10 / 80
第1章 天下の遊び人
10 サシ飲み
しおりを挟む
七時五十分。遅刻するのが怖くて早めに蔵崎駅にやってきた悦子は、改札を出て構内の白い柱の前に落ち着いた。
後になって考えれば考えるほど不可解だった。美人でスタイルが良く垢抜けて社交にも長けた女性たちをいくらでも渡り歩ける大輝が、悦子ほど三枚目でダサくて暗い女に興味を持つとは信じ難い。これまでの人生に照らせば、大輝ほど経験豊富な男が自分を見下さない理由が思い浮かばなかった。
悦子にわざわざ慣れないことをさせ、その無様な姿を面白がる人なら過去にいくらでもいたし、例えば今日の約束をすっぽかして悦子を傷付けたいとか、そういう動機だとすればありうる話だ。しかし、悦子の記憶の中の大輝はそんな人物ではなかった。
もちろん口説かれているなんてことはあり得ないのだから、初めて会った時のネガティブトークに同情でもして親切に話を聞いてくれるつもりだろうか。あるいは、彼から見れば悦子は別世界の人間であるだけに、何らかの研究対象として学術的な関心が湧いたとか。そうだそうだそうに違いないそうに決まっている。
身じろぎもせずその場に佇み、背後の柱と同化しかけた頃、横からぽんと肩を叩かれた。
「お待たせ」
思わずはっと息を呑み胸を押さえた悦子は、大輝の笑顔に言葉を失い、ただ会釈した。
「そんなにびっくりしなくても」
と、美しい眉が八の字を描く。ネクタイこそしていないが、紺のスーツ姿だった。つくづく何を着ても様になる。
「何か食べたいものある?」
「いえ、特に……」
「居酒屋かバーだったら?」
「あ、じゃあ、居酒屋で……」
オッケー、と言って歩き出しながら、大輝は電話をかけ始めた。
「あ、こんばんはー。二名なんですけど、今から個室って入れます?」
(こ、個室……?)
「あ、じゃお願いします。峰岸です。五分ぐらいで着きますんで。はい、どうもー」
電話をポケットにしまうと、キラキラしたその笑顔が悦子の方を向いた。
「ごめんね、待ちすぎて眠くなっちゃったんじゃない? うまいこと潰せた?」
「あ、はい、大丈夫です。会社の近くの本屋さんとか、うろうろして」
「あ、そういう手があったか。……そういや仕事って何してんの?」
「何ってほどのものでもないんですけど……派遣で事務を」
「ふーん。職場は何系の会社?」
「えっと……医療とか介護とかの人材を育成したり、派遣したり」
「へえ。その中で事務っつったら、やることいっぱいあんでしょ」
「そう……なんですけど、私は一番単純な部分だけを」
「例えば?」
「書類関係が多くて、請求書、領収書とか、あと受講証とか修了証を作ったり、送ったり」
「それが結構な量で肩凝ったり?」
そのからっとした笑い声に悦子もつられて笑う。ここね、と大輝が指差したビルの階段を上がり、入口で大輝が名前を告げると、すぐに個室へと案内された。悦子は大輝に促され、奥の席に座る。割り箸と取り皿が二人分向かい合っていたが、大輝は悦子の正面を素通りして右隣九十度の位置に腰を下ろした。
「ドリンクお決まりでしたらお伺いします」
「どうする?」
ジャケットを脱いだ大輝が悦子の目の前にドリンクメニューを掲げる。悦子は特に強い希望があるわけではない。一人の時は店の系統や頼む料理やその日の気分で何となく決めているだけだし、男性と二人でテーブルに着くことなど無論初めてだ。
(どうしよ、早く決めなきゃ、いきなりグズ丸出しじゃない)
その時、
「ちょっと考えます」
という大輝のにこやかな声が、焦り始めた悦子を救った。決まりましたらボタンでお呼びください、と店員が引き戸を閉め、早足で遠ざかる。
「結構何でもいけちゃうクチ?」
「あ、はい。わりと、そうですね、幅広く」
悦子はメニューをひと通り目で辿りながら、横目でちらりと大輝の方を見やる。
「もしかして、俺に合わせようとか思ってる?」
図星だった。
「ダメ……ですか? 合わせちゃ」
「俺はもう決まってるけど、教えない。君が決めるまで」
この、人を小馬鹿にしたようでいてどこか楽観的な空気を醸す独特の声質とイントネーション。心を融かす魔法だ。
