9 / 80
第1章 天下の遊び人
9 誘い
しおりを挟む
息を潜め耳を澄ませる。呼び出し音が鳴った。……一度だけ。
「はい、もしもし」
途端に頭が真っ白になる。初めて電話越しに聞く大輝の声は、悦子の記憶にあるもの以上に「男」を感じさせた。その声が、たった今かかってきた電話の相手を探し始める。
「もしもーし」
(あ、いけない、何か言わなきゃ……)
「あ、あの……」
「はい、こんばんは」
「あ、こんばんは。あの、峰岸大輝さん……ですか?」
「あれ、もしかして……トメさん?」
大輝と並んで歩いたあの快晴の朝が思い出された。
「悦子……です」
訂正しながら、なぜか心に春の風が吹く。なぜ声だけで私だとわかったのだろう。そして、なぜ私はこんな気持ちになるのだろう。
「久しぶりだね。元気?」
「あの、すみません、私、番号を下さってたことに、気付いたのがおとといで」
言ってしまってから、例によって正直すぎる自分を恨む。おととい気付いたのなら、その時点ですぐにかければよいではないか。しかし、大輝はさっぱりしたものだった。
「ああ、よかった、捨てる前に気付いてくれて」
捨てたりなんかしない。できるはずがない。この折り目が付いた小さな紙切れに対する自分の思い入れは十分自覚しているつもりだったが、その奥に幾層にも重なっていたものが、今になって急に溢れ出てくるような気がした。
「あのさ、今ちょっとね、十時から電話会議の予定があって」
なるほど、この時間に仕事中のこともあるのか。十時といったら、あと五分しかない。
「あ、すみません、お忙しいところ」
ごめんね、またね、と慌ただしく切られる覚悟はできていた。ところが。
「ね、今度さ、飲みに行かない?」
「……えっ? あの、二人で……ってこと、ですか?」
「うん。君が嫌じゃなければ」
「いえ……」
「いえ、行きません、ってこと? それとも……」
「あ、いえ……嫌、じゃない、です」
もっと気の利いた賛同の仕方ができないものかと自分に腹が立つ。
「明日は? 空いてる?」
(あ、明日?)
空いてるも何も、ガラ空きだ。しかし、そんな急展開は予想外中の予想外だった。
「あ、はい……」
「仕事は何時終わり?」
早ければ六時だが、急な残業があり得ないわけではない。反射的に一時間足した。
「あの、七時頃には……」
「七時か。双尾だったよね」
驚いた。一泊世話になった朝、悦子がたった一度口にしただけの情報をまさか憶えているなんて。
「そしたらさ、ちょっと待たせて申し訳ないんだけど、八時十五分に蔵崎の駅でどう?」
「あ……えっ、あの……」
半ば無意識で答えているうちにとんとん拍子に話がまとまってしまい、悦子は今さら慌てた。峰岸大輝の「飲みに行こう」は、どういう意味なのだろう。あくまで単なる知り合いとして、ということなのか、知り合いから友達へのステップなのか、それとも……。
「大丈夫そう?」
と再度確認が入り、悦子は十時が迫る焦りからか、自動的に答えていた。
「あ、はい。明日、八時十五分に蔵崎、ですね」
「オッケー。じゃ、改札出たとこで」
「あ、はい」
「電話、ありがとね」
「あの、こちらこそ……ありがとうございます」
こんな私のことを憶えていてくれて、こんな私に電話番号を教えてくれて、忙しいのに電話に出てくれて、かけるのがこんなに遅くなったのにまともに取り合ってくれて、なぜか二人で飲みに行こうとまで誘ってくれて……。これほど身に染みる感謝を、もっと的確に伝える言葉はないのだろうか。
「ほんじゃ、おやすみ」
「あ、はい。失礼します」
(おやすみ……)
何気なく発された一言で、なぜこんなにドキドキしなければならないのだろう。何をする気にもなれず、ベッドに寝転がる。見慣れた天井も、今夜ばかりはよそよそしかった。
明日、飲みに行く。峰岸大輝と、二人で。
