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第5章 もう一つの卒業
63 失恋
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(それを言うためにわざわざ、こんなに改まって……)
悦子は、その暗黒な何かに触れてしまうことを恐れ、極力軽いニュアンスで尋ねた。
「恋をしないのは……その人と、いつか結ばれるため?」
「いや」
再び、長い長い間が空いた。悦子が、じゃあ……と言いかけた時、大輝が淡々と言った。
「結ばれる日は来ない」
対岸に林立するクレーンに点々と灯った小さな光が、暗い水面で一様に潤んでいた。
(どうして……?)
大輝のことだから、欲しい女ぐらい常に簡単に手に入れてきたものとばかり思っていた。いつだって自信に満ち溢れ、女を口説くことにかけては自他共に認めるエキスパート。その大輝がなぜこうもはっきりと、その人とは結ばれないと言い切れるのだろう。
「もう……会うこともない」
悦子はその諦め切った横顔を見上げ、おずおずと尋ねた。
「それは……もしかして彼女がもう、この世にいない、から?」
大輝はしばらく海面に向けて瞬きを繰り返していたが、じきに弱々しい苦笑をこぼした。
「考えてもみなかったな。死んでるかもしれないなんて」
「あ、やっ、ごめんね。縁起でもないこと言って」
生きた人間に大輝が振られるなど想像がつかず、とんでもないことを口にしてしまった。
「もし死んじゃってたら……諦めつくもんなのかな」
「やめて。ごめん、ほんとに」
彼女は一体、大輝の何が不満だったのだろう。大輝がそれほど恋心を寄せた相手を大切にしないはずがないのに。よほどの強敵でもいたのだろうか。
「その人、もしかして……結婚してる、とか?」
「……してたね。出会った時は」
やっぱり。不倫となれば、いくら大輝でも思うようにはいかないだろう。
「でも、離婚した。ま、俺が別れさせたようなもんだけど」
(え……?)
「そのことは別に申し訳ないなんて思ってない。あんなクソみたいな奴とは別れて正解だ」
「でも、彼女はその人のこと……」
と悦子が言いかけると、大輝はうつむいて苦々しげに首を振った。
「一度でも好きだったことがあるのかどうかすらわからない。でも、わざわざ結婚までしたのは……俺のためだったと思う」
(大輝に……恋心を諦めさせるため?)
「いっそのこと、お前なんか大っ嫌いだ、どうにでもなれ、って言われたかった。俺は自分で自分の気を逸らすしかなかった。何か代わりが必要で……でも、彼女のことを忘れさせてくれる人なんて見付からなくて……。それで、数で補うって形になってしまった」
悦子は、どんな言葉を返してよいのか見当もつかなかった。必要に迫られ、切実なセラピーとして始まった大輝の「遊び」。それはきっと、この海よりも深い彼の傷が癒える時まで続くだろう。いつか癒えることがあればの話だが。
「俺がそういう方向に救いを求めたことも、彼女は知ってた。そしてある日突然、連絡を絶った。たった二行のメッセージだけ残して。それを何度も読んだ後、俺は一人でここに来た」
大輝の声の最後が掠れた。それを隠すかのように長い汽笛がボーッと鳴り、そして止んだ。後に残った静寂に、大輝の慟哭を聞くような思いがした。大輝にとって、唯一にして永遠の恋。百戦錬磨の大輝が、本気になった相手に限ってそんな冷たい仕打ちを受けたなんて……。
目を背けていれば何とか生きていける。向き合ってしまったら胸を引き裂くような苦痛でしかない。そんな真実に、これ以上の説明が必要だろうか。互いの間に三歩の距離を挟み、逃げ出したくなるほどの痛みに、ただ二人で耐えた。何か希望が欲しくて、悦子はその沈鬱な横顔を見上げた。
「実らないってわかってるんだったら、新しい恋をしたっていいんじゃないの?」
大輝は、灰色と紫の混じった夜空を見上げた。
「それが……もし、その人の望みだとしたら? 彼女も、大輝には他の人を見付けて幸せになってほしいって思ってるとしたら?」
「思ってるよ。誰よりも、嘘偽りなく、心底そう願ってくれてる」
しかし、彼女のその願いが、大輝の苦悩を幾許も軽くしていないことは明らかだった。
「いつか叶えてあげたいとは、ずっと思ってんだけどな……」
悦子は思った。大輝は永遠に探し続け、そして見付けずにいたいのかもしれない。彼女の代わりになる人を。彼女がいなくなった後の隙間を無情に埋めてしまう人を。そんな事情を何も知らず、これまでひどい言葉をぶつけてきてしまった。謝りたかったが、ごめんと言ったら悦子は泣いてしまいそうだった。自分には今ここで泣く資格はない。
「ありがとう。辛いことを……話してくれて。私なんかに」
言いながら声が震えた。結局込み上げてしまった涙を、悦子は慌てて拭った。
悦子は、その暗黒な何かに触れてしまうことを恐れ、極力軽いニュアンスで尋ねた。
「恋をしないのは……その人と、いつか結ばれるため?」
「いや」
再び、長い長い間が空いた。悦子が、じゃあ……と言いかけた時、大輝が淡々と言った。
「結ばれる日は来ない」
対岸に林立するクレーンに点々と灯った小さな光が、暗い水面で一様に潤んでいた。
(どうