鬼と天狗

篠川翠

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第三章 常州騒乱

関東内訌(3)

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 それからしばらくして、衛守は本当に家を留守にした。善蔵が商いをしている間、善蔵の知己ということで紹介をしてもらい、須賀川の旅籠に逗留している様子である。
 やがて須賀川からの飛脚便が届き始めた。どう立ち回ったものか、衛守は嶋屋しまやという大きな商家にも出入りを許されるようになったとのことだった。この嶋屋は守山藩の御用達を申し付けられており、守山藩士らも出入りしている。その衛守からの文によると、守山藩にもやはり天狗党の義挙は伝えられており、それに備えたものか、米川安之助という人物が水戸藩から小納戸役兼勘定奉行見習いとして派遣されてきた。それだけでなく、野口藤馬という人物が新しく小姓頭兼御用人となり、また、高橋岩太郎という人物が御目付役を命じられるなど、人事異動が活発なのだという。そして、現在嶽に逗留している三本木鎗三郎についても差控が許され、守山藩へ呼び戻そうという動きになっているらしかった。
 これだけ人事が活発だというのは、やはり三浦平八郎が何か手を回しているのだろう。そして、守山藩が激派で占められているならば、結城藩のように既に脱藩者の噂が聞こえてくるはずである。事実、小林権蔵らを始め守山の顔役らは五月下旬に相馬中村藩で行われる妙見神社の祭礼への出席を願い出ているなど、呑気なものらしい。
 少なくとも、守山藩経由での天狗党騒乱余波の伝達の可能性は、概ね消えた。そのことに、鳴海は胸を撫で下ろした。当面は天狗党が接触している宇都宮藩界隈や水戸本藩の動きを注視することになるだろう。
「良かったですな、鳴海殿。守山藩士らの嶽の逗留を聞いたときには、どうなることかと思いましたが」
 城で顔を合わせた与兵衛は、口元にほのかに笑みを浮かべた。が、鳴海は手放しで喜ぶわけには行かなかった。
「ですが衛守によれば、白河藩が兵を率いて上洛せよとの命を受けているとの由でございます。先に藩主となられた阿部正外殿が兵を率いて上洛する手筈になっており、総勢千余りが大坂へ向かうであろうとのことでござる。須賀川の商家にも、御用金の命令が下されたとありました」
「白河は、長州征伐に回されたか……」
 鳴海が持参した衛守からの手紙を一読した源太左衛門は、扇子を顎に当てた。守山藩経由での天狗党北征の可能性は概ね消えたものの、白河藩は関東との州境の藩である。藩の規模としては二本松藩と同格であり、その藩兵が西に差し向けられたのであれば、依然として、関東の情勢次第では二本松に「奥州の守備兵」としての役割が回ってくる可能性があった。西の大藩である会津藩はその役目上、上方から動けないからである。会津藩の松平容保公も一旦は京都守護職を解かれ軍事総裁職に任じられたという。もっとも会津藩は容保公の生来の病弱を理由として受任を渋っているそうだが、この一事を以ても、長州征伐の計画が持ち上がっているのは確実だった。
 そしてこの頃になると、天狗党らは栃木の太平山に拠点を移していた。宇都宮藩の縣は天狗党の藤田らの協力要請に対し、「幕閣や周辺諸藩にも働きかける」と約束した一方で、回答期限の猶予を求めた。その期限が六月二日であり、また、将軍の帰府が決まったことも影響していたと言われている。
「丹波様は、何と仰られておるのです?」
 鳴海は、源太左衛門に尋ねた。丹波からの知らせは、丹波の義弟でもある源太左衛門の元に届けられている。
「四月二十日付けで、朝廷は庶政委任を正式に布達されたそうな」
 そう述べる源太左衛門の口元は、常の彼に似合わず歪んでいた。
「年来の大樹公の悲願が叶い、公武一和がようやく成立したということですな」
 誇らしげに口を挟んだ和左衛門に対し、源太左衛門は鋭い視線を投げかけた。
「……我が藩の財政にも関わっている横浜鎖港を犠牲にして、でござるがな」
 その語気の強さに、和左衛門が首を竦めた。丹波のような居丈高な振る舞いには真正面から食ってかかるが、源太左衛門のように搦手から正論を論じる者に対しては、和左衛門はどうも弱いようであると、鳴海もこの頃は理解し始めていた。
