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第1章 天下の遊び人
8 ドン・ファンがくれたもの
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週末をいつも通り実家で過ごし、母の手料理で日曜の夕食を取った後、悦子は一人暮らしの自宅に戻った。
(明日はまた仕事か……)
ベッドに腰掛け、ため息をつく。あれから、第一火曜日のデモランジュ常連定例会を悦子は再び訪れた。アンナに言われた通り入口で名前を告げると「いつもありがとうございます」の一言で通された。飲食は二階にいる限り無料だから、結局一度も財布は開かなかったことになる。
定例会の顔触れは前回とほぼ同じ。大輝は一階で女性に声をかけながら、時折二階で雑談に加わった。何度か目が合ったような気はしたが、悦子に話しかけてくることはなかった。
早くも次の定例会が約一週間後に迫っている。そこに顔を出すかどうか、悦子は迷っていた。自分が大輝といくらかでも仲良くなることは、今後ありうるのだろうか。あれほどの人気者に悦子ごときがこれ以上近付く術があるとは考えにくい。
ベッドに横になると、サイドテーブルの上の白い包みが目に入った。大輝から返された三百円。たまたま持っていたのではなく予め用意されていたらしき包み。悦子が定例会に来ることを見越して準備してきたのだろうか。それとも、いつ偶然会ってもいいようにずっと持ち歩いていたのか。あれから二ヶ月近く、この三百円の包みを日に何度も握り締めては、じわりと襲う胸の痛みに耐えた。この硬貨を使ってしまう自分など想像がつかない。
(バカみたい。ううん、正真正銘のバカ。大バカ。少女マンガじゃあるまいし……)
そう己を罵ってはみるものの、何となくもったいなくて開けられずに今日に至る。
(こんなものいつまでも持ってるから未練が残るんじゃない)
悦子は自分に鞭打つ思いでその包みを取り上げ、セロテープをそっと剥がした。ぐるぐると二、三度巻き付けられた紙を開いていく。と、その手が止まった。
(嘘でしょ……)
いや、中身は何のサプライズでもない。間違いなく百円玉三つだ。しかし、それを包んでいた紙の内側に、悦子の目は釘付けになった。紫のボールペンが紡ぎ出したらしき、力の抜けた筆跡。その十一桁の数字には、彼自身が放つ煌めいた解放感の面影が感じられた。
どうしてもっと早く開けなかったのだろう。悦子は今にも寝込みそうな脱力感に襲われ、その可能性を考えてもみなかった自分を呪った。思わず枕に突っ伏すと、深い後悔の呻きが漏れた。デモランジュの二階の女子トイレでこれを手渡された時のことを思い出す。
(あの時にもうくれてたなんて……)
茶目っ気溢れる表情の数々が、何気ない仕草が、目の前に浮かんでは消える。そして温かい言葉の数々。またおいでよ。必ず返すから。どうもありがとう。またね。
これから先、再び得られるかどうかわからない、それはそれは貴重な彼の「またね」を粗末に扱ってしまった気がした。全身を掻きむしりたい衝動に駆られ、息苦しかった。
(どうしよう……)
今さら電話しても存在を忘れられているかもしれないが、自分がいずれこの番号にかけることは目に見えていた。問題はいつかけるか。そして何と言うか。こんな難題はいつ以来だろう。女性と一緒のところを邪魔するのは避けたい。かといって真っ昼間にかけるのもどうかと思う。いつ仕事しているのかもわからないというのが困りものだ。
大輝の行動パターンの手掛かりといえば、月一か二ぐらいで主に月火にデモランジュに来るというアンナの証言だけ。ここ二回の定例会には開店とほぼ同時に来ていたはずだから、仕事はその前に終わり、遊びはその後に始まるものと想定して、十時直前を狙うのはどうだろう。
番号を見付けてから二日後の火曜日、夜九時四十分。悦子はもうかれこれ十五分ほど携帯を握り締め、しきりに唇を舐めていた。この二日間あらゆる可能性を想定した。呼び出し音が鳴り続けるだけかもしれない。それならいい。次の動きをゆっくり考えられる。
では、留守電になったら? それにはメッセージの台本を用意した。自分の名前と、彼がピンとこない場合に備え、どんな形でお世話になったかの説明、電話が遅くなったことのお詫び、よかったら電話くださいの一言、そして自分の番号だ。
問題は大輝が出た場合。名乗るまでは同じだが、その後どう転ぶかは予想がつかない。何の用かと聞かれたら? せっかく番号を下さったので、とりあえずかけてみました、遅くなっちゃいましたけど。……よし、これだ。
登録済みの番号はとっくに表示してあるが、先ほどから暗転した画面を指先でつつき、放置してはまた暗転し、の繰り返しだ。何度も咳払いをしては手の汗を拭う。ぐずぐずしていたら十時になってしまう。もう一度本人直筆の数字と画面の番号を照合し、悦子は意を決して発信ボタンを押した。