~~~
「はい、もしもし」
途端に頭が真っ白になる。初めて電話越しに聞く大輝の声は、悦子の記憶にあるもの以上に「男」を感じさせた。その声が、たった今かかってきた電話の相手を探し始める。
「もしもーし」
(あ、いけない、何か言わなきゃ……)
「あ、あの……」
「はい、こんばんは」
「あ、こんばんは。あの、峰岸大輝さん……ですか?」
「あれ、もしかして……トメさん?」
大輝と並んで歩いたあの快晴の朝が思い出された。
「悦子……です」
訂正しながら、なぜか心に春の風が吹く。なぜ声だけで私だとわかったのだろう。そして、なぜ私はこんな気持ちになるのだろう。
「久しぶりだね。元気?」
「あの、すみません、私、番号を下さってたことに、気付いたのがおとといで」
言ってしまってから、例によって正直すぎる自分を恨む。おととい気付いたのなら、その時点ですぐにかければよいではないか。しかし、大輝はさっぱりしたものだった。
「ああ、よかった、捨てる前に気付いてくれて」
捨てたりなんかしない。できるはずがない。この折り目が付いた小さな紙切れに対する自分の思い入れは十分自覚しているつもりだったが、その奥に幾層にも重なっていたものが、今になって急に溢れ出てくるような気がした。
「あのさ、今ちょっとね、十時から電話会議の予定があって」
なるほど、この時間に仕事中のこともあるのか。十時といったら、あと五分しかない。
「あ、すみません、お忙しいところ」
ごめんね、またね、と慌ただしく切られる覚悟はできていた。ところが。
「ね、今度さ、飲みに行かない?」
「……えっ? あの、二人で……ってこと、ですか?」
「うん。君が嫌じゃなければ」
「いえ……」
「いえ、行きません、ってこと? それとも……」
「あ、いえ……嫌、じゃない、です」
もっと気の利いた賛同の仕方ができないものかと自分に腹が立つ。
「明日は? 空いてる?」
(あ、明日?)
空いてるも何も、ガラ空きだ。しかし、そんな急展開は予想外中の予想外だった。
「あ、はい……」
「仕事は何時終わり?」
早ければ六時だが、急な残業があり得ないわけではない。反射的に一時間足した。
「あの、七時頃には……」
「七時か。双尾だったよね」
驚いた。一泊世話になった朝、悦子がたった一度口にしただけの情報をまさか憶えているなんて。
「そしたらさ、ちょっと待たせて申し訳ないんだけど、八時十五分に蔵崎の駅でどう?」
「あ……えっ、あの……」
半ば無意識で答えているうちにとんとん拍子に話がまとまってしまい、悦子は今さら慌てた。峰岸大輝の「飲みに行こう」は、どういう意味なのだろう。あくまで単なる知り合いとして、ということなのか、知り合いから友達へのステップなのか、それとも……。
「大丈夫そう?」
と再度確認が入り、悦子は十時が迫る焦りからか、自動的に答えていた。
「あ、はい。明日、八時十五分に蔵崎、ですね」
「オッケー。じゃ、改札出たとこで」
「あ、はい」
「電話、ありがとね」
「あの、こちらこそ……ありがとうございます」
こんな私のことを憶えていてくれて、こんな私に電話番号を教えてくれて、忙しいのに電話に出てくれて、かけるのがこんなに遅くなったのにまともに取り合ってくれて、なぜか二人で飲みに行こうとまで誘ってくれて……。これほど身に染みる感謝を、もっと的確に伝える言葉はないのだろうか。
「ほんじゃ、おやすみ」
「あ、はい。失礼します」
(おやすみ……)
何気なく発された一言で、なぜこんなにドキドキしなければならないのだろう。何をする気にもなれず、ベッドに寝転がる。見慣れた天井も、今夜ばかりはよそよそしかった。
明日、飲みに行く。峰岸大輝と、二人で。
~~~
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる