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第1章 天下の遊び人
9 誘い
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息を潜め耳を澄ませる。呼び出し音が鳴った。……一度だけ。
「はい、もしもし」
途端に頭が真っ白になる。初めて電話越しに聞く大輝の声は、悦子の記憶にあるもの以上に「男」を感じさせた。その声が、たった今かかってきた電話の相手を探し始める。
「もしもーし」
(あ、いけない、何か言わなきゃ……)
「あ、あの……」
「はい、こんばんは」
「あ、こんばんは。あの、峰岸大輝さん……ですか?」
「あれ、もしかして……トメさん?」
大輝と並んで歩いたあの快晴の朝が思い出された。
「悦子……です」
訂正しながら、なぜか心に春の風が吹く。なぜ声だけで私だとわかったのだろう。そして、なぜ私はこんな気持ちになるのだろう。
「久しぶりだね。元気?」
「あの、すみません、私、番号を下さってたことに、気付いたのがおとといで」
言ってしまってから、例によって正直すぎる自分を恨む。おととい気付いたのなら、その時点ですぐにかければよいではないか。しかし、大輝はさっぱりしたものだった。
「ああ、よかった、捨てる前に気付いてくれて」
捨てたりなんかしない。できるはずがない。この折り目が付いた小さな紙切れに対する自分の思い入れは十分自覚しているつもりだったが、その奥に幾層にも重なっていたものが、今になって急に溢れ出てくるような気がした。
「あのさ、今ちょっとね、十時から電話会議の予定があって」
なるほど、この時間に仕事中のこともあるのか。十時といったら、あと五分しかない。
「あ、すみません、お忙しいところ」
ごめんね、またね、と慌ただしく切られる覚悟はできていた。ところが。
「ね、今度さ、飲みに行かない?」
「……えっ? あの、二人で……ってこと、ですか?」
「うん。君が嫌じゃなければ」
「いえ……」
「いえ、行きません、ってこと? それとも……」
「あ、いえ……嫌、じゃない、です」
もっと気の利いた賛同の仕方ができないものかと自分に腹が立つ。
「明日は? 空いてる?」
(あ、明日?)
空いてるも何も、ガラ空きだ。しかし、そんな急展開は予想外中の予想外だった。
「あ、はい……」
「仕事は何時終わり?」
早ければ六時だが、急な残業があり得ないわけではない。反射的に一時間足した。
「あの、七時頃には……」
「七時か。双尾だったよね」
驚いた。一泊世話になった朝、悦子がたった一度口にしただけの情報をまさか憶えているなんて。
「そしたらさ、ちょっと待たせて申し訳ないんだけど、八時十五分に蔵崎の駅でどう?」
「あ……えっ、あの……」
半ば無意識で答えているうちにとんとん拍子に話がまとまってしまい、悦子は今さら慌てた。峰岸大輝の「飲みに行こう」は、どういう意味なのだろう。あくまで単なる知り合いとして、ということなのか、知り合いから友達へのステップなのか、それとも……。
「大丈夫そう?」
と再度確認が入り、悦子は十時が迫る焦りからか、自動的に答えていた。
「あ、はい。明日、八時十五分に蔵崎、ですね」
「オッケー。じゃ、改札出たとこで」
「あ、はい」
「電話、ありがとね」
「あの、こちらこそ……ありがとうございます」
こんな私のことを憶えていてくれて、こんな私に電話番号を教えてくれて、忙しいのに電話に出てくれて、かけるのがこんなに遅くなったのにまともに取り合ってくれて、なぜか二人で飲みに行こうとまで誘ってくれて……。これほど身に染みる感謝を、もっと的確に伝える言葉はないのだろうか。
「ほんじゃ、おやすみ」
「あ、はい。失礼します」
(おやすみ……)
何気なく発された一言で、なぜこんなにドキドキしなければならないのだろう。何をする気にもなれず、ベッドに寝転がる。見慣れた天井も、今夜ばかりはよそよそしかった。
