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祝言

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 翌日。図書亮は峯ヶ城に出仕すると、朝の御前会議で伊藤左近の来訪及びその来意を報告した。
「ふむ……」
 四天王の一人である美濃守は、腕組みをして難しい顔をしている。そもそも、敵の軍門の者からの提案ということで、すぐに同意しかねるのだろう。
「儂は、悪い話ではないと思う」
 美濃守とは対照的に、安房守はどうやらこの話に乗り気のようだ。
「御屋形も、確かに御台所をお迎えいたすのが望ましい。そもそも、治部大輔殿は今は敵対しているとは言え、元を正せば同じ二階堂の氏を持たれる御方。その姫君を御屋形の御台にお迎えすれば、西党と東党の紐帯も強まろうというものでござろう」
 まだ岩瀬の地に来て日が浅い図書亮には感覚的に理解しかねる部分もあるが、東衆と西衆の怨恨は根深いものがあるようだった。
「同族であれば、家格も釣り合う。治部大輔もそれほど姫を愛おしんでいるというのであれば、家臣筋の者に娶すよりも仁に沿うと考えるのではないか」
 守屋筑後守も、安房守の意見に賛成のようだった。だが、美濃守は未だ慎重な姿勢を崩さない。
「一色殿。その伊藤左近という者に、渡りをつけられるか?」
「鎌倉以来の知己ですので。どこぞやの寺の方丈であれば、彼の者も参りましょう」
 図書亮としても、左近には一定の情を持っているものの、和田衆に引き合わせるには慎重を要する相手だ。先日に会ったときの話でも、最後には目下の敵である田村のことを匂わせるなど、どこまで二階堂一族のことを思ってなのか、腹の底が読めない男でもある。
 とりあえず美濃守は一度、伊藤左近に詳しい話をつけるつもりのようである。
「兄者。その伊藤という者に目通りを許すとなれば、妙林寺みょうりんじがよろしいのはないか」
 申し出たのは、須田一族の次男、須田佐渡守秀泰ひでやすだ。比較的温和な性格であり、最近では、鎌倉から一緒に下ってきた相生あいおい兄弟も、この秀泰の仕事を手伝っていることが多い。
 妙林寺を対面の場に選んだのは、例の大仏を従えている逢隈川のほとりに建つ寺院であり、いざとなったら峯ヶ城から兵を動かしやすいからだろう。
 美濃守はなおも考え込んでいたが、側に控えていた箭内和泉守を手招いた。
「箭内の一門のうち、確か治部方についていた者がいたな。その者を通じて、伊藤左近という者に、和田の羽黒山妙林寺に罷り越すように、伝えてほしい。美濃守が治部大輔殿の姫君の事で話が聞きたいと口上を述べよ」
 箭内やない和泉守も、やはり鎌倉から一緒に下向してきた一員である。源蔵の説明によると、箭内の総本家は西川の堀底ほりそこという土地に住んでいる。遠藤雅楽守の治める山寺から半里程釈迦堂川を上った畔にあり、箭内一族のうち、市三郎という者は治部に仕えているらしかった。
 正確に述べるならば、箭内市三郎は治部大輔の息子、すなわち三千代姫の兄である行若ゆきわかの乳兄弟だとのことだった。
 対面当日、妙林寺の方丈に現れた伊藤左近は、先日酒に酔っていた者と同一人物とは思えないような、匂い立つ若武者姿で現れた。話を持ってきたのが図書亮のところであったため、左近の身元保証人も兼ねて、図書亮も下座につくことを許された。
 左近は若草色の地に二階堂家の家紋である三つ盛亀甲に花菱を染め抜いた大紋直垂、立烏帽子を被った姿であり、めでたい席に相応しい粧いである。
「――というわけでございます。三千代姫は、為氏公の北の方になられるのに相応しい姫君でございましょう」
 先日図書亮のところに持ってきたのと同じ話を、左近は繰り返した。さらに、姫君自身もこの話を喜んでいるらしいという。
