41 / 92
第3章 蜜月
41 合鍵
しおりを挟む
「全然。一度も」
「そうか」
「いいんです。こっちも別に期待してないし」
浅葉は千尋の方へ、ほんとか、と言いたげな顔を向けた。
「もう過去の人ですから」
と答え、台拭きを絞る。決して痩せ我慢ではなかった。
千尋が五歳の時に失踪した父は、どこでどうしているのか、生きているのかすらもわからない。母の話では、外に女を作って逃げたらしい。
捜索願を出しても何の手掛かりもなく、千尋が小学生の頃に生死不明という扱いで離婚が成立し、千尋の苗字も母の旧姓である田辺に変わった。
夫婦仲はどうだったのか知らないが、父は姿を消すまでの間、千尋とはよく遊んでくれた。一緒に暮らした期間があまりに短く、悪い印象を抱く暇もなかっただけかもしれないが、千尋は父と過ごす時間が好きだった。
そうは言っても、どこかで元気にしていてほしいと願う一方で、今さら連絡などされたとしてもどう接していいかわからない。
父の失踪当時、母は大手家電メーカーの営業課長で、幸い母娘での生活に困ることはなかった。最初のうちこそ口癖のように愚痴やら恨み言をこぼしていた母も、千尋が高校に入った頃からか、ぱったりと父の話をしなくなった。
テーブルを拭きながら、そういえば浅葉さんのご両親は、と尋ねようとして、千尋ははっと口をつぐんだ。浅葉の目は、何か考え込むように壁を睨んでいた。
(あの時の顔……)
あの護衛部屋で黙々とパソコンに向かっていた時と同じ横顔に見えた。千尋は、
「ちゃんと私の分も残しといてくださいね」
と声をかけ、明日着るものを用意し始める。ふと思い出したように浅葉が言った。
「お前、寝なくていいの?」
一時になろうとしていた。
「うん、もうそろそろ。明日は?」
「うーん、まあ、さほど急いではないけど。お前は?」
「一限あるから、七時半には出ないと」
「そっか」
「でも、浅葉さん、ゆっくり休んでって」
「いや、そういうわけにも……」
千尋はデスクの引き出しを開けた。
「これ」
折り畳み椅子に座っている浅葉の手に、それを握らせる。
「作っときました」
部屋に呼んだこともないうちから合鍵を用意するのは張り切りすぎかとも思ったが、いつ突然必要になるかもわからないし、とにかく予定が未定の人だから便宜上、と言い訳をこしらえていた。その代わり、妙に可愛らしいキーホルダーなどを付けるのはやめて、どこかのお土産のキーホルダーから取った銀色のリングだけを付けてある。
「何の色気もないですけど」
浅葉はそれを指で撫でながらしばらく眺め、大事そうに手で包み込むと、千尋の腰を抱き寄せた。千尋は浅葉の背中に手を回し、腹部に預けられた頭をそっと撫でる。
もっとしょっちゅう会えたらいいのに、もっとゆっくり一緒に時間を過ごせたらいいのに、もっと、もっと……。言ってはならない言葉ばかりが去来する。
「さあ、さすがにそろそろ寝ましょ。お風呂は?」
「うん、朝借りよっかな」
「じゃ、タオル出しとくね。そうだ、歯ブラシは?」
「うん、持ってる。着替えも最低限は常備してるし」
と、決して大きくはないビジネスバッグを拾い上げ、半透明のビニールケースを取り出すと、洗面所に向かう。千尋がちょっぴり遠慮がちに後を追うと、浅葉がその手を引いた。並んで歯を磨きながら鏡の中で見つめ合う時間に、千尋は心躍らせた。
千尋がトイレを済ませてリビングに戻ると、浅葉はベッドに裸体を収め、すっかり寛いでいた。
「何、もしかして、裸じゃなきゃ寝れない人?」
「誰だよ、それ。そんな体質だったら仕事にならんだろ」
「あ、そっか。家でなんてほとんど寝ないんだもんね」
あの護衛の時、Yシャツ姿のまま死んだように熟睡していた刑事と同一人物であることをすっかり忘れていた。
「今日はスーツで寝る気分じゃないし、パジャマ的なものもないので、やむを得ず」
とは言いながら、実に心地良さそうだ。いつものベッドに浅葉がいる。毎日こうだったらいいのに……と夢見ずにはいられない。しかし、たとえ結婚しても、浅葉との生活はそうはならないことは目に見えている。めったに帰ってこない夫、ということになるのだろう。
電気を消して浅葉の隣に潜り込み、千尋は、
「わあ、あったか」
と声を上げた。冷えた足先を浅葉の方に寄せると、温かい両足に挟まれる。
「なんか、寝ちゃうのもったいないね」
千尋は闇の中で漠然と浅葉の方を見た。遮光カーテンのせいでほぼ真っ暗だ。
「じゃあ、起きてよっか」
浅葉が千尋の髪を指で梳く。千尋がその手を伝っていくと、滑らかな肩に辿り着いた。そのまま背中へと手を滑らせると、もう抱きつかずにはいられなかった。
浅葉の首筋で深呼吸すると、右腕で背中を抱かれた。月のサイクルで若干膨張した胸を浅葉に押し付け、唇を探り当てて奇襲する。浅葉はそれに応えながら、じきにふと身を反らして言った。
「あのさ」
「うん」
「勃っちゃってるけど、そっとしといてやって」
千尋は、
「んんー」
と、つい不服を表明した。自分の都合でお預けを強いているのはわかっているが、改めてそう言われるとむしろ触りたくなってくる。
「あんまり刺激すると、ベッド汚れるぞ」
と警告すると、浅葉はキスに戻った。何となくブレーキを掛けているのがわかる。千尋は可能な範囲で精一杯甘えながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
* * * * * *
腕の中で眠ってしまった千尋の向こう側の闇に視線を泳がせると、目ではないどこかにくっきりと映ったこの部屋が浮かび上がってくる。
先ほど千尋が合鍵を取り出したのは、白木のデスクの一番上の引き出し。その下に同じ厚みの引き出しがもう一つと、一番下に大きな引き出しが一つ。その取っ手にはマンガチックなこけしのストラップが引っかけてあるはずだ。
デスクの上にはブルーのノートパソコンと白いマウス。マウスパッドには去年のカレンダーがプリントされている。和紙を巻いたような手作り風のペンスタンドの傍に、食べかけのお菓子。
キッチンもよく片付いているし、掃除も得意な方だろう。こてこてと飾り立てるようなことはしていないが、それでいてところどころに女子大生らしさが覗く、千尋らしい部屋だ。
* * * * * *
「そうか」
「いいんです。こっちも別に期待してないし」
浅葉は千尋の方へ、ほんとか、と言いたげな顔を向けた。
「もう過去の人ですから」
と答え、台拭きを絞る。決して痩せ我慢ではなかった。
千尋が五歳の時に失踪した父は、どこでどうしているのか、生きているのかすらもわからない。母の話では、外に女を作って逃げたらしい。
捜索願を出しても何の手掛かりもなく、千尋が小学生の頃に生死不明という扱いで離婚が成立し、千尋の苗字も母の旧姓である田辺に変わった。
夫婦仲はどうだったのか知らないが、父は姿を消すまでの間、千尋とはよく遊んでくれた。一緒に暮らした期間があまりに短く、悪い印象を抱く暇もなかっただけかもしれないが、千尋は父と過ごす時間が好きだった。
そうは言っても、どこかで元気にしていてほしいと願う一方で、今さら連絡などされたとしてもどう接していいかわからない。
父の失踪当時、母は大手家電メーカーの営業課長で、幸い母娘での生活に困ることはなかった。最初のうちこそ口癖のように愚痴やら恨み言をこぼしていた母も、千尋が高校に入った頃からか、ぱったりと父の話をしなくなった。
テーブルを拭きながら、そういえば浅葉さんのご両親は、と尋ねようとして、千尋ははっと口をつぐんだ。浅葉の目は、何か考え込むように壁を睨んでいた。
(あの時の顔……)
あの護衛部屋で黙々とパソコンに向かっていた時と同じ横顔に見えた。千尋は、
「ちゃんと私の分も残しといてくださいね」
と声をかけ、明日着るものを用意し始める。ふと思い出したように浅葉が言った。
「お前、寝なくていいの?」
一時になろうとしていた。
「うん、もうそろそろ。明日は?」
「うーん、まあ、さほど急いではないけど。お前は?」
「一限あるから、七時半には出ないと」
「そっか」
「でも、浅葉さん、ゆっくり休んでって」
「いや、そういうわけにも……」
千尋はデスクの引き出しを開けた。
「これ」
折り畳み椅子に座っている浅葉の手に、それを握らせる。
「作っときました」