後になって考えれば考えるほど不可解だった。美人でスタイルが良く垢抜けて社交にも長けた女性たちをいくらでも渡り歩ける大輝が、悦子ほど三枚目でダサくて暗い女に興味を持つとは信じ難い。これまでの人生に照らせば、大輝ほど経験豊富な男が自分を見下さない理由が思い浮かばなかった。
悦子にわざわざ慣れないことをさせ、その無様な姿を面白がる人なら過去にいくらでもいたし、例えば今日の約束をすっぽかして悦子を傷付けたいとか、そういう動機だとすればありうる話だ。しかし、悦子の記憶の中の大輝はそんな人物ではなかった。
もちろん口説かれているなんてことはあり得ないのだから、初めて会った時のネガティブトークに同情でもして親切に話を聞いてくれるつもりだろうか。あるいは、彼から見れば悦子は別世界の人間であるだけに、何らかの研究対象として学術的な関心が湧いたとか。そうだそうだそうに違いないそうに決まっている。
身じろぎもせずその場に佇み、背後の柱と同化しかけた頃、横からぽんと肩を叩かれた。
「お待たせ」
思わずはっと息を呑み胸を押さえた悦子は、大輝の笑顔に言葉を失い、ただ会釈した。
「そんなにびっくりしなくても」
と、美しい眉が八の字を描く。ネクタイこそしていないが、紺のスーツ姿だった。つくづく何を着ても様になる。
「何か食べたいものある?」
「いえ、特に……」
「居酒屋かバーだったら?」
「あ、じゃあ、居酒屋で……」
オッケー、と言って歩き出しながら、大輝は電話をかけ始めた。
「あ、こんばんはー。二名なんですけど、今から個室って入れます?」
(こ、個室……?)
「あ、じゃお願いします。峰岸です。五分ぐらいで着きますんで。はい、どうもー」
電話をポケットにしまうと、キラキラしたその笑顔が悦子の方を向いた。
「ごめんね、待ちすぎて眠くなっちゃったんじゃない? うまいこと潰せた?」
「あ、はい、大丈夫です。会社の近くの本屋さんとか、うろうろして」
「あ、そういう手があったか。……そういや仕事って何してんの?」
「何ってほどのものでもないんですけど……派遣で事務を」
「ふーん。職場は何系の会社?」
「えっと……医療とか介護とかの人材を育成したり、派遣したり」
「へえ。その中で事務っつったら、やることいっぱいあんでしょ」
「そう……なんですけど、私は一番単純な部分だけを」
「例えば?」
「書類関係が多くて、請求書、領収書とか、あと受講証とか修了証を作ったり、送ったり」
「それが結構な量で肩凝ったり?」
そのからっとした笑い声に悦子もつられて笑う。ここね、と大輝が指差したビルの階段を上がり、入口で大輝が名前を告げると、すぐに個室へと案内された。悦子は大輝に促され、奥の席に座る。割り箸と取り皿が二人分向かい合っていたが、大輝は悦子の正面を素通りして右隣九十度の位置に腰を下ろした。
「ドリンクお決まりでしたらお伺いします」
「どうする?」
ジャケットを脱いだ大輝が悦子の目の前にドリンクメニューを掲げる。悦子は特に強い希望があるわけではない。一人の時は店の系統や頼む料理やその日の気分で何となく決めているだけだし、男性と二人でテーブルに着くことなど無論初めてだ。
(どうしよ、早く決めなきゃ、いきなりグズ丸出しじゃない)
その時、
「ちょっと考えます」
という大輝のにこやかな声が、焦り始めた悦子を救った。決まりましたらボタンでお呼びください、と店員が引き戸を閉め、早足で遠ざかる。
「結構何でもいけちゃうクチ?」
「あ、はい。わりと、そうですね、幅広く」
悦子はメニューをひと通り目で辿りながら、横目でちらりと大輝の方を見やる。
「もしかして、俺に合わせようとか思ってる?」
図星だった。
「ダメ……ですか? 合わせちゃ」
「俺はもう決まってるけど、教えない。君が決めるまで」
この、人を小馬鹿にしたようでいてどこか楽観的な空気を醸す独特の声質とイントネーション。心を融かす魔法だ。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる