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第4章 苦悩
73 会いたい
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八月十五日。千尋はこのところ、自分でもはっきりとわかるほど機嫌が悪かった。
バイト仲間に話しかけられる度についそれをぶつけてしまい、そっとしておこう、と最近は敬遠されがちだし、大学の友達には「彼とうまくいってないからって八つ当たりはやめてよね」などと苦情を言われる始末。
(うまくいってない、か。そうなのかな……)
浅葉と一緒にいる時には何の不満もなかった。大事にしてくれるし、千尋の希望は表明しようとすまいと何でも叶えてくれる。とにかく会えないことだけが辛かった。
しかしそれは、浅葉の気持ちを疑っているのでもないし、その存在を失うのではという不安でもない。そんなことはどこまでも懐の深い浅葉が、驚異的な忍耐と愛情表現で既に解決してきていた。
ただ純粋に、目の前にあなたがいない。それがこんなに悲痛なことだとすれば、この先果たして千尋自身がやっていけるのかどうか、という問題だった。
ある女友達は、年上の彼氏が今年就職して地方に配属されたため、遠距離恋愛を強いられていた。彼女は、卒業後の自分のキャリアに関して妥協し、地方での生活についていくかどうかで悩んでいる。
だが、千尋に言わせれば、距離を縮めるための選択肢があるだけ恵まれている。浅葉のように今住んでいる場所にすらろくに帰ってこない相手となれば、千尋が何を諦めようとも、束縛する手段自体がないのだ。
誕生日の三日後にかかってきた電話でローズマリーのお礼を言った辺りまではよかった。しかしその後、サークル仲間の「恋バナ」を聞かされるうち、そういう楽な付き合いを羨んでしまう自分がいた。
そんなある日……。
千尋は自分がこんな淫乱娘だったのかと、心底幻滅した。
浅葉という恋人がありながら、別の男に手を握られ、その手を握り返してしまった。そうしながらこらえ切れずに嗚咽を漏らした自分の肩を、彼にさすられるに任せた。彼がもっと強引な男だったらどうなっていたかと思うと、今になってぞっとする。
あれは一ヶ月ほど前、夏休みを前に、サークル仲間たちと飲みに行った日のこと。総勢四十名ほどの大所帯で押しかけた居酒屋の座敷は乱れに乱れた。その混沌の中、一人浮かない顔をしている千尋に声をかけた者がいた。
「久々だね。これだけ潰れまくるってのも」
「ほんとですね。合宿が思いやられるなあ」
普段なら酔い潰れたメンバーの介抱に回っている千尋だが、その日は適度に酔った後輩たちの夢の語り合いに漠然と耳を傾けているところだった。
「なんか、疲れてる?」
「いえ、そんなことは……」
「ちょっとさ、外出ない? ここ空気悪いし」
「いえ……はい、じゃあ」
店のサンダルを突っかけて外に出ると、空気はぬるいが、少し風があって心地良かった。入口の段差に並んで腰を下ろす。
「あのさ」
「はい」
「大丈……夫?」
何を聞かれているのかが瞬時に飲み込めてしまい、胸が詰まった。いつもの自分ならどう答えるかを考えた。何がですか? 全然大丈夫ですけど。そんなことより、ほら……。
そのどれも口から出てこないまま頬に流れた涙を、高遠義則の手が拭っていた。
バイト仲間に話しかけられる度についそれをぶつけてしまい、そっとしておこう、と最近は敬遠されがちだし、大学の友達には「彼とうまくいってないからって八つ当たりはやめてよね」などと苦情を言われる始末。
(うまくいってない、か。そうなのかな……)
浅葉と一緒にいる時には何の不満もなかった。大事にしてくれるし、千尋の希望は表明しようとすまいと何でも叶えてくれる。とにかく会えないことだけが辛かった。
しかしそれは、浅葉の気持ちを疑っているのでもないし、その存在を失うのではという不安でもない。そんなことはどこまでも懐の深い浅葉が、驚異的な忍耐と愛情表現で既に解決してきていた。
ただ純粋に、目の前にあなたがいない。それがこんなに悲痛なことだとすれば、この先果たして千尋自身がやっていけるのかどうか、という問題だった。
ある女友達は、年上の彼氏が今年就職して地方に配属されたため、遠距離恋愛を強いられていた。彼女は、卒業後の自分のキャリアに関して妥協し、地方での生活についていくかどうかで悩んでいる。
だが、千尋に言わせれば、距離を縮めるための選択肢があるだけ恵まれている。浅葉のように今住んでいる場所にすらろくに帰ってこない相手となれば、千尋が何を諦めようとも、束縛する手段自体がないのだ。
誕生日の三日後にかかってきた電話でローズマリーのお礼を言った辺りまではよかった。しかしその後、サークル仲間の「恋バナ」を聞かされるうち、そういう楽な付き合いを羨んでしまう自分がいた。
そんなある日……。
千尋は自分がこんな淫乱娘だったのかと、心底幻滅した。
浅葉という恋人がありながら、別の男に手を握られ、その手を握り返してしまった。そうしながらこらえ切れずに嗚咽を漏らした自分の肩を、彼にさすられるに任せた。彼がもっと強引な男だったらどうなっていたかと思うと、今になってぞっとする。
あれは一ヶ月ほど前、夏休みを前に、サークル仲間たちと飲みに行った日のこと。総勢四十名ほどの大所帯で押しかけた居酒屋の座敷は乱れに乱れた。その混沌の中、一人浮かない顔をしている千尋に声をかけた者がいた。
「久々だね。これだけ潰れまくるってのも」
「ほんとですね。合宿が思いやられるなあ」
普段なら酔い潰れたメンバーの介抱に回っている千尋だが、その日は適度に酔った後輩たちの夢の語り合いに漠然と耳を傾けているところだった。
「なんか、疲れてる?」
「いえ、そんなことは……」
「ちょっとさ、外出ない? ここ空気悪いし」
「いえ……はい、じゃあ」
店のサンダルを突っかけて外に出ると、空気はぬるいが、少し風があって心地良かった。入口の段差に並んで腰を下ろす。
「あのさ」
「はい」
「大丈……夫?」
何を聞かれているのかが瞬時に飲み込めてしまい、胸が詰まった。いつもの自分ならどう答えるかを考えた。何がですか? 全然大丈夫ですけど。そんなことより、ほら……。
そのどれも口から出てこないまま頬に流れた涙を、高遠義則の手が拭っていた。
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