鬼と天狗

篠川翠

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第二章 尊攘の波濤

江戸震撼(5)

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 さらに、清介は「江戸藩邸を離れたために、江戸の貸本屋から古文書を借りて書き写せなくなってしまったのが残念だ」と惚けたことを述べ、十右衛門と鳴海は思わず苦笑した。この眼の前の男が、昔から国学に並々ならぬ関心を示し、さらにその影響で重度の古典オタクであることを、二人は知っているのである。
「ついでに、鳴海殿にも申し上げておこう。江戸の水戸藩邸から、黄門公に付き従って上洛した者が大勢いるというのは、お聞き及びか?」
 清介が、鳴海に問うた。権太夫を訪問してきたはずなのに、なぜ自分に話を振るのかと訝しみながら、鳴海は肯いてみせた。
「噂には聞いておる」
 揚げ足を取られないように、簡潔かつ慎重に答える。だが、清介が次に続けた言葉は、鳴海の緊張を一気に高めた。
「その上洛の一行に、猿田愿蔵という者も加えられたらしい。さらにその猿田の付き人として、脱藩した藤田芳之助も上洛したらしい」
「芳之助が京に……」
 先日の黄山との会話が、鳴海の脳裏を過ぎった。既に水戸藩は、「攘夷」を藩是としているらしい。さらに、現在の京は尊攘派の巣窟である。そこで水戸の尊攘派がどのような動きを見せるか。その動き次第で、また守山の三浦が何か仕掛けてこないとも限らない。
「清介。お主、なぜその話を俺にする?」
 真意が読めないという点は、この清介も守山藩の平八郎といい勝負である。鳴海の三浦家訪問と清介の本の返却は偶然なのだろうが、何を考えているかわからない。
「鳴海殿と守山藩の三浦平八郎殿の因縁は、深いようですから。我々としても、守山藩に差し出がましい真似をされて、真の尊攘が邪魔されては困ります」
「何だ、それは……」
 次第に、不快さが募る。この物言いからすると、やはり、この男は根っからの勤皇党に違いない。しかも、家格が上の鳴海を手玉に取ろうとしているのではないか。かつて小川平助に言われたことも忘れ、鳴海の顔は険しさを増した。
「そう言えば、鳴海殿が芳之助を追放されたのでしたな」
 権太夫が、鳴海に鋭い視線を投げつけた。恐らく、権太夫も日頃から勤皇の同志として芳之助と交流があったのだろう。だが、芳之助の動機がどうあれ、脱藩は脱藩である。鳴海の処置が誤っていたわけではない。鳴海はじろりと権太夫を睨みつけた。
「鳴海殿。落ち着かれよ」
 鳴海や権太夫とは対照的に、清介は落ち着き払った声で答えた。
「拙者が恐れるのは、少壮の激徒が己の私念をもって必勝の成算もなく、憤激の余勇を買って民らを塗炭の苦しみに陥れることでござる」
 清介の言葉に、鳴海はしばし黙り込んだ。迂遠な言い回しだが、「少数の過激派が己の激情に駆られて勝つ見込みもないのに、徒に戦を起こして民らを苦しめようと画策している」ということである。
「清介。お主、尊攘派ではないのか」
 焦れたように、十右衛門が鳴海の疑問を代弁した。権太夫も、戸惑いの表情を浮かべている。
「清介殿。我らの趣旨にご賛同頂いたのではございませぬか」
 権太夫の言葉からすると、やはり二本松藩にも尊攘派の派閥があるようだった。その中心人物は恐らく和左衛門であり、影で操ろうとしていたのが守山藩の三浦平八郎なのだろう。だが、清介親子らは、また別の尊攘派ということか。
「よろしいか、権太夫殿」
 怜悧な視線を投げつけながら、清介は言葉を繋いだ。
「そもそも、天地は活物。人もまた活物であり、活物が活物の中で行動した場合、その変化を全て知り尽くすのは不可能。事は時流に従って転じ、機は瞬息の間に有り申す。欧米列強からこの国を守るには、昨今の国際情勢と国内事情を冷静入念に検討し、当面如何なる策を決断実行するのが、我が国の独立と安寧にとって最も有効であるかを見定め、臨機応変の対策を講ずるべきである。そう思われませぬか」
 権太夫は、硬い表情のままだ。だが、鳴海は何となく清介の言わんとすることが見えてきた。これも、先の黄山の教えのおかげだろう。
「――つまりお主は、水戸の尊攘派らが騒ぐ『横浜鎖港』は短絡的であり、長い目で見た場合に、この国のためにならぬと考えるのだな?」
 鳴海の言葉に、清介は口元に笑みを浮かべた。
「尊攘派ではない鳴海殿の方が、物分りが良さそうです」
 揶揄する物言いは引っかかるが、どうやら鳴海の解釈は当たっていたらしい。
「交易に関する約束事は、言わば国と国の約束。これを易易と反故にするようなことがあれば、イギリスなどに格好の戦の口実を与えることになりましょう。また、一度開いた門戸を再び閉じるなど、貿易で利を挙げている商人らが認めるはずがこざいますまい。いっそ、万国共通の決まりに従い、国力を向上させることで我が国の底力を諸国に見せることで、我が国を諸外国の守らんとするのが真の攘夷ではございませぬか」
 鳴海の脳裏に閃いたのは、「富国強兵」の四字熟語である。なるほど、そういうことか。
「会沢正志斎様の『時務論』ですな。現在、老耄され変節されたと揶揄されている」
 苦々しげに、権太夫が吐き捨てた。会沢正志斎の名は、鳴海も聞いたことがある。確か水戸の尊攘思想を全国に広めるきっかけになった著作が会沢の「新論」だったはずだが、その会沢の最新作は読んだことがなかった。もっともそれは、鳴海がさほど尊攘思想に興味がないからなのであるが。
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