娘さんは、そうすると泣き止むらしい。

 正に今やっているなと思い、優しく頭を撫で続ける。もちろん目は開かなかった。

「ラックシュしゃん、いま、めをあけ……ぐすっ。あけちゃ、よね?」

 胸が痛い。傷的な意味合いもあるので、二つの意味で痛い。勇者様の涙声で居た堪れない気持ちになっていた。
 そーっと目を細く開く。顔面ぐしゃぐしゃ鼻水まで垂らしている勇者様が、俺の目を瞬きもせずに見ていた。俺はもう一度目を閉じた。

 眠ろう。全て無かったことにして起き直そう。それこそが正しい方法だ。
 俺は考えることをやめ、微睡の中へと――。

「ラックシュさん! ラ、ラックスしゃん生きてたんでしゅね! 良かった! 本当に良かったでしゅ!」

 抱き着いた勇者様が、耳元でわんわんと泣いている。
 俺はしっかりと目を開き、頭をポンポンと叩いた。

「いやはや、どうもご迷惑をおかけしました。……落ち着いたらで構いませんので、あの後のことを教えてもらっても?」

 まるで声は届いていないらしく、それから一時間ほど頭や背を撫で続けるのだった。


 ――目元を黒の色付き眼鏡で隠し、顔の下半分にスカーフを巻いた勇者様が、コホンと咳払いをする。どうやら顔を見られたくないようだ。

「あの後、ラックスさんは気を失い、オーガとゴブリンは山賊の方々が倒したわ。かなり手こずってはいたけれどね。……わたしは、冷静にラックスさんに治療を施していたわ。その甲斐もあり、命が助かったというところね」

 なにも言わず、ニコニコと笑って返す。勇者様もニコニコと笑っていた。

「で、洞窟内の残党も処理をしたので、今は休ませてもらっていたところよ。ラックスさんが動けるようになり次第、町の近くまで送ってくれるらしいわ。山賊と長く付き合うのは良くないだろう、って。ちなみに三日経っているわ」
「なるほど、分かりました」

 大体の事情は把握した。傷の具合的には、送ってくれるのならば明日にでも移動は可能だろう。
 しかし、どうしても分からないことがあった。

「これ、どう思う?」
「どうもこうも、なぜ生きていたのかが分かりません」
「そうよね……」

 勇者様が手にしているのは、王国から支給されたの兵士の鎧。その胸元には大きな穴が開いており、溶けたような跡も残っていた。
 だが、俺の胸元に傷は無かった。どちらかと言えば、吹き飛ばされた衝撃のダメージが大きく、それが気絶した要因だとか。
 もし、なにかがあったとすれば……。

『違うぞ』

 先んじて、短く否定された。どうやら妖精さんの仕業でもないようだ。

 両腕、胴体と包帯を巻かれており、頭部だけは先日とれたらしい。
 装備で無事だったのは、兜と足部分。胴と小手、剣に盾を失った。後はマジックバッグと、中に入れておいた槍と短弓、矢。これくらいか。

「はぁ……魔力が暴走していたとか、修行が足りなかったわ。もっと魔法の鍛錬を積まないと」
「とても中級魔法とは思えない威力でしたよ。あれならオーガも一撃でしたね」
「実際は、ラックスさんが一撃だったけどね。あははっ」
「はっはっはっ」
「笑いごとじゃないから!」
「はい!」

 思い出したとばかりに、勇者様の説教を食らう。無茶をしたのだからしょうがない。
 だが最後には、「殺させないでくれてありがとう」と笑顔を見せてくれた。命あってこそだが、結果良ければ全て良し、と勇者様の国では言うらしい。


 ――翌日。山賊たちの用意した馬車の荷台へ乗り込む。
 頭に兜。下半身だけ防具。手には槍。腰にはマジックバッグ。準備万端だ。……マジックバッグ?
 ふと、なにか妙な感じがする。そういえばあのとき、マジックバッグは鎧の中に――。

「ラックスさん。その格好、めちゃくちゃ怪しいわよ。わたしなら絶対通報するわ」
「仕方ないじゃないですか! 山賊たちの盗んだ防具を分けてもらうわけにもいかないんですから!」

 勇者様に笑われ、必死に言い訳をしていると、山賊の頭が近づいて来た。

「助かった。困ったことがあれば言え。礼はする」
「山賊にしてもらう礼など」
「なら、山賊をやめなさい。それだけ戦えるのだから、王都で兵にでもなればいいじゃない」
「うぐっ。そ、そんな簡単には――」
「勇者にやられて改心した、と言えばいいわ。最初は疑われるかもしれないし、罪は償わなければならない。でもきっと、今みたいに隠れて暮らす必要は無くなるわ」

 そんな簡単に行くはずがない。勇者様の言うことは理想論で……だが、だからこそ心地よい。

「ね? そうでしょ、ラックスさん。きっとどうにかしてくれるわよね?」
「……えっ。あ、はい、そうですね。えっと、勇者様の推薦だと書状を送っておけば、罪は軽減され、働きで返すことになるはずです。なんといっても、勇者ですから」

 根拠もなく、勇者様を安心させようと言ってしまった。完全にやらかした感じがする。
 しかし、山賊の頭は目を見開いていた。

「ゆ、勇者!? オレたちは勇者と戦ったのか!?」
「……そういえば内緒だったわね」
「勇者様あああああああああ!?」
「そうか、勇者か。勇者の推薦状があるのか。……へへっ、山賊も潮時かもしれねぇなぁ。よろしく頼んだぜ、勇者とあんちゃん」
「よろしくね、ラックスさん!」

 自分、大した権限もない平兵士ですよ!?
 などと言えるはずもなく、笑顔で頷く。

「もちろんです、お任せください」

 俺はサニスの町から送る予定となった書状の内容について、馬車内で死ぬほど頭を悩ませることになるのだった。
 あれ? そういえばさっきなにか考えていたような……。まぁいいか。
 思い出せないことは忘れ、再び書状に取り組むのであった。
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