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第3章 女たちの恋模様
31 ヒロ君
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「どうしてそんなに……気にかけてくれるの?」
大輝は氷のないグラスを心なしか執拗に回した。
「そりゃ、まあ……知らない仲じゃないし」
その時、悦子の携帯が鳴った。相手の名を見て思わず頭を抱える。
「あ、いっけない、今日……ちょっと出ていい? ごめんなさい。……もしもし」
電話の向こうでは、やや取り乱した声が響いている。
「そうだよね。あのね、ごめん、今、外でご飯食べてるの。そう、おうちじゃないの。……そう、忘れてた。ごめんね、約束してたのにね。……え? ううん、友達と一緒」
言いながら大輝の方をちらっと見やると、一瞬目が合った。
「もしもし? ね、ヒロ君」
と、うっかり呼びかけてしまい、悦子は顔を赤らめた。大輝は何食わぬ顔でアーモンドをつまんでいるが、聞こえていないはずはない。
「ね、もうすぐ始まるでしょ? 今見るんだったらそれでもいいし、録画しといてくれたら、週末おうちで一緒に見れるよ。……そうだね。うん……うん、できた? ありがとう。今日はごめんね。じゃあ、金曜日行くからね。はーい。バイバイ」
電話を切り、ふうっと息をつく。頬杖をついた大輝がこちらを見ていた。
「なんかリアクションした方がいい?」
「え?」
「いや、もしかして俺、何か邪魔しちゃったのかなと思って」
「あ、ううん、大丈夫。ごめんなさい、お騒がせして」
「一瞬修羅場っぽかったけど、大丈夫?」
「いえ、全然そんなんじゃ……」
「ほんと手のかかる弟で……とかいう言い訳は通用しないからね」
悦子は数秒ためらってから言った。
「あの……兄なんです」
大輝はグラスを口に運ぼうとしていた動きを止めて悦子を見つめた。
「……お兄さん?」
特別怪訝といった風でもない、その純粋な疑問形に悦子は少し安堵した。
「生まれつき障害があって……十歳も上とはいえ、どっちかというと弟感覚だけど」
「ふーん……なんか約束してたんでしょ? だいじょぶ?」
「今日ちょっと、特別ドラマの日で……ビデオ通話しながら一緒に見ることになってて。早く帰るつもりが、つい……」
「そりゃ気の毒だったな。……ヒロ君、だっけ?」
「ヒロタカっていうんです。広いにこざとへんの隆で」
「君のことは何て?」
「えーちゃん」
自分でその呼び名を口にすることは何だかこそばゆかった。
「母が悦ちゃんって呼ぶのを真似てるんだけど、ちっちゃい『つ』が言えないもんだから」
兄がそう呼ぶ時の表情を思い浮かべると、つい頬が緩んだ。
「仲いいんだね」
「大抵の言い争いだったら向こうが折れてくれるから、あんまり喧嘩にならなくて。ちなみに、大輝……は? 兄弟、いるの?」
「いない。俺一人」
大輝は物思うような目をどこへともなく向けていたが、ふと我に返ったように悦子の視線を捉えると、微かな笑みを浮かべた。
「いや、よかった」
「……よかった?」
普段兄の話はなるべくしない。障害があると言うと、大変だね、と手短に同情されてそそくさと話題を変えられるのが常だからだ。しかし、大輝は全く違う感想を抱いたらしい。
「君は人間全般苦手なのかと思ってたけど、そんなことない。今すんごいいい顔してたよ」
そう。振り返ればどの時期を取っても、家族だけが救いだった。大輝が現れるまでは。
「実家っていうのは、お兄さんと……?」
「兄と母。父は四年前に亡くなって。もう七十八だったからお爺ちゃんみたいな年だけど。母も今年六十七だし、私……かなり遅くできた子で」
「ふーん。ま、あんまり若すぎる親ってのも、それはそれで考えもんだけど」
「年いってから特別手のかかる兄が産まれて、私は……できる予定じゃなかった感じで」
そんなことないよ、というありがちなフォローは、大輝の口からは聞こえてこなかった。
「そうだね。君は多分、予定されてなかった。サプライズベイビー。俺と一緒」
(え……?)
