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第1章 弟子入り
8 血の三日月
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学校での毎日は相変わらずぱっとしないが、一希は探査見学の日を心待ちにしながら何とか持ちこたえていた。
これから昼休みに入るという時、授業に使った爆弾の模型と付属品を生徒数人で倉庫に片付けるよう教官から指示された。重さなど知れているし、こういう時に怠けて「だから女は」と言われるのは癪なので、一希は率先して引き受けた。他に名乗り出たクラスメイトは三人。
いざ道具を運ぼうと一希がジャージの腕をまくっていると、
「お前いいよ。手、足りてるから」
と止められた。何となく予想がついていた展開だ。
「ううん、私もやる。どうせ暇だし」
「いや、なんか顔色悪くねえか?」
そこへもう一人が加わり、
「そういや、さっきの休み時間、薬飲んでなかった?」
「ああ、あれはね。まあいつものやつで、大したことないの」
実は、今朝から生理痛がひどかった。幸い薬が効いて痛みは治まっているが、目まいとしんどさに変わりはない。とはいえ、そんなことでいちいち休んでいたらこの職業はきっと務まらない。結局、彼らの制止を押し切って大きな道具箱一つを抱えて運び、呆れられた。
高校時代にも、体育の後片付けだの机の移動だのは、こちらの体調が良い時でも何となく男子がやってくれてしまう空気があった。「任せとけばいいじゃない」、と女友達は口を揃える。
しかし、不発弾処理という危険な技術職兼肉体労働を志す一希は、できることに関してまで甘やかされたくはなかった。母の姿を見て育ったことも影響しているのかもしれない。
世間では専業主婦が圧倒的に多い中、外で働きながら家のことも全てこなす母を、一希は尊敬していた。実質的には「女手一つ」に近かった。その傍らでは、特に何をするでもなく存在感の薄い父が、ただ息をしていた。
* * * * * *
一希や新藤が住む古峨江市は、古峨江県の県庁所在地。坂が多い割に、さほど高い山はない。車で三十分も走れば海に出る。冬は寒く夏は暑いといって敬遠されがちだが、都会すぎず田舎すぎない市内の雰囲気が一希は気に入っていた。
探査見学の当日、一希はバスを乗り継ぎ、地図を頼りに川沿いをしばらく歩いた。指示された場所には立ち入り禁止のテープがすでに張られ、探査現場となる対岸では作業服姿の小柄な若い男が準備を進めている。
その様子をじっと見つめていると、男は何か黒っぽいものを取り上げ、走り出した。どこへ行くのかと見ていると、橋を渡ってこちらへやってくる。危ないからどけと言われるのだろうか。しかし、男は一希に軽く頭を下げ、ぼそぼそと言った。
「おはようございます。補助士の村越と申します。冴島さん、ですよね?」
「あ、はい。おはようございます」
村越は手にしていた双眼鏡を一希に手渡す。
「これを貸してやってくれって……新藤さんから」
「あ、ありがとうございます。どうもすみません、ご親切にわざわざ」
村越は目を合わせぬまま会釈して走り去っていった。新藤と比べれば下働きの若造でしかないが、一希にとっては紛れもなく先輩だ。探査での彼の動きにも注目する価値はある。
八時五十分、対岸に新藤の軽トラが現れた。車から降りてきた新藤が荷台から探査機を下ろす。村越がそれを受け取り、早速探査作業に入った。
探査機については学校の教本に構造の説明が記されていたが、遠目に見れば本体のない掃除機のような格好だ。先端の探査板を地表すれすれにかざしながら歩く。
探査については、不発弾の危険性を教える児童向けの絵本でもごく簡単に触れられている。一希が初めて読んだ不発弾関連の本がそれだった。
表紙の絵に、強烈な印象を焼き付けられた。向かい合った赤い三日月と青い三日月は、二つの民族を表したものだろう。その間に浮かぶ白い満月は、まだ訪れたとは言い難い平和の象徴に見えた。まだ幼かった一希の脳裏からはそれ以来、赤が父、青が母、白が自分自身であるというイメージが消えなかった。
