恋の駆け出し記念日 ~23歳の地味処女にやたら優しいイケメンは、誰よりも真面目なワケありプレイボーイでした~

生津直

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第1章 天下の遊び人

7  またね

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 しばらく経って、悦子は隣のセイジに耳打ちする。

「すみません、ちょっとお手洗いに……」

「あ、そこね」

と指差された突き当たりを見ると、壁の一部がめり込み、WCの文字と左向きの矢印が書かれている。奥に進むと曇りガラスのドアが二つあり、右手が男性用、突き当たりが女性用だ。中には個室が二つ。

 用を済ませて出てくると、ちょうど男子トイレから出てきた大輝に出くわした。戸惑いながら会釈すると、大輝は女子トイレを指差して言う。

「ごめん、ちょっとさ、中、戻ってもらっていい? 急いで」

 わけがわからぬままにドアを開けると、大輝が後に続いて入ってくる。

「え? ちょっと……」

 大輝は素早くドアを閉めて言った。

「ごめんね、びっくりさせて」

「えっ?」

「さすがに忘れないよ。君、インパクト強かったし」

「あ……え? でも、さっき……」

「いや、君が有名になっちゃうといけないからさ」

「……有名?」

「すでに知り合いだなんつったら、どういう? ってことになるじゃん。俺と何かあったとかさ、君にとって不名誉な噂が立っても困るっしょ? ま、そう思われたいなら別だけど」

 なるほど、平成のドン・ファンの異名は伊達だてではないのだ。大輝の「はじめまして」に対する悦子の反論をアンナが阻止したのもそのためだったのかと合点がいった。

「あ、それはどうも……ご配慮ありがとうございます」

「どういたしまして」

「あ、そういえば……アンナさんから聞いたんですけど、この間、私に薬飲ませた人と戦ってくださったって」

「いや、結局、戦わせてもらえなかったんだけどね」

「すみません、ほんとに……」

「あいつ他でもやってんだろな。たっぷり脅しといたからここにはもう来ないと思うけど」

「見たんですか? その人が薬を入れるところ」

「いや、まさか。そこまで決定的だったらとっくに警察呼んでるよ。君が席を立って、なんか様子がおかしいなと思ってたら、そいつがどこからともなく現れて一緒にトイレに行こうとしてたの。もう魂胆見え見えじゃん。君の連れじゃないのはわかってたからさ」

「……わかってた?」

「うん。君が店に入ってきた時から、俺ほぼずっと見てたから」

(えっ? 峰岸大輝が……私を見てた?)

「だって目立つんだもん」

と言うなり、まじまじと悦子の顔を見つめる。

(え? それって、ダサいとかみっともないとか、浮いてるとか……?)

 おそらくその全部だろう、と悦子は思った。大輝はドアの方を気にしながら続けた。

「君は年上の女性と二人で来て、彼女は男を見付けて先に帰った」

(もしかして、見てたのは私じゃなくて高杉さんの方……?)

 高杉は以前大輝に口説かれかけたが、結局何もなかったと言っていた。大輝は、数年前にほんの数分だけ会話した彼女のことを憶えていたのだろうか。

「ま、気を付けなよ。これでわかったっしょ、世の中の危なさが」

 悦子がうつむくと、大輝がその手をさっと握った。思わず息を呑む。そこにもう一方の手が重ねられ、悦子の手に何かがすっぽりと収まった。白い紙に包まれセロテープで留められたその中身が、平たく横に並べられた百円玉三つであることは開封せずともわかった。

「どうもありがと。青空おにぎり、非常に美味でした」

「こんなの返さなくてよかったのに。それより、あの日、お宅まではタクシーで?」

「うん。俺にかつがれて電車じゃあ、君の名誉に関わるからね」

「本当にすみませんでした。あの、タクシー代……」

 その時、女性のものらしき硬い足音が近付いてきた。

「ヤバっ。タク代はいいよ、気にしなくて。じゃ、席戻ってて」

と囁くなり、大輝は個室の一つに入って鍵をかけた。その直後、ドアを開けて入ってきたのは、もう一つのテーブルにいたショートカットの小顔美人だ。

「あ、こんにちはー。はじめまして。坂本アキコといいます」

「あ、どうも、はじめまして。柿村悦子です」

「よかったらこっちのテーブルにもどうぞ。みんな気遣わないのがモットーみたいなとこあるから、あんまりチヤホヤはしてくれないけど、根はいい人たちなんで」

と笑う。悦子は精一杯の笑顔を向けた。

「あ、はい。あの……助かります……よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

と、アキコは空いている個室に消えていく。

 悦子が外に出て席に戻ると、間もなく大輝が出てきた。このタイミングならアキコとは顔を合わせずに済んだだろう。他の人には普通にトイレから出てきたようにしか見えていないはずだ。大輝は再び一階へと下りていった。



 途中、場の流れでもう一つのテーブルに移動し手すり側の席に座ると、一階が見渡せた。悦子は無意識に大輝を探してしまう。彼はハイチェアに美しく腰掛けていた。さすがと言うべきか当然と言うべきか、一人ではない。隣にはミニスカートの女性。明るくて賢くて社交的。そんなイメージが全身から溢れている。二人は携帯を取り出し、画面を操作し始めた。もちろん電話番号を交換しているのだろう。

(そりゃ、興味があれば番号ぐらい聞くよね。たとえ知り合いとしてだって……)

 こぼれたため息に、がっかりしている自分を認め、恥ずかしくなる。結局は裏切られるのだから期待はするな。経験から学んだその鉄則がどこかへ吹き飛んでいたらしい。

 十一時半を回ると数人が帰り支度を始め、悦子もその集団に加わった。連れ立って一階に下りると、クロークの脇に大輝がいた。皆が下りてくるのを下から見て、挨拶にと寄ったのだろう。先ほどの女性の姿はない。皆が口々に「お疲れ」と声をかけると、

「ほんじゃね。また、近いうち」

と大輝がまとめて答える。その手が、皆の後を付いていく悦子の肩に触れた。

(えっ……?)

「またね」

 この感じ……。あの晴れた朝、またおいでよ、と言われた時と同じだ。しかし、本人が大した意図もなく発している言葉をいちいち真に受ける方がどうかしている。

「あ、どうも……お疲れさまでした」

と頭を下げると、悦子はつい振り返りたくなる衝動を抑えながら、急いで皆の後を追った。
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