 その話を聞いて、図書亮はあっという間に婚礼の話を根回ししてきたらしい左近の政治力に、舌を巻く思いがした。そういえば、和田衆はまだ四天王を始めとする宿老たちで話し合いの場は持ったものの、肝心の為氏の意向を確かめていないのではないか。
「姫君の素晴らしさは、相わかった。だが、治部殿はどのようにお考えか」
 儀礼的な笑みすら浮かべず、美濃守は厳しい表情を崩さない。
「ここに、治部大輔殿の書状を持参しております」
 左近は懐に手をやると、一通の書状を取り出した。それを受け取ると、美濃守はぱらりと広げ黙って読み始めた。
 だが、その眉間にはくっきりと縦一文字に皺が寄っている。
「美濃守様、治部殿は何と……?」
 図書亮は、恐る恐る美濃守に尋ねた。
「これを読んでみろ」
 美濃守が、図書亮に治部大輔からの書状を図書亮に差し出した。その書状にざっと目を通した図書亮も、自分の顔が険しくなるのを感じた。
 書状には、「三年経ったら、つつが無く城を明け渡す」と書かれている。今すぐ須賀川城を立ち退くとは、書かれていなかった。
「伊藤殿。一度、この書状を峰ヶ城におわす御屋形にお渡しし、その上でご返答申し上げたい。少々この寺にてお待ち願おう」
 どうやら、美濃守は一旦峰ヶ城に戻って再度宿老たちで話し合い、かつ為氏の意向も確かめてくるつもりらしかった。
「構いません。しばらくここで待たせていただきましょう」
 美濃守とは対照的に、左近はにこやかに笑みを浮かべた。それから美濃守は、相伴かつ見張り役として、図書亮をその場に残した。
 図書亮も美濃守の姿が見えなくなると、肩の力が抜けた。
「ああ、疲れた。図書亮、お前、よくあの美濃守殿の下で働けるな」
 左近は、ぐるりと首を廻しながら述べた。どうやら、あのにこやかな若武者ぶりは、彼なりの演技だったらしい。
「うちの治部大輔様もなかなか怖い御方だが、美濃守殿はそれ以上だな」
 そんな軽口を叩く旧友を、図書亮は軽く睨みつけた。とてもではないが、彼の軽口に乗る気分ではない。
「三年経ったらとは、どういう了見だ」
 それが、図書亮はどうにも引っかかった。のらりくらりと城の明渡しを先延ばしにして、裏で策略を巡らす時間稼ぎをするつもりではないか。美濃守も、それを疑っているのだろう。
「治部大輔殿としては、亡き大殿から命じられた通りに須賀川城や街衢を整備した上で、聟となられる為氏公をお迎えしたい。そのための準備期間が三年かかると仰っておられる。三千代姫やお生まれになるお子たちの御殿も、準備しなければならないだろうし」
 まだ婚姻の話すらまとまっていないというのに、もう子供の話をするとは何とも気の早い話だ。それに、姫はまだ十二と言っていたではないか。
「姫はまだ十二だろう。子を産むには幼すぎないか」
 いくら為氏と似合いの年頃とはいえ、為氏自身も子を持つには若すぎるのだ。
「いや。治部大輔殿も姫の嫁入り先を考え始めていたらしい。つまりは、そういうことだろう」
「ふむ」
 左近は、さらりと述べた。御屋形である為氏はともかく、三千代姫は嫁入りできる体らしい。
 そこへ、美濃守が戻ってきた。驚いたことに、他の四天王と共に為氏の姿もあった。
「伊藤左近と申したな」
 美濃守が切り出した。
「こちらにおわすは、為氏公である。ご挨拶申し上げられよ」
 美濃守に促され、左近も威儀を正した。
「お目もじ叶い、恐悦至極に存じます。某、伊藤左近太夫と申します」
「苦しゅうない」
 にこりと、為氏が笑みを浮かべた。
「此度は、心ならずとも治部殿と干戈を交えてしまったが、姫を御台として貰い受けるとなれば、義理の父上。為氏も姫にお目に掛るのを楽しみにしておると、治部殿にお伝え願いたい」
 すると、為氏はこの婚礼に応じることを決めたのか。図書亮が驚いて美濃守を見ると、美濃守は複雑な表情を崩さずに、肯いた。
