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第3章 蜜月
28 夕食
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食事処には、概ね四席ずつの半個室の座敷が並んでいた。間を隔てているのは、まばらに配された古竹。自然な傾きが閑やかな趣を添えている。
ちょうど熟年の夫婦が一組、既に食事を終えて出ていくところだった。先ほどの仲居がすぐにやってきて、座敷に案内してくれた。
幼い頃から椅子の生活が当たり前、居酒屋も掘りごたつが主流という時代だ。こうして浴衣で座布団に座るだけで、何だか特別な夜だという気がしてくる。
「浅葉さん、お酒は?」
「うん。まあ、たまに。お前は酒好きの顔だよな」
それは当たっていた。千尋は特にこれということなく、何でもいける。何を飲むかはその時々で場に合わせることが多かったが、今日は純粋に気分に任せていいような気がした。
「じゃ、ビールからいきますか」
「からって……どこらへんまであるのか心配だな」
と笑い、浅葉は中瓶を一つ頼んだ。
「普段、お休みの日は何してるんですか?」
「うーん、引きこもってるうちに終わっちゃう、かな」
「趣味、とかは……まあ無理ですよね」
「趣味は……長尾」
千尋は、あはは、と思わず声を上げてしまい、周囲の静けさに慌てて口を押さえる。
「すっかり連れ添っちゃってますもんね」
「やむを得ず、ね」
「長尾さん、褒めてましたよ、浅葉さんのこと」
「当たり前だろ。あんな奴にけなされてたまるか」
言葉は辛辣ながら、どこか誇らしげなその物言いには、二人の強固な信頼関係が窺えた。
浅葉は運ばれてきた瓶ビールを手に取ると、浴衣の袖をひゅっと押さえて千尋のグラスに注ぎ、千尋がお注ぎしましょうかと手を出しかけた時にはもう自分のグラスにも美しい泡をこしらえていた。
まずは乾杯? と思い、千尋がグラスを手に取ろうとすると、浅葉は自分のグラスをすぐ隣に置き、親指でそっと押した。テーブルの上で二つのグラスが触れ、白と黄金の境界がゆらりと揺れる。その瞬間、グラスにかけていた千尋の手を、浅葉の手がぱっと包んだ。
「乾杯」
と言うと、浅葉はグラスを持ち上げて半分ほどうまそうに飲んだ。千尋はまたしても一本取られた気分で、その快さに浸りながら自分のグラスを傾けた。ごくありふれた銘柄だったが、これほどおいしいビールは初めてだという気がした。
浅葉は何気なく左に箸を持ち、山菜のお浸しをつまみ始める。千尋はやっぱりね、と思ったが敢えて何も言わず、自分の箸をいつも通り右手に取った。
食事は川魚と山菜が中心の一見質素なものだったが、薄めの上品な味付けが美味で、意外にボリュームもあった。天ぷらが出てくる頃には千尋のお腹は既に十二分に満たされていた。
気付けば、二人で瓶ビール二本に続いて地酒を二種類、二合ずつ空けていた。いつもの千尋ならまだまだこれから、というところだが、これ以上飲むと楽しくなりすぎてしまう、と自制した。
最後に出てきたご飯までは食べられそうになかったが、その白い米のあまりの艶の良さに、つい二口、三口と箸を進める。いよいよ限界、と茶碗を置いて、
「ごちそうさま」
と息をつくと、浴衣の袖からにゅっと伸びた浅葉の手がその茶碗を取り上げた。千尋の残したご飯を難なく消化していく。
「こんだけ飲んでてよく食べれますね」
「何言ってんだ、ほとんどお前が飲んだろ」
そんなことはない。半々よりは少し千尋の方が多かったかもしれないが……。浅葉も全く顔色が変わっていなかった。千尋は、ウーロン茶を飲みながらしばし胃を落ち着ける。
ちょうど熟年の夫婦が一組、既に食事を終えて出ていくところだった。先ほどの仲居がすぐにやってきて、座敷に案内してくれた。
幼い頃から椅子の生活が当たり前、居酒屋も掘りごたつが主流という時代だ。こうして浴衣で座布団に座るだけで、何だか特別な夜だという気がしてくる。
「浅葉さん、お酒は?」
「うん。まあ、たまに。お前は酒好きの顔だよな」
それは当たっていた。千尋は特にこれということなく、何でもいける。何を飲むかはその時々で場に合わせることが多かったが、今日は純粋に気分に任せていいような気がした。
「じゃ、ビールからいきますか」
「からって……どこらへんまであるのか心配だな」
と笑い、浅葉は中瓶を一つ頼んだ。
「普段、お休みの日は何してるんですか?」
「うーん、引きこもってるうちに終わっちゃう、かな」
「趣味、とかは……まあ無理ですよね」
「趣味は……長尾」
千尋は、あはは、と思わず声を上げてしまい、周囲の静けさに慌てて口を押さえる。
「すっかり連れ添っちゃってますもんね」
「やむを得ず、ね」
「長尾さん、褒めてましたよ、浅葉さんのこと」
「当たり前だろ。あんな奴にけなされてたまるか」
言葉は辛辣ながら、どこか誇らしげなその物言いには、二人の強固な信頼関係が窺えた。
浅葉は運ばれてきた瓶ビールを手に取ると、浴衣の袖をひゅっと押さえて千尋のグラスに注ぎ、千尋がお注ぎしましょうかと手を出しかけた時にはもう自分のグラスにも美しい泡をこしらえていた。
まずは乾杯? と思い、千尋がグラスを手に取ろうとすると、浅葉は自分のグラスをすぐ隣に置き、親指でそっと押した。テーブルの上で二つのグラスが触れ、白と黄金の境界がゆらりと揺れる。その瞬間、グラスにかけていた千尋の手を、浅葉の手がぱっと包んだ。
「乾杯」
と言うと、浅葉はグラスを持ち上げて半分ほどうまそうに飲んだ。千尋はまたしても一本取られた気分で、その快さに浸りながら自分のグラスを傾けた。ごくありふれた銘柄だったが、これほどおいしいビールは初めてだという気がした。
浅葉は何気なく左に箸を持ち、山菜のお浸しをつまみ始める。千尋はやっぱりね、と思ったが敢えて何も言わず、自分の箸をいつも通り右手に取った。
食事は川魚と山菜が中心の一見質素なものだったが、薄めの上品な味付けが美味で、意外にボリュームもあった。天ぷらが出てくる頃には千尋のお腹は既に十二分に満たされていた。
気付けば、二人で瓶ビール二本に続いて地酒を二種類、二合ずつ空けていた。いつもの千尋ならまだまだこれから、というところだが、これ以上飲むと楽しくなりすぎてしまう、と自制した。
最後に出てきたご飯までは食べられそうになかったが、その白い米のあまりの艶の良さに、つい二口、三口と箸を進める。いよいよ限界、と茶碗を置いて、
「ごちそうさま」
と息をつくと、浴衣の袖からにゅっと伸びた浅葉の手がその茶碗を取り上げた。千尋の残したご飯を難なく消化していく。
「こんだけ飲んでてよく食べれますね」
「何言ってんだ、ほとんどお前が飲んだろ」
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