大輝は悦子がたった今この世に誕生したかのように愛おしげに見つめ、髪を撫でた。
「ずっと聞き分けのいい子だったんだろうな、君は。いいよ、もっと甘えたって」
そう言ってくわえたアーモンドを、大輝は悦子の口の中に舌で押し込んだ。今日のアーモンドは、噛んでみると少し苦かった。
大輝は氷のないグラスを心なしか執拗に回した。
「そりゃ、まあ……知らない仲じゃないし」
その時、悦子の携帯が鳴った。相手の名を見て思わず頭を抱える。
「あ、いっけない、今日……ちょっと出ていい? ごめんなさい。……もしもし」
電話の向こうでは、やや取り乱した声が響いている。
「そうだよね。あのね、ごめん、今、外でご飯食べてるの。そう、おうちじゃないの。……そう、忘れてた。ごめんね、約束してたのにね。……え? ううん、友達と一緒」
言いながら大輝の方をちらっと見やると、一瞬目が合った。
「もしもし? ね、ヒロ君」
と、うっかり呼びかけてしまい、悦子は顔を赤らめた。大輝は何食わぬ顔でアーモンドをつまんでいるが、聞こえていないはずはない。
「ね、もうすぐ始まるでしょ? 今見るんだったらそれでもいいし、録画しといてくれたら、週末おうちで一緒に見れるよ。……そうだね。うん……うん、できた? ありがとう。今日はごめんね。じゃあ、金曜日行くからね。はーい。バイバイ」
電話を切り、ふうっと息をつく。頬杖をついた大輝がこちらを見ていた。
「なんかリアクションした方がいい?」
「え?」
「いや、もしかして俺、何か邪魔しちゃったのかなと思って」
「あ、ううん、大丈夫。ごめんなさい、お騒がせして」
「一瞬修羅場っぽかったけど、大丈夫?」
「いえ、全然そんなんじゃ……」
「ほんと手のかかる弟で……とかいう言い訳は通用しないからね」
悦子は数秒ためらってから言った。
「あの……兄なんです」
大輝はグラスを口に運ぼうとしていた動きを止めて悦子を見つめた。
「……お兄さん?」
特別怪訝といった風でもない、その純粋な疑問形に悦子は少し安堵した。
「生まれつき障害があって……十歳も上とはいえ、どっちかというと弟感覚だけど」
「ふーん……なんか約束してたんでしょ? だいじょぶ?」
「今日ちょっと、特別ドラマの日で……ビデオ通話しながら一緒に見ることになってて。早く帰るつもりが、つい……」
「そりゃ気の毒だったな。……ヒロ君、だっけ?」
「ヒロタカっていうんです。広いにこざとへんの隆で」
「君のことは何て?」
「えーちゃん」
自分でその呼び名を口にすることは何だかこそばゆかった。
「母が悦ちゃんって呼ぶのを真似てるんだけど、ちっちゃい『つ』が言えないもんだから」
兄がそう呼ぶ時の表情を思い浮かべると、つい頬が緩んだ。
「仲いいんだね」
「大抵の言い争いだったら向こうが折れてくれるから、あんまり喧嘩にならなくて。ちなみに、大輝……は? 兄弟、いるの?」
「いない。俺一人」
大輝は物思うような目をどこへともなく向けていたが、ふと我に返ったように悦子の視線を捉えると、微かな笑みを浮かべた。
「いや、よかった」
「……よかった?」
普段兄の話はなるべくしない。障害があると言うと、大変だね、と手短に同情されてそそくさと話題を変えられるのが常だからだ。しかし、大輝は全く違う感想を抱いたらしい。
「君は人間全般苦手なのかと思ってたけど、そんなことない。今すんごいいい顔してたよ」
そう。振り返ればどの時期を取っても、家族だけが救いだった。大輝が現れるまでは。
「実家っていうのは、お兄さんと……?」
「兄と母。父は四年前に亡くなって。もう七十八だったからお爺ちゃんみたいな年だけど。母も今年六十七だし、私……かなり遅くできた子で」
「ふーん。ま、あんまり若すぎる親ってのも、それはそれで考えもんだけど」
「年いってから特別手のかかる兄が産まれて、私は……できる予定じゃなかった感じで」
そんなことないよ、というありがちなフォローは、大輝の口からは聞こえてこなかった。
「そうだね。君は多分、予定されてなかった。サプライズベイビー。俺と一緒」
(え……?)
大輝は悦子がたった今この世に誕生したかのように愛おしげに見つめ、髪を撫でた。
「ずっと聞き分けのいい子だったんだろうな、君は。いいよ、もっと甘えたって」
そう言ってくわえたアーモンドを、大輝は悦子の口の中に舌で押し込んだ。今日のアーモンドは、噛んでみると少し苦かった。
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