 そのまま妙林寺の僧に吉事を占わせると、五月十日が吉日であるという。その言を受け入れ、三千代姫の輿入れの日取りは、五月十日と決まった。
 峰ヶ城は元々須田氏の持城である。そのため、為氏も家臣に気兼ねなく暮らしたいということで、峰ヶ城と隣り合う岩間の地に、新しく為氏夫婦のための館が造られることも決められた。

五月十日。岩間館はまだ完成していないため、為氏と三千代姫の婚礼は現在の為氏の仮寓である峯ヶ城で行われた。雨が心配されたが、まだ梅雨には早い時期だったためか、爽やかな気候の中で式が行われた。
 三千代姫も嫁入りが決まったということで、少し前に鬢削ぎの儀式を行い、身を清めて嫁入りを待ったという。須賀川から輿に乗った三千代姫の一行は、和田の原を目指して急勾配の坂道をゆっくりと下ってくる。和田館のところで右手に折れ、逢隈川に沿うように進んで峰ヶ城の門の前で行列が止まった。門前には火が焚かれており、辺りを明る照らしている。ここで花婿の父親代理として須田美濃守が和田衆を代表し、「請取渡し」の儀を行った。花嫁である三千代姫が輿から出てくると、その頭には白い被衣を被っていた。出迎衆の一員として門前で控えていた図書亮のところからは、姫の表情はよく見えなかった。
 館の渡り廊下をしずしずと進み、奥庭に面した祝言の間に姫が進む。先に嫁である三千代姫が上座に座り、次いで花婿である為氏がその座についた。待上臈が祝儀の言葉を述べて両人を合わし、式三献の儀式に映る。
花嫁や花婿の前には御前が三つずつ置かれ、花嫁から盃を始める。三度ずつ注がれた盃を干した後、諸婚
式三献の後、為氏と三千代姫だけで初献や雑煮を納め、床入りとなる。
 翌日になって初めて一族に対する花嫁の披露となり、図書亮も三千代姫の艶やかな姿を見ることが許された。この婚礼のきっかけを作ったということで、祝言の様子を特別に下座の端から覗かせてもらっているのだ。
 御簾の内にいてよく見えないが、帳の隙間から噂の御台の容貌をこっそり盗み見ると、金糸で夫婦鶴が刺繍されている鮮やかな緋色の打ち掛けを纏っている。遠目に見る限りでは、確かに十二とは思えない気品があった。為氏の方が一つ二つばかり年上だが、為氏が何か話しかけると、三千代姫がぱっと笑った。その笑顔は漢の麗人だったという李夫人を彷彿とさせる。花も恥じらうとはこのことかという容貌であり、色も白く、唯一年相応に見える口元の笑窪も、可愛らしかった。
 さらに二人の横には、やはり噂に聞いていた民部大輔夫婦の姿もあった。「女に誑かされた」という話を最初に聞かされたためか、民部に対してはあまりいい印象のなかった図書亮だが、なかなかどうして、立派な出で立ちである。その隣に控えているのは、やや切れ長の目元の夫人である。あれが、民部を虜にしたという千歳御前だろう。
 三千代姫と千歳御前は姪と叔母の気安さからか、親しげに談笑している。いずれも美女であることは誰しもが認めるところであり、妻を亡くして久しかったという民部が妻に夢中になるのも、わかる気がした。
 その証拠に、為氏や民部の目尻は下がりっぱなしであり、口元には柔らかな笑みが浮かんでいるではないか。
「お主、全然飲んでいないではないか」
 誰かが、杯に酒を注いだ。手元の主を見ると、倭文半内だった。
「一応、主を守らなければならない立場だからな。あまり飲んではまずいだろう」
 体面というものもある。
「それはそうだが。二階堂家は、おなごは確かに天下一品だな」
 含みを持たせた半内の言葉に、思わず噎せた。遠回しに、りくのことを言われている気がしないでもない。
「御屋形のあの様子を見る限りでは、御台様をお気に召されたようだな」
また、杯に酒を注がれた。今度は、箭部安房守だ。図書亮のところにせっせとりくを通わせている張本人である。
「安房守様。それにしても、よく美濃守様がこの婚姻に納得されましたね」
図書亮は、安房守に確かめてみた。あの時治部大輔の「三年待たれたい」という言葉については、図書亮自身も未だに不信感が拭えない。
「いや、治部殿の言い分に納得していないのは、皆同じだろう。例外は、御屋形様くらいなものだ。後は、民部様もか」
笑みを崩さずに、安房守は小声で答えた。婚姻そのものは賛成しているが、治部大輔の言い分を丸々信用しているわけではないらしい。
 やはりそうか。新参者の図書亮でさえそうなのだ。鎌倉にいたときから治部大輔の悪行に手を焼いていた面々は、婚姻が整ったとはいえ、心の底では治部大輔を信じていないに違いない。
「だが、伊藤殿が述べられていたように、須賀川や岩瀬の地を狙う者共がいる。此度の婚姻は、その者らへの牽制となろう。御屋形もそれについては考えられたようだ」
 どうやら、四天王らは必ずしも手放しでこの婚姻に賛成しているわけではないようだった。だが、二階堂の者同士で血を流すよりも、田村など他の勢力に対して二階堂の結束の固さを見せる方を優先させるべきである。そのような政治的判断を下したということだ。
 まだ十三と十二の夫婦にそのような政治的事情を背負わせるのは、何だか酷な気もした。ひとまず、眼の前の若夫婦は幼いながらも、仲睦まじい様子を見せている。あの分であれば、和子誕生もそう遠くないのかもしれなかった。
「それはそうと、一色殿。りくは御役に立てていますかな?」
不意に自分の方へ話が向けられ、束の間ぽかんとした。男女の事はしたことがないが、家のことを片付けてくれるのは、確かに助かっている。
「ええ。りく殿には、色々と助けられています」
安房守の意図がわかりかねるまま、図書亮はりくの世話を受け入れていた。だが、目の端に入ってくる若夫婦の仲睦まじい様子が、羨ましくもあった。
 そうですか、と安房守も微妙な笑みを崩さずに、主君の杯に酒を注ぐために立ち上がった。
「何だよ。お前、いつの間に通いの女人を見つけたんだよ」
やや妬心を感じさせる声色で、半内が尋ねた。その半内は、身の回りの世話をしてくれる女を探していると、聞きもしないのに勝手に話している。この須賀川に来て、そろそろ三月。為氏の婚姻が成立して戦が小康状態になったとなれば、女に目をやるゆとりも出てきたのかもしれない。
「りく殿は、安房守様の姪御だ。あくまでも、身の回りの世話をしてもらっているだけだからな。気立てはいい人だが」
礼を失さない程度に、半内に答えてやる。図書亮だけが女を世話してもらっているとなると、他の者たちは面白くないだろう。
だが、遠くには祝言を挙げたばかりの主夫婦。そして、年が離れているにも関わらず、こちらも仲睦まじい様子の民部大輔夫妻。
何だか、こう幸福そのものの夫婦の姿ばかり見せられていると、「身の回りの世話をしてくれているだけ」のはずの女人が、急に特別な存在に思え、どぎまぎする
尻の辺りが浮いているような気がして、落ち着こうと半内から注がれた分の酒を飲み干すと、微かに目眩を覚えた。

 為氏と三千代姫の婚礼の儀が終わった後、図書亮は和田館の自分の住まいに戻った。そこには、夜も遅いというのに、りくが待っていた。いくら馬に乗ってやってくるとは言え、一里半の田舎道を帰すのかと考えると、やや心配でもある。
「一色様、お疲れ様でした」
 りくは、図書亮の心配を知ってか知らずか、婚礼の宴の席に侍っていた図書亮のために、簡単な夜食を用意してくれた。
 常識的に考えれば、祝いの席だからといって家来が過度に酒を嗜む真似は慎むべきである。だが、今宵はつい酒量が過ぎたかもしれない。あまりにも幸福そのものといった為氏公と三千代姫の様子を眺めていて、羨ましくもあったのだ。
 それにしても、あの華やかな婚礼の宴の後では、どうにも女が美しく見えて困る。
 自分には予てから箭部安房守の娘であるりくがつけられていたが、「妻」というよりは「世話係」として押し付けられたという印象がある。
「ありがとう」
 刀を刀棚にかけると、円座に座って胡坐をかいた。その前には、膳台が置かれ、茶碗に湯漬けが用意されている。
 箸を取って手を合わせ、ずずっと汁を啜った。どうやら、どこからか雑魚の焼干しを手に入れてきてくれたらしく、久しぶりに魚の香りを味わった。魚の汁は、今となっては懐かしい鎌倉での生活の記憶を呼び起こした。
「うん。いい味だ」
 図書亮の言葉に、りくは笑みを浮かべた。
「伯父も須田の皆様もお強いですから。結構飲まされたでしょう?」
 確かにりくの言うように、酒の後に湯漬けの優しい味わいは、胃の腑に染みた。
「御屋形様と、御台様のご様子はいかがでしたか?」
 りくの言葉に、図書亮は先程の様子を思い出してみた。
「ありゃあ、雛人形だな」
 図書亮の言葉に、りくがぱちくりと目を瞬いた。
「岩瀬の地では、節句を祝わないか?ほら、上巳じょうしの節句とか」
 りくは首を傾げたままだ。
「いえ、こちらでは特に……。鎌倉では祝うのですか?」
 どうやら、当地ではそのような風習は広まっていないようだった。どうやって説明したものか悩みつつも、鎌倉で聞こえ覚えた話をしてやる。 
 鎌倉というより、元は上方の風習らしい。人形を使って、五節句には人形に災厄を移し、穢れを払う。中でも三月三日の上巳の節句では、男と女の一対の天児あまがつ這子はいこを飾る。紙で藁を束ねるだけのこともあるが、少し丁寧にやるならば、竹で骨をつくり、それに頭をつけて衣裳を着けさせた物が天児かな。
 そんな図書亮の説明を、りくは興味深げに聞いていた。
「なるほど。子の健やかな成長を願うのですね」
「まあ、そんなところだ」
 子供の健やかな成長を願うのは、地方を問わないのだろう。りくは笑いながらも、図書亮の説明で納得してくれたようだった。
「で、御屋形様と御台様はそのお人形のようだった、と」
「夫婦になられたというよりは、まだ子供のままごとのようだがな」
 そう言いながらも、図書亮は我が身を振り返ってみた。御屋形様よりは八歳も年上だが、女と縁を結ぶ機会が少なかったという点においては、自分もさして変わりがない。もっとも、鎌倉にいるときに年上の藤之助に連れられて、遊び女に一通りの手ほどきは何度か受けていたが。
「でも、羨ましいです。本当に御心を通わせられたのならば、さぞ……」
 そう言うと、りくは目を伏せた。
 そういえば、りくは図書亮より三歳下の十八と聞いていた気がする。男女の事を経験したかは不明だが、箭部安房守は何を思ってこの娘を寄越したのだろう。本当に、単なる「世話係」としてなのだろうか。
 別の可能性に気づくと、図書亮の顔は火照ってきた。これは、酒の勢いなのだろうか。それとも……。
「……りく殿は、誰かと臥所を共にしたことは?」
 思わず、下世話な質問をしてしまった。が、口にした途端、後悔した。
「酷いことを仰るのね」
 案の定、りくにきつく睨まれた。
「何のために、私がここへ来ていると思っていらっしゃったの?」
 りくの言葉に、顔に血が上る。やはり、そういう事だったのか。
「伯父上に言われました。一色様は名家のご子息であるから、側女扱いになるかもしれない。それでも、当地との紐帯を結ばれようとなさるからには、できれば子を成してこの岩瀬の地に根を下ろして頂き、二階堂一門の弥栄に参じていただこうではないか、と」
 つまり安房守は、最初から姪を「妻にして良い」と公認の上で、図書亮の許へ送り込んでいたということ
 だ。
 それに気づくと、主を羨んでいた自分が馬鹿みたいだ。だが、肝心のりくの気持ちはどうなのだろう。
