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第3章 蜜月
45 夕日
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浅葉は千尋の肩に手を回し、「まだ見るのか?」とでも言いたげに顔を覗き込む。
「堪能しました。お陰様で」
浅葉と一緒に鑑賞できたことは最高のボーナスだった。
千尋は入ってきた時に通った階段の方へ当然向かうものと思っていたが、浅葉は千尋の肩を抱いたまま全く別の方向に歩き出していた。
展示室からは見えなかった位置にエレベーターがあった。駐車場にはこちらの方が近いのかもしれない。ボタンを押して待っていると、
「明日いっぱい休みになったんだ」
と、浅葉。千尋は驚き、感激のあまりその腰に抱き付いた。小躍りしそうになりながら、どうか仕事の電話がかかってきませんように、と祈る。
エレベーターの中で、珍しくレギンスパンツスタイルの千尋を浅葉がじっくりと観察した。ベージュのコーデュロイが描くヒップラインに手を触れ、誘うように千尋を見る。ちょっと、こんなとこで始めないでよ、と千尋はそれを目で制し、誘惑の源を絶つべく、手に持っていたコートを羽織った。
エレベーターを降りると、非常口がすぐそばにあった。
外に出ると、臨海公園の遊歩道が目の前に伸びている。ちょうど海の向こうに日が落ちようとしていた。うっとりとその光景に見入った千尋の髪に、そっと唇が触れる。
芝生に下りる階段が五段ほどあったが、浅葉はその脇に折り返す長いスロープの方を選んだ。何もったいぶってんの、とくすくす笑いながらも、千尋の心は満たされていた。こんな風に意表を突かれるのも、浅葉といる時の楽しみの一つだ。
金曜日とあって、遊歩道には日没を待つカップルが何組も集まり、写真撮影に興じていた。黄金に輝く入江に橋のシルエットが浮かび上がる。確かに絵になる風景だ。千尋はそれを眺めながら、重なり合った二人分の足音に耳を澄ました。
さほど寒くはなく、顔がひんやりとして心地良いぐらいの夕暮れ。水平線というわけにはいかないが、対岸のビルの間に滲んだ日が沈んでいく。黄金はいつしか赤みを帯び、空と海とを染めた。丸い陽が街の陰に隠れると、その色はあっという間に薄れた。
本当の日の入りを待つように姿の見えない夕日を見送っていると、鮮やかなオレンジはいつしか混じり始めた淡い紫に取って代わられ、しだいに群青が深みを増した。
誰にも邪魔されずこうして二人きりで夕闇に包まれていると、この世界には他の誰もいらない、このままお互いだけを見つめ合い、愛を語り合っていたいという、およそ現実的でない欲が千尋の心に生まれた。
日が暮れるとさすがに気温が下がる。千尋がマフラーを引っ張り上げ、手袋を出そうとバッグに手をやった瞬間、その両手を浅葉がさっとつかみ、迷わず自分の喉元に当てた。
「あ……」
ドキッとする間もなく、その深い瞳に吸い込まれた。千尋の手の甲はきゅっと締まった顎を受け止め、指の背が低く脈打つ喉仏を捉え、爪の先は両の鎖骨に触れていた。焼けるように熱い肌が、かじかんだ手をみるみる骨まで融かしていく。
「さて、凍えないうちにどっか入ろうか」
と、浅葉はもう一度西の空を見上げた。きっと日が沈んだ後のこの時間が好きなんだ、と千尋は思う。一人だったら、あるいはもっと暖かければ、浅葉はいつまでもここに佇んで宵の口の静けさを味わっていたのかもしれない。
千尋が温められた手を手袋に収めると、くたびれた黒のレザーの手袋をはめた大きな手が、千尋の手を頼もしく包み込んだ。
サンセットを眺めていた人の群れは、付近の建物へと次々に消えていった。この辺りはデートコースとしても人気があり、シティホテルの他、ブティックやレストランなどが入ったビルが並んでいる。
その中で千尋の目に留まったのは、ビルの入口に構えられたカップスープの店。結構流行っているようで、十人ほどの列ができている。冬場の食べ歩きには持って来いなのだろう。
「ね、あれ」
と千尋が指差すと、浅葉は微笑んで答える。
「いいね」
何であれ千尋の提案を却下するような浅葉ではない。並んで待つこと数分。千尋はニンジンのポタージュ、浅葉は豆腐チゲを手に店を後にし、湾に面したベンチに座った。
「それ、ちょっとちょうだい」
と浅葉の左の太腿に何げなく手を置いた瞬間、千尋は、黒のチノパンの向こうに浅葉の肌ではない何かを感じた。右足の方にはない、硬い布のような……。
「もしかして、怪我?」
「んー」
「また撃たれたんですか?」
周囲を歩いていた人が何人か、ちらっとこちらを見る。
「シーッ。撃たれてない」
「何があったの?」
「まあ、ちょっとした……切り傷」
単なる切り傷にしては随分念入りに包帯が巻いてあるような感触だ。千尋はふと気付く。
「お休みって、もしかしてそのための?」
「いや、別に仕事ができないほどの怪我じゃ……」
「ダメですよ、出歩いたりして」
「ま、なんつーか、リハビリ?」
「でも、痛いでしょ?」
「ある程度はね」
「これ食べたら帰りましょ。うちでおとなしくしててください」
「そう?」
千尋はチゲの方もしっかり手伝いながらポタージュを飲み干し、空になった容器をさっさとごみ箱に捨てると、まだ渋っている浅葉の手を引き、美術館の駐車場を目指した。
「運転は? 大丈夫なの?」
「平気だって。階段以外はほぼ普通」
なるほど、あのエレベーターとスロープはそういう事情だったのかと、千尋は納得した。
「堪能しました。お陰様で」
浅葉と一緒に鑑賞できたことは最高のボーナスだった。
千尋は入ってきた時に通った階段の方へ当然向かうものと思っていたが、浅葉は千尋の肩を抱いたまま全く別の方向に歩き出していた。
展示室からは見えなかった位置にエレベーターがあった。駐車場にはこちらの方が近いのかもしれない。ボタンを押して待っていると、
「明日いっぱい休みになったんだ」
と、浅葉。千尋は驚き、感激のあまりその腰に抱き付いた。小躍りしそうになりながら、どうか仕事の電話がかかってきませんように、と祈る。
エレベーターの中で、珍しくレギンスパンツスタイルの千尋を浅葉がじっくりと観察した。ベージュのコーデュロイが描くヒップラインに手を触れ、誘うように千尋を見る。ちょっと、こんなとこで始めないでよ、と千尋はそれを目で制し、誘惑の源を絶つべく、手に持っていたコートを羽織った。
エレベーターを降りると、非常口がすぐそばにあった。
外に出ると、臨海公園の遊歩道が目の前に伸びている。ちょうど海の向こうに日が落ちようとしていた。うっとりとその光景に見入った千尋の髪に、そっと唇が触れる。
芝生に下りる階段が五段ほどあったが、浅葉はその脇に折り返す長いスロープの方を選んだ。何もったいぶってんの、とくすくす笑いながらも、千尋の心は満たされていた。こんな風に意表を突かれるのも、浅葉といる時の楽しみの一つだ。
金曜日とあって、遊歩道には日没を待つカップルが何組も集まり、写真撮影に興じていた。黄金に輝く入江に橋のシルエットが浮かび上がる。確かに絵になる風景だ。千尋はそれを眺めながら、重なり合った二人分の足音に耳を澄ました。
さほど寒くはなく、顔がひんやりとして心地良いぐらいの夕暮れ。水平線というわけにはいかないが、対岸のビルの間に滲んだ日が沈んでいく。黄金はいつしか赤みを帯び、空と海とを染めた。丸い陽が街の陰に隠れると、その色はあっという間に薄れた。
本当の日の入りを待つように姿の見えない夕日を見送っていると、鮮やかなオレンジはいつしか混じり始めた淡い紫に取って代わられ、しだいに群青が深みを増した。
誰にも邪魔されずこうして二人きりで夕闇に包まれていると、この世界には他の誰もいらない、このままお互いだけを見つめ合い、愛を語り合っていたいという、およそ現実的でない欲が千尋の心に生まれた。
日が暮れるとさすがに気温が下がる。千尋がマフラーを引っ張り上げ、手袋を出そうとバッグに手をやった瞬間、その両手を浅葉がさっとつかみ、迷わず自分の喉元に当てた。
「あ……」
ドキッとする間もなく、その深い瞳に吸い込まれた。千尋の手の甲はきゅっと締まった顎を受け止め、指の背が低く脈打つ喉仏を捉え、爪の先は両の鎖骨に触れていた。焼けるように熱い肌が、かじかんだ手をみるみる骨まで融かしていく。
「さて、凍えないうちにどっか入ろうか」
と、浅葉はもう一度西の空を見上げた。きっと日が沈んだ後のこの時間が好きなんだ、と千尋は思う。一人だったら、あるいはもっと暖かければ、浅葉はいつまでもここに佇んで宵の口の静けさを味わっていたのかもしれない。
千尋が温められた手を手袋に収めると、くたびれた黒のレザーの手袋をはめた大きな手が、千尋の手を頼もしく包み込んだ。
サンセットを眺めていた人の群れは、付近の建物へと次々に消えていった。この辺りはデートコースとしても人気があり、シティホテルの他、ブティックやレストランなどが入ったビルが並んでいる。
その中で千尋の目に留まったのは、ビルの入口に構えられたカップスープの店。結構流行っているようで、十人ほどの列ができている。冬場の食べ歩きには持って来いなのだろう。
「ね、あれ」
と千尋が指差すと、浅葉は微笑んで答える。
「いいね」
何であれ千尋の提案を却下するような浅葉ではない。並んで待つこと数分。千尋はニンジンのポタージュ、浅葉は豆腐チゲを手に店を後にし、湾に面したベンチに座った。
「それ、ちょっとちょうだい」
と浅葉の左の太腿に何げなく手を置いた瞬間、千尋は、黒のチノパンの向こうに浅葉の肌ではない何かを感じた。右足の方にはない、硬い布のような……。
「もしかして、怪我?」
「んー」
「また撃たれたんですか?」
周囲を歩いていた人が何人か、ちらっとこちらを見る。
「シーッ。撃たれてない」
「何があったの?」
「まあ、ちょっとした……切り傷」
単なる切り傷にしては随分念入りに包帯が巻いてあるような感触だ。千尋はふと気付く。
「お休みって、もしかしてそのための?」
「いや、別に仕事ができないほどの怪我じゃ……」
「ダメですよ、出歩いたりして」
「ま、なんつーか、リハビリ?」
「でも、痛いでしょ?」
「ある程度はね」
「これ食べたら帰りましょ。うちでおとなしくしててください」
「そう?」
千尋はチゲの方もしっかり手伝いながらポタージュを飲み干し、空になった容器をさっさとごみ箱に捨てると、まだ渋っている浅葉の手を引き、美術館の駐車場を目指した。
「運転は? 大丈夫なの?」
「平気だって。階段以外はほぼ普通」
なるほど、あのエレベーターとスロープはそういう事情だったのかと、千尋は納得した。
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