明日、飲みに行く。峰岸大輝と、二人で。
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「はい、もしもし」
途端に頭が真っ白になる。初めて電話越しに聞く大輝の声は、悦子の記憶にあるもの以上に「男」を感じさせた。その声が、たった今かかってきた電話の相手を探し始める。
「もしもーし」
(あ、いけない、何か言わなきゃ……)
「あ、あの……」
「はい、こんばんは」
「あ、こんばんは。あの、峰岸大輝さん……ですか?」
「あれ、もしかして……トメさん?」
大輝と並んで歩いたあの快晴の朝が思い出された。
「悦子……です」
訂正しながら、なぜか心に春の風が吹く。なぜ声だけで私だとわかったのだろう。そして、なぜ私はこんな気持ちになるのだろう。
「久しぶりだね。元気?」
「あの、すみません、私、番号を下さってたことに、気付いたのがおとといで」
言ってしまってから、例によって正直すぎる自分を恨む。おととい気付いたのなら、その時点ですぐにかければよいではないか。しかし、大輝はさっぱりしたものだった。
「ああ、よかった、捨てる前に気付いてくれて」
捨てたりなんかしない。できるはずがない。この折り目が付いた小さな紙切れに対する自分の思い入れは十分自覚しているつもりだったが、その奥に幾層にも重なっていたものが、今になって急に溢れ出てくるような気がした。
「あのさ、今ちょっとね、十時から電話会議の予定があって」
なるほど、この時間に仕事中のこともあるのか。十時といったら、あと五分しかない。
「あ、すみません、お忙しいところ」
ごめんね、またね、と慌ただしく切られる覚悟はできていた。ところが。
「ね、今度さ、飲みに行かない?」
「……えっ? あの、二人で……ってこと、ですか?」
「うん。君が嫌じゃなければ」
「いえ……」
「いえ、行きません、ってこと? それとも……」
「あ、いえ……嫌、じゃない、です」
もっと気の利いた賛同の仕方ができないものかと自分に腹が立つ。
「明日は? 空いてる?」
(あ、明日?)
空いてるも何も、ガラ空きだ。しかし、そんな急展開は予想外中の予想外だった。
「あ、はい……」
「仕事は何時終わり?」
早ければ六時だが、急な残業があり得ないわけではない。反射的に一時間足した。
「あの、七時頃には……」
「七時か。双尾だったよね」
驚いた。一泊世話になった朝、悦子がたった一度口にしただけの情報をまさか憶えているなんて。
「そしたらさ、ちょっと待たせて申し訳ないんだけど、八時十五分に蔵崎の駅でどう?」
「あ……えっ、あの……」
半ば無意識で答えているうちにとんとん拍子に話がまとまってしまい、悦子は今さら慌てた。峰岸大輝の「飲みに行こう」は、どういう意味なのだろう。あくまで単なる知り合いとして、ということなのか、知り合いから友達へのステップなのか、それとも……。
「大丈夫そう?」
と再度確認が入り、悦子は十時が迫る焦りからか、自動的に答えていた。
「あ、はい。明日、八時十五分に蔵崎、ですね」
「オッケー。じゃ、改札出たとこで」
「あ、はい」
「電話、ありがとね」
「あの、こちらこそ……ありがとうございます」
こんな私のことを憶えていてくれて、こんな私に電話番号を教えてくれて、忙しいのに電話に出てくれて、かけるのがこんなに遅くなったのにまともに取り合ってくれて、なぜか二人で飲みに行こうとまで誘ってくれて……。これほど身に染みる感謝を、もっと的確に伝える言葉はないのだろうか。
「ほんじゃ、おやすみ」
「あ、はい。失礼します」
(おやすみ……)
何気なく発された一言で、なぜこんなにドキドキしなければならないのだろう。何をする気にもなれず、ベッドに寝転がる。見慣れた天井も、今夜ばかりはよそよそしかった。
明日、飲みに行く。峰岸大輝と、二人で。
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