部屋に呼んだこともないうちから合鍵を用意するのは張り切りすぎかとも思ったが、いつ突然必要になるかもわからないし、とにかく予定が未定の人だから便宜上、と言い訳をこしらえていた。その代わり、妙に可愛らしいキーホルダーなどを付けるのはやめて、どこかのお土産のキーホルダーから取った銀色のリングだけを付けてある。
「何の色気もないですけど」
浅葉はそれを指で撫でながらしばらく眺め、大事そうに手で包み込むと、千尋の腰を抱き寄せた。千尋は浅葉の背中に手を回し、腹部に預けられた頭をそっと撫でる。
もっとしょっちゅう会えたらいいのに、もっとゆっくり一緒に時間を過ごせたらいいのに、もっと、もっと……。言ってはならない言葉ばかりが去来する。
「さあ、さすがにそろそろ寝ましょ。お風呂は?」
「うん、朝借りよっかな」
「じゃ、タオル出しとくね。そうだ、歯ブラシは?」
「うん、持ってる。着替えも最低限は常備してるし」
と、決して大きくはないビジネスバッグを拾い上げ、半透明のビニールケースを取り出すと、洗面所に向かう。千尋がちょっぴり遠慮がちに後を追うと、浅葉がその手を引いた。並んで歯を磨きながら鏡の中で見つめ合う時間に、千尋は心躍らせた。
千尋がトイレを済ませてリビングに戻ると、浅葉はベッドに裸体を収め、すっかり寛いでいた。
「何、もしかして、裸じゃなきゃ寝れない人?」
「誰だよ、それ。そんな体質だったら仕事にならんだろ」
「あ、そっか。家でなんてほとんど寝ないんだもんね」
あの護衛の時、Yシャツ姿のまま死んだように熟睡していた刑事と同一人物であることをすっかり忘れていた。
「今日はスーツで寝る気分じゃないし、パジャマ的なものもないので、やむを得ず」
とは言いながら、実に心地良さそうだ。いつものベッドに浅葉がいる。毎日こうだったらいいのに……と夢見ずにはいられない。しかし、たとえ結婚しても、浅葉との生活はそうはならないことは目に見えている。めったに帰ってこない夫、ということになるのだろう。
電気を消して浅葉の隣に潜り込み、千尋は、
「わあ、あったか」
と声を上げた。冷えた足先を浅葉の方に寄せると、温かい両足に挟まれる。
「なんか、寝ちゃうのもったいないね」
千尋は闇の中で漠然と浅葉の方を見た。遮光カーテンのせいでほぼ真っ暗だ。
「じゃあ、起きてよっか」
浅葉が千尋の髪を指で梳く。千尋がその手を伝っていくと、滑らかな肩に辿り着いた。そのまま背中へと手を滑らせると、もう抱きつかずにはいられなかった。
浅葉の首筋で深呼吸すると、右腕で背中を抱かれた。月のサイクルで若干膨張した胸を浅葉に押し付け、唇を探り当てて奇襲する。浅葉はそれに応えながら、じきにふと身を反らして言った。
「あのさ」
「うん」
「勃っちゃってるけど、そっとしといてやって」
千尋は、
「んんー」
と、つい不服を表明した。自分の都合でお預けを強いているのはわかっているが、改めてそう言われるとむしろ触りたくなってくる。
「あんまり刺激すると、ベッド汚れるぞ」
と警告すると、浅葉はキスに戻った。何となくブレーキを掛けているのがわかる。千尋は可能な範囲で精一杯甘えながら、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
* * * * * *
腕の中で眠ってしまった千尋の向こう側の闇に視線を泳がせると、目ではないどこかにくっきりと映ったこの部屋が浮かび上がってくる。
先ほど千尋が合鍵を取り出したのは、白木のデスクの一番上の引き出し。その下に同じ厚みの引き出しがもう一つと、一番下に大きな引き出しが一つ。その取っ手にはマンガチックなこけしのストラップが引っかけてあるはずだ。
デスクの上にはブルーのノートパソコンと白いマウス。マウスパッドには去年のカレンダーがプリントされている。和紙を巻いたような手作り風のペンスタンドの傍に、食べかけのお菓子。
キッチンもよく片付いているし、掃除も得意な方だろう。こてこてと飾り立てるようなことはしていないが、それでいてところどころに女子大生らしさが覗く、千尋らしい部屋だ。
* * * * * *
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる