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第4章 俺のライバル
57 シネマ
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木曜の晩に大輝から電話があった。今度の土曜の昼間に会わないかと。週末はいつも通り実家で過ごすつもりだったが、悦子は先日のぎくしゃくした雰囲気を収拾したくてそれを承諾した。いつものように金曜の晩から実家に行き、実家発で大輝に会い、夜はまた戻ればいい。
この間あんなことがあったから、あんな会話になってしまったから、何だか以前のように軽いノリでは会えなくなってしまった。しかし会いたいことに変わりはない。また何か気まずい展開になるかもしれないが、大輝をもっと理解したい気持ちの方が強かった。
昼間会うのが初めてだったせいもあるが、
「どっか行きたいとこある?」
と聞かれた瞬間、今回は体が目的で呼ばれたのではないと直感した。感激に身を震わせながら、普通のいわゆるデートを思い浮かべ、
「映画とか……」
と提案すると、すぐにOKが出た。悦子は見る映画の選択を委ねられ、一か八かで恋愛ものを選んだ。上司から言いがかりをつけられてクビになった主人公ミシェルが、復讐のためその上司に言い寄り、不倫に導いて家庭を崩壊させる話だ。役者は日本では無名の顔ぶれだが、監督は以前悦子が気に入った映画を手掛けた女性だった。
悦子の実家付近で、と大輝が配慮してくれたが、知り合いに目撃されると面倒なので念のため人気のある映画館は避け、地元すぎず少し離れた場所を悦子が指定した。
ちょっとしたバケツサイズのポップコーンを手にカウンターを離れると、大輝が言った。
「偉い」
「え?」
「バター。あれ、断れる人初めて見た」
「なんか手に付くのが嫌で。映画見てる間洗えないでしょ? 垂れちゃうこともあるし」
「あ、そういうこと? いや、かけますかって言われたら何となく『はい』って言っちゃうじゃん。でも、食べながらちょっと後悔するってパターン。結局元祖の塩味が一番うまいよなあと思って。キャラメル味とかマジやめてほしい」
「あれはなんか、全く別物だと思えば案外いけたりしない?」
「別物なら別物ちゃんと作れよ、一から」
「あーあ、めんどくさい、峰岸大輝」
「フルネーム腹立つな、なんか」
こんな風に大輝と笑い合うのは久しぶりだ。チケットは大輝がオンラインで取っておいてくれたが、場内には熟年夫婦や女性のお一人様といった層がパラパラと座っている程度だ。
映画が中盤に差しかかったところで、悦子は大輝が差し出したハンカチを受け取り、頬と顎を拭った。スクリーンでは、痛快な復讐劇を繰り広げるはずのミシェルが遠吠えのごとく号泣していた。いざ仕事を離れてみれば、件の上司はかくも脆い男だった。頭が禿げ上がり腹の垂れ下がった彼が、ベッドで円熟した腕前を発揮した後で煙草をくわえる姿の哀愁と諦観に、ミシェルはいつしか恋に落ちた。所詮恋愛ごっこでしかない関係に翻弄されるミシェルが自分と重なり、悦子は胸を詰まらせた。
ミシェルとの不倫の末、離婚に至った上司は、地団太を踏むどころか晴れやかな顔。実は妻子とはもともと円満でなく、夜の街で出会った女性との将来を考えていたのだ。ミシェルの復讐は皮肉にも彼の人生を一歩前進へと導き、ミシェル自身を苦しめた。彼の新たな出発を祝福できるほどに彼を愛することが、ミシェルが心の平穏を手にするための唯一の道である、という幕切れだった。
ポップコーンの残りを平らげ、場内が明るくなると、悦子は不満をこぼした。
「なんか……どうなの? この後味」
「何、ポップコーンの話?」
「ううん、ミシェル」
「まあ、だいぶ痛い子だよね」
と、大輝はにべもない。
「男って勝手」
「あら、そうなっちゃう? でも思ったより面白かったな。なかなか真理を突いてたね」
まあ確かに、現実とはそういうものだと言われればそれまでだ。すっかり湿ってしまった大輝のハンカチで指先を拭い合い、劇場を後にする。外に出ると、辺りは薄暗かった。
「ねえ、私と一緒にいて……楽しい?」
「楽しい?」
と、大輝は語尾を上げた。
「……疑問形?」
悦子はおどけてツッコミを入れたが、大輝は何やら考え込んでいた。
「楽しい、か……」
ぼそっと呟きながら、歩くスピードが目に見えて落ちる。
「いいよ、無理しなくて」
とふくれてみせる悦子をよそに、大輝はどこか遠くを見ていた。
「楽しいっていうか……俺は……君といる時の自分が好き、かもな」
大輝自身も予定していなかったかのような、何かを読み上げるようなその呟きは、悦子の胸の奥で静かにこだました。褒められたような気がして少し照れたついでに、
「飲もっか」
の一言が口をついた。
この間あんなことがあったから、あんな会話になってしまったから、何だか以前のように軽いノリでは会えなくなってしまった。しかし会いたいことに変わりはない。また何か気まずい展開になるかもしれないが、大輝をもっと理解したい気持ちの方が強かった。
昼間会うのが初めてだったせいもあるが、
「どっか行きたいとこある?」
と聞かれた瞬間、今回は体が目的で呼ばれたのではないと直感した。感激に身を震わせながら、普通のいわゆるデートを思い浮かべ、
「映画とか……」
と提案すると、すぐにOKが出た。悦子は見る映画の選択を委ねられ、一か八かで恋愛ものを選んだ。上司から言いがかりをつけられてクビになった主人公ミシェルが、復讐のためその上司に言い寄り、不倫に導いて家庭を崩壊させる話だ。役者は日本では無名の顔ぶれだが、監督は以前悦子が気に入った映画を手掛けた女性だった。
悦子の実家付近で、と大輝が配慮してくれたが、知り合いに目撃されると面倒なので念のため人気のある映画館は避け、地元すぎず少し離れた場所を悦子が指定した。
ちょっとしたバケツサイズのポップコーンを手にカウンターを離れると、大輝が言った。
「偉い」
「え?」
「バター。あれ、断れる人初めて見た」
「なんか手に付くのが嫌で。映画見てる間洗えないでしょ? 垂れちゃうこともあるし」
「あ、そういうこと? いや、かけますかって言われたら何となく『はい』って言っちゃうじゃん。でも、食べながらちょっと後悔するってパターン。結局元祖の塩味が一番うまいよなあと思って。キャラメル味とかマジやめてほしい」
「あれはなんか、全く別物だと思えば案外いけたりしない?」
「別物なら別物ちゃんと作れよ、一から」
「あーあ、めんどくさい、峰岸大輝」
「フルネーム腹立つな、なんか」
こんな風に大輝と笑い合うのは久しぶりだ。チケットは大輝がオンラインで取っておいてくれたが、場内には熟年夫婦や女性のお一人様といった層がパラパラと座っている程度だ。
映画が中盤に差しかかったところで、悦子は大輝が差し出したハンカチを受け取り、頬と顎を拭った。スクリーンでは、痛快な復讐劇を繰り広げるはずのミシェルが遠吠えのごとく号泣していた。いざ仕事を離れてみれば、件の上司はかくも脆い男だった。頭が禿げ上がり腹の垂れ下がった彼が、ベッドで円熟した腕前を発揮した後で煙草をくわえる姿の哀愁と諦観に、ミシェルはいつしか恋に落ちた。所詮恋愛ごっこでしかない関係に翻弄されるミシェルが自分と重なり、悦子は胸を詰まらせた。
ミシェルとの不倫の末、離婚に至った上司は、地団太を踏むどころか晴れやかな顔。実は妻子とはもともと円満でなく、夜の街で出会った女性との将来を考えていたのだ。ミシェルの復讐は皮肉にも彼の人生を一歩前進へと導き、ミシェル自身を苦しめた。彼の新たな出発を祝福できるほどに彼を愛することが、ミシェルが心の平穏を手にするための唯一の道である、という幕切れだった。
ポップコーンの残りを平らげ、場内が明るくなると、悦子は不満をこぼした。
「なんか……どうなの? この後味」
「何、ポップコーンの話?」
「ううん、ミシェル」
「まあ、だいぶ痛い子だよね」
と、大輝はにべもない。
「男って勝手」
「あら、そうなっちゃう? でも思ったより面白かったな。なかなか真理を突いてたね」
まあ確かに、現実とはそういうものだと言われればそれまでだ。すっかり湿ってしまった大輝のハンカチで指先を拭い合い、劇場を後にする。外に出ると、辺りは薄暗かった。
「ねえ、私と一緒にいて……楽しい?」
「楽しい?」
と、大輝は語尾を上げた。
「……疑問形?」
悦子はおどけてツッコミを入れたが、大輝は何やら考え込んでいた。
「楽しい、か……」
ぼそっと呟きながら、歩くスピードが目に見えて落ちる。
「いいよ、無理しなくて」
とふくれてみせる悦子をよそに、大輝はどこか遠くを見ていた。
「楽しいっていうか……俺は……君といる時の自分が好き、かもな」
大輝自身も予定していなかったかのような、何かを読み上げるようなその呟きは、悦子の胸の奥で静かにこだました。褒められたような気がして少し照れたついでに、
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