(明日はまた仕事か……)
ベッドに腰掛け、ため息をつく。あれから、第一火曜日のデモランジュ常連定例会を悦子は再び訪れた。アンナに言われた通り入口で名前を告げると「いつもありがとうございます」の一言で通された。飲食は二階にいる限り無料だから、結局一度も財布は開かなかったことになる。
定例会の顔触れは前回とほぼ同じ。大輝は一階で女性に声をかけながら、時折二階で雑談に加わった。何度か目が合ったような気はしたが、悦子に話しかけてくることはなかった。
早くも次の定例会が約一週間後に迫っている。そこに顔を出すかどうか、悦子は迷っていた。自分が大輝といくらかでも仲良くなることは、今後ありうるのだろうか。あれほどの人気者に悦子ごときがこれ以上近付く術があるとは考えにくい。
ベッドに横になると、サイドテーブルの上の白い包みが目に入った。大輝から返された三百円。たまたま持っていたのではなく予め用意されていたらしき包み。悦子が定例会に来ることを見越して準備してきたのだろうか。それとも、いつ偶然会ってもいいようにずっと持ち歩いていたのか。あれから二ヶ月近く、この三百円の包みを日に何度も握り締めては、じわりと襲う胸の痛みに耐えた。この硬貨を使ってしまう自分など想像がつかない。
(バカみたい。ううん、正真正銘のバカ。大バカ。少女マンガじゃあるまいし……)
そう己を罵ってはみるものの、何となくもったいなくて開けられずに今日に至る。
(こんなものいつまでも持ってるから未練が残るんじゃない)
悦子は自分に鞭打つ思いでその包みを取り上げ、セロテープをそっと剥がした。ぐるぐると二、三度巻き付けられた紙を開いていく。と、その手が止まった。
(嘘でしょ……)
いや、中身は何のサプライズでもない。間違いなく百円玉三つだ。しかし、それを包んでいた紙の内側に、悦子の目は釘付けになった。紫のボールペンが紡ぎ出したらしき、力の抜けた筆跡。その十一桁の数字には、彼自身が放つ煌めいた解放感の面影が感じられた。
どうしてもっと早く開けなかったのだろう。悦子は今にも寝込みそうな脱力感に襲われ、その可能性を考えてもみなかった自分を呪った。思わず枕に突っ伏すと、深い後悔の呻きが漏れた。デモランジュの二階の女子トイレでこれを手渡された時のことを思い出す。
(あの時にもうくれてたなんて……)
茶目っ気溢れる表情の数々が、何気ない仕草が、目の前に浮かんでは消える。そして温かい言葉の数々。またおいでよ。必ず返すから。どうもありがとう。またね。
これから先、再び得られるかどうかわからない、それはそれは貴重な彼の「またね」を粗末に扱ってしまった気がした。全身を掻きむしりたい衝動に駆られ、息苦しかった。
(どうしよう……)
今さら電話しても存在を忘れられているかもしれないが、自分がいずれこの番号にかけることは目に見えていた。問題はいつかけるか。そして何と言うか。こんな難題はいつ以来だろう。女性と一緒のところを邪魔するのは避けたい。かといって真っ昼間にかけるのもどうかと思う。いつ仕事しているのかもわからないというのが困りものだ。
大輝の行動パターンの手掛かりといえば、月一か二ぐらいで主に月火にデモランジュに来るというアンナの証言だけ。ここ二回の定例会には開店とほぼ同時に来ていたはずだから、仕事はその前に終わり、遊びはその後に始まるものと想定して、十時直前を狙うのはどうだろう。
番号を見付けてから二日後の火曜日、夜九時四十分。悦子はもうかれこれ十五分ほど携帯を握り締め、しきりに唇を舐めていた。この二日間あらゆる可能性を想定した。呼び出し音が鳴り続けるだけかもしれない。それならいい。次の動きをゆっくり考えられる。
では、留守電になったら? それにはメッセージの台本を用意した。自分の名前と、彼がピンとこない場合に備え、どんな形でお世話になったかの説明、電話が遅くなったことのお詫び、よかったら電話くださいの一言、そして自分の番号だ。
問題は大輝が出た場合。名乗るまでは同じだが、その後どう転ぶかは予想がつかない。何の用かと聞かれたら? せっかく番号を下さったので、とりあえずかけてみました、遅くなっちゃいましたけど。……よし、これだ。
登録済みの番号はとっくに表示してあるが、先ほどから暗転した画面を指先でつつき、放置してはまた暗転し、の繰り返しだ。何度も咳払いをしては手の汗を拭う。ぐずぐずしていたら十時になってしまう。もう一度本人直筆の数字と画面の番号を照合し、悦子は意を決して発信ボタンを押した。
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