「……りく殿は、それで良いのか?他に好いた男などは……」
 あわあわと言い訳を重ねる図書亮に、りくは呆れた視線を寄越した。
「夫婦としての契りを交わしても良いと思っていなければ、私とてこのように、小まめに和田に通うわけがないでしょう」
 そう言うと、彼女はようやく自分が何を言ったのか気づいたらしい。
 つまり、「いつになったら自分を抱くのか」ということだ。だが、男女の情事にさして抵抗がないのか、再び目を伏せただけに留まった。
 箭部の総本家である安房守の館は、今泉にある。恐らくその安房守の意向を受けて、狸森木舟を拠点にしている下野守は、年頃であるりくをここに通わせているのだろう。一里半ほどの距離とはいえ、ほぼ毎日通ってきて世話を焼いてくれているのだから、実質的には既に妻のようなものである。だが、それを改めて口にするのは憚られた。
 どうにも、気まずい沈黙だけが流れる。
 黙って雑魚の出汁が利いた湯漬けを食べ終わると、図書亮は再び手を合わせた。その食器を小屋の片隅にある水屋にりくが運び、洗ってくれている。
 その間に図書亮は布団を敷くと、束の間、用意したばかりの寝床を眺めていた。
「それでは、また明日参ります」
 食器を片付け終わると、いつものように、りくは小屋を出ていこうとした。
「待ってくれ」
 彼女の袖を引くと、図書亮はりくの後ろから、やおらその体を抱きすくめた。
「今宵は祝いの晩だ。たとえ、ここに泊まっていったとしてもだ。安房守様も下野守様も、きっとお許し下さるだろう」
 図書亮の言葉に、りくが身を硬直させた。
「……図書亮さまは、よろしいのですか?」
 いつの間にか、りくの呼び名が図書亮の名前に変わっている。少しは、自分を恋い慕ってくれていたと考えて良いのだろうか。
「私とて、りく殿が嫌ならば、とっくにお世話をお断りしている」
 そう言う自分の声は、掠れていた。緊張のためか、酒のためか。だがそれに構わず、彼女の体の向きをくるりと自分の方へ向け、瞳を覗き込む。
 りくの瞳に、ようやく恥じらいの色が浮かんだ。伯父から内々に言いつけられていたとはいえ、どうやら、この様子ではまだ男女の経験がないようだった。
「今晩は、この和田に泊まっていかれよ」
 改めて、図書亮はりくに囁いた。それに答えるように、りくはこっくりと頷くと、図書亮の胸元に顔を埋めた。
 そのまま臥所へ誘うと、りくは震える手で、上に着ていた着物の帯を解き始める。図書亮の突然の申し出にも、どうやら覚悟を決めたらしい。
 図書亮も着ていたものを脱ぎ、小袖だけになる。そのまま二人で上掛けの下に潜り込むと、急に気恥ずかしさを感じた。
 ちらりと遠目に見た御台所と異なり、りくの体は既に大人の女だった。やわやわと図書亮の手のひらの下で、心地よくその形を変えていく。
 久しぶりに抱く女体の感触に、図書亮も本能を呼び覚まされる。そのまま二人で何度も睦み合った後、気がつくと寝入ってしまった。

 ――翌朝、一番鶏の啼声で目が醒めた図書亮は、隣ですうすうと寝息を立てる女人の寝顔に、しばらく見とれていた。
(かわいいよなあ……)
 主夫婦の幸せそうな姿に刺激されたことは、否めない。だが、安房守はそれとは別に、図書亮にも妻となるべき女性を考えてくれていた。政略の目的も勿論あるのだろうが、その人情の篤さに絆されるのは、決して不快ではなかった。
 岩瀬の地の二階堂家。悪くないじゃないか。
 りくの瞼がふるふると震え、うっすらと目を開けた。そして、隣に図書亮が片肘をついて自分の寝顔に見入っていたと気づくと、慌てて小袖の襟元を掻き合せた。
「図書亮さま……」
 その恥じらう様子があまりにも可愛らしくて、皮肉屋の図書亮にしては珍しく、澄んだ笑みを浮かべた。
「おはよう」
 そう言うと、人差し指で彼女の頬を突いてやる。
「もう館へのご登城の時刻ですの?」
「まだ大丈夫だ。それより、朝餉の支度を頼んでも?」
 この地に来てから、しばらくまともな朝餉にはありついていなかった。いつもは、和田の館に登城してから台所へ行って余り物を分けてもらい、それで腹を満たしている。
「もちろん。すぐに朝餉を用意致します」
 昨夜脱いだ着物を手早く着付けると、図書亮が差し出した襷を掛けて、りくは台所の支度をしてくれた。
 飯と香の物、昨日の出汁の残りといった簡素なものだが、二人で食べる朝餉は、何となく味が違う気がする。
 食べ終わると、あっという間に登城の刻限だった。
「安房守様のお許しが出ているのなら、遠慮することはない。後で、荷物をこの家に持っておいで」
 りくにそう言うと、彼女も嬉しそうに肯いた。婚礼の儀式は執り行っていないが、実質的に、昨夜のことは嫁入りだったとも言える。
 今晩からは、もう一人寝ではない。そう思うと、家中の他の面々に対しても自ずと愛想が良くなる。
「一色殿。今日は様子が違いますな」
 上機嫌の図書亮に話しかけてきたのは、義父となる箭部下野守定清だった。
 斯々然々と下野守の意図を確認すると、「箭部の長である兄者がそう仰っていたのならば、何も問題はありません」と、あっさりしたものだった。
 上機嫌な様子は、他の同僚にも見抜かれた。
「図書亮。今日はえらく機嫌がいいな」
 話しかけてきた半内は、どこか訝しげだった。
「半内。これはあれだろう」
 にやにやしながら、藤兵衛がきっぱりと断言した。
「女が出来た」
「本当か?」
 心底悔しそうな様子で、半内が歯ぎしりした。
「そうだろう。こいつは鎌倉にいたときから、女を抱いた後は妙に機嫌が良くなる癖があるからな。普段は愛想が悪い癖に」
 さすが、女の手ほどきを図書亮にした藤兵衛だ。図書亮の嗜好癖まで掴んでいる。だが、一ヶ所訂正してやった。
「ただの女じゃない。妻を娶った」
「決まったのかよ!?」
「一応、これでも宮内一色家の再興も考えているからな」
 偉そうに説明してみたものの、昨夜のことを思うと、自然と頬が緩むのは仕方がなかった。
「相手は、あれだろう。箭部下野守様のところのりく殿」
 からかうように、同僚の相生玄蕃が茶々を入れてくる。
「りく殿は、あの狸森からの田舎道を、せっせとこの和田まで通い詰めていたからな。結構目立っていたし、噂になっていたぞ」
 そんな噂が流れていたのは知らなかった。だが、彼女との結婚が四天王の一人である箭部安房守の公認となれば、名実共に「和田衆」の一員として認められたということに、他ならない。
 そこへ姿を現したのは、須田美濃守だった。途端に、広間の空気が一変する。なにせこの謹厳な宿老は、女が出来て浮かれるようでは、たちまち馘首を言い渡しそうな雰囲気を醸し出している。
「一色殿。箭部下野守殿の娘御を娶られるそうだな」
 さすが美濃守である。部下の色事まで耳に入れているとは。案の定、美濃守は眉一つ動かさない。彼は、このような色事にも感情を顕すことはないようだった。
「後ほど、御前にも報告するように」
 美濃守はそれだけ言い渡すと、いつものように一同に「本日の仕事」を言い渡し始めた。美濃守の言いつけに従い、図書亮も彼の領内の見回りに行く支度を整える。今日は、浜尾の須田源蔵のところへ赴き、領内の作物の出来を見てこいとの命令だった。
 だが美濃守の口元は一瞬緩んでいたのを、図書亮は確かに見た。
 今晩からは、りくが夕餉の支度をして待ってくれている。夕餉を共にゆっくり食べるためにも、さっさと仕事を終わらせよう。
 北に駒の首を向けると、その足音も軽く、図書亮は逢隈川の川辺を進むのだった――。
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