スムとワカは、顔つきも背格好も肌の色も、使う言葉も変わらない。スムの方が比較的毛深いとか、天然パーマが多いとかの統計的な傾向はあるらしいが、個体別に見ればワカや他の民族にだってそういう人たちはいくらでもいるから、区別の基準にはならないのだ。
スム族が北方の島から国中へと移り住んだ近代以降は、住む土地がさほど明確に分かれているわけでもない。多少の文化的な違いこそあれ、普通に暮らしている分には両者の見分けはまずつかないと言っていい。有名人の誰々が実はスムではないかという噂が後を絶たないのもそのせいだ。
しかし、それを敢えて見分けようとするのが人間。スム族を野蛮なものとして毛嫌いし、自らとの区別を望んだワカ族は、スムの体に印を刻むという法律を可決した。血の三日月。文字通り血の色をした三日月型の刺青だ。
国中の産婦人科や助産院では、親の種族を縁戚戸録で確認し、スム族の両親を持つ子供には生後一年以内にこの刺青を彫る。悲しいかな、声の大きい者が勝つのは世の常であり、声の大きさとは概して数の多さである。
ただし、数の少ない者がいつまでも黙っているとは限らない。実際、この「印」の導入が内戦の最大の要因になったと言っても過言ではなかった。
血の三日月は、当初は左胸に彫るものと決まっていたが、内戦終結後、体のどこに入れても構わないという規則の緩和が行われたため、下腹部に入れる者が増えたらしい。それなら、よほど親しい仲になるか銭湯にでも行かない限り目に付かないからだ。
私立中学では、泊まりがけでの社会科見学や理科研修があり、生徒は男女別に大浴場を利用すると聞く。もちろん、その環境にスムが紛れ込むことはないだろう。そもそも、子供を私立の学校にやれるような経済的余裕のある家庭はワカですら少数だ。
一希はずっと公立だが、小中高と振り返ってみれば、誰々ちゃんとは遊んじゃいけないと親に言われた、と急に言い出す子が時々いたものだ。親同士で「あの家はどうやらそうらしい」という話が出ることもあっただろうから、そのせいだろう。
こうしてクラスで疎まれ始めた子たちが本当にスムだったのかどうかはわからずじまいだが、もしそうだとすれば、彼らの宿命には心から同情する。彼らが持って生まれてしまったのであろう血が、一生ついて回る呪いであることを一希は知っているから。
スムに課される枷とも言えるこの印は、ようやく完全廃止が議論されているところだ。
これから昼休みに入るという時、授業に使った爆弾の模型と付属品を生徒数人で倉庫に片付けるよう教官から指示された。重さなど知れているし、こういう時に怠けて「だから女は」と言われるのは癪なので、一希は率先して引き受けた。他に名乗り出たクラスメイトは三人。
いざ道具を運ぼうと一希がジャージの腕をまくっていると、
「お前いいよ。手、足りてるから」
と止められた。何となく予想がついていた展開だ。
「ううん、私もやる。どうせ暇だし」
「いや、なんか顔色悪くねえか?」
そこへもう一人が加わり、
「そういや、さっきの休み時間、薬飲んでなかった?」
「ああ、あれはね。まあいつものやつで、大したことないの」
実は、今朝から生理痛がひどかった。幸い薬が効いて痛みは治まっているが、目まいとしんどさに変わりはない。とはいえ、そんなことでいちいち休んでいたらこの職業はきっと務まらない。結局、彼らの制止を押し切って大きな道具箱一つを抱えて運び、呆れられた。
高校時代にも、体育の後片付けだの机の移動だのは、こちらの体調が良い時でも何となく男子がやってくれてしまう空気があった。「任せとけばいいじゃない」、と女友達は口を揃える。
しかし、不発弾処理という危険な技術職兼肉体労働を志す一希は、できることに関してまで甘やかされたくはなかった。母の姿を見て育ったことも影響しているのかもしれない。
世間では専業主婦が圧倒的に多い中、外で働きながら家のことも全てこなす母を、一希は尊敬していた。実質的には「女手一つ」に近かった。その傍らでは、特に何をするでもなく存在感の薄い父が、ただ息をしていた。
* * * * * *
一希や新藤が住む古峨江市は、古峨江県の県庁所在地。坂が多い割に、さほど高い山はない。車で三十分も走れば海に出る。冬は寒く夏は暑いといって敬遠されがちだが、都会すぎず田舎すぎない市内の雰囲気が一希は気に入っていた。
探査見学の当日、一希はバスを乗り継ぎ、地図を頼りに川沿いをしばらく歩いた。指示された場所には立ち入り禁止のテープがすでに張られ、探査現場となる対岸では作業服姿の小柄な若い男が準備を進めている。
その様子をじっと見つめていると、男は何か黒っぽいものを取り上げ、走り出した。どこへ行くのかと見ていると、橋を渡ってこちらへやってくる。危ないからどけと言われるのだろうか。しかし、男は一希に軽く頭を下げ、ぼそぼそと言った。
「おはようございます。補助士の村越と申します。冴島さん、ですよね?」
「あ、はい。おはようございます」
村越は手にしていた双眼鏡を一希に手渡す。
「これを貸してやってくれって……新藤さんから」
「あ、ありがとうございます。どうもすみません、ご親切にわざわざ」
村越は目を合わせぬまま会釈して走り去っていった。新藤と比べれば下働きの若造でしかないが、一希にとっては紛れもなく先輩だ。探査での彼の動きにも注目する価値はある。
八時五十分、対岸に新藤の軽トラが現れた。車から降りてきた新藤が荷台から探査機を下ろす。村越がそれを受け取り、早速探査作業に入った。
探査機については学校の教本に構造の説明が記されていたが、遠目に見れば本体のない掃除機のような格好だ。先端の探査板を地表すれすれにかざしながら歩く。
探査については、不発弾の危険性を教える児童向けの絵本でもごく簡単に触れられている。一希が初めて読んだ不発弾関連の本がそれだった。
表紙の絵に、強烈な印象を焼き付けられた。向かい合った赤い三日月と青い三日月は、二つの民族を表したものだろう。その間に浮かぶ白い満月は、まだ訪れたとは言い難い平和の象徴に見えた。まだ幼かった一希の脳裏からはそれ以来、赤が父、青が母、白が自分自身であるというイメージが消えなかった。
スムとワカは、顔つきも背格好も肌の色も、使う言葉も変わらない。スムの方が比較的毛深いとか、天然パーマが多いとかの統計的な傾向はあるらしいが、個体別に見ればワカや他の民族にだってそういう人たちはいくらでもいるから、区別の基準にはならないのだ。
スム族が北方の島から国中へと移り住んだ近代以降は、住む土地がさほど明確に分かれているわけでもない。多少の文化的な違いこそあれ、普通に暮らしている分には両者の見分けはまずつかないと言っていい。有名人の誰々が実はスムではないかという噂が後を絶たないのもそのせいだ。
しかし、それを敢えて見分けようとするのが人間。スム族を野蛮なものとして毛嫌いし、自らとの区別を望んだワカ族は、スムの体に印を刻むという法律を可決した。血の三日月。文字通り血の色をした三日月型の刺青だ。
国中の産婦人科や助産院では、親の種族を縁戚戸録で確認し、スム族の両親を持つ子供には生後一年以内にこの刺青を彫る。悲しいかな、声の大きい者が勝つのは世の常であり、声の大きさとは概して数の多さである。
ただし、数の少ない者がいつまでも黙っているとは限らない。実際、この「印」の導入が内戦の最大の要因になったと言っても過言ではなかった。
血の三日月は、当初は左胸に彫るものと決まっていたが、内戦終結後、体のどこに入れても構わないという規則の緩和が行われたため、下腹部に入れる者が増えたらしい。それなら、よほど親しい仲になるか銭湯にでも行かない限り目に付かないからだ。
私立中学では、泊まりがけでの社会科見学や理科研修があり、生徒は男女別に大浴場を利用すると聞く。もちろん、その環境にスムが紛れ込むことはないだろう。そもそも、子供を私立の学校にやれるような経済的余裕のある家庭はワカですら少数だ。
一希はずっと公立だが、小中高と振り返ってみれば、誰々ちゃんとは遊んじゃいけないと親に言われた、と急に言い出す子が時々いたものだ。親同士で「あの家はどうやらそうらしい」という話が出ることもあっただろうから、そのせいだろう。
こうしてクラスで疎まれ始めた子たちが本当にスムだったのかどうかはわからずじまいだが、もしそうだとすれば、彼らの宿命には心から同情する。彼らが持って生まれてしまったのであろう血が、一生ついて回る呪いであることを一希は知っているから。
スムに課される枷とも言えるこの印は、ようやく完全廃止が議論されているところだ。
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