 それにしても、遂に決まったのか。暗澹たる思いが鳴海の胸中を覆う。同じように、あちこちからため息が次々と伝染した。
「失礼」
 和左衛門の後ろで控えていた新十郎が、自分のところに回ってきた丹波からの回状の一点を指した。
「ここに、朝廷からの『無謀の攘夷は勿論致まじき』の文言がございまする。まだ諦めるのは、早いのではございますまいか。朝廷からの但し書きは、完全な鎖港決定を意味するとは思えませぬ」
「ふむ……」
 源太左衛門がやや目を見開いた。さすが弁舌に長け、知恵者と称される新十郎である。鳴海らが見落としたたった一文に、まだ望みをつなごうというのだ。
「……左様でございますな。それに、まだ年末に欧州へ遣った池田様御一行が戻ってきておらぬ。やはりその返答を待たずして鎖港に踏み切ることは出来ますまい。返答を待たずに鎖港に踏み切れば、戦になるは必定かと拙者は思いまする」
 掃部助が、表情を和らげた。その言葉に励まされたか、内蔵助が身を乗り出した。
「拙者も気になる点がございます。丹波様からのこの部分でござる」
 内蔵助は、丹波からの文の別の部分を指した。そこには、「黄門公は天狗党らを納得させるために、横浜鎖港を一刻も早く実行するよう幕閣らに働きかけている」と書かれている。
「自藩の者が起こした騒擾の鎮圧のために横浜鎖港を実現せよとは、物事の道理があべこべでござろう。これを実行されては、幕府の面目が立ちませぬ」
 確かに、大内蔵の言う通りである。幕閣の方針として横浜鎖港を実行するにしても、「天狗党の言いなりになって鎖港を実行した」と世間に思われては、幕府の立場がない。あくまでも、幕府の主導で行わなくてはならないのである。そして――。
「水戸藩は、元々藩論が割れている。従来の門閥の方々が、黙っておるとは到底思えぬな」
 源太左衛門が、扇子をぱらりと開いた。
「水戸で内訌が勃発するような事態になれば、また幕府に動きがあるかもしれませぬな」
 与兵衛も、源太左衛門の見立てに賛成らしい。
「割れているのは水戸藩だけではございませぬ。宇都宮も同じでございます」
 鳴海は、一同に宇都宮からの情報を伝えた。確かに懸は天狗党寄りであるが、肝心の天狗党らは大人しく太平山に籠もったままでいたわけではなかった。
 四月一四日に日光から太平山に拠点を移した天狗党の一行は、筑波山を出た際には二〇〇名程の集団だった。だが、日光進軍、そして太平山に籠もった頃には、各地から「同志」が続々と集まり、今や数百名規模の集団と化している。それだけ大勢の人数が集まれば、必ずしも心一つというわけにはいかない。食料なども不足し、一部の者らが山の麓に下りてきては付近の商家などから「略奪」を行っているというのだ。また、各派閥同士のつまらぬ諍いがおきるのも、今や日常茶飯事であるらしかった。
 そうなれば当然人心は離れていく。この頃では脱走者も出ているらしいというのが、宇都宮城下に潜伏している井上及び味岡からの報告だった。そのような天狗党に味方せよというのが無理のある話で、宇都宮藩内でも懸を罷免せよという声が起こっているらしかった。
「宇都宮も、割れているか……」
 源太左衛門が、扇子を弄んでいる。そして一つ肯くと、羽木に視線を向けた。
「城下に住む明珍みょうちんに、当世具足を急ぎ作るよう命じられよ。藩で買い上げると」
 明珍とは、具足師の名前である。儀礼用の鎧の修繕は彦十郎家でも頼んだことがあったが、源太左衛門の述べるところは、「戦支度をしていつでも幕府の出兵命令に備えよ」ということだった。
 会議後、鳴海は与兵衛を捕まえて具足の支度について尋ねてみた。
「当家では、昨年都の警護を命じられた折に整えた。一朝一夕でできるものではない故、彦十郎家でも早めに手配した方が良かろう」
「左様でございますか……」
 鳴海は肯いてみせたものの、眉根を寄せた。一昨年まで一介の平士だった鳴海は、侍大将としての具足までまだ整えていない。記憶違いでなければ、侍大将の装束は縫殿助の分があったはずだが、せめて陣羽織位は新調したかった。だが、それ以上に必要不可欠なものがある。
 鳴海の沈鬱な表情に、与兵衛が怪訝な眼差しを向けた。だがそれに気づく余裕は、今の鳴海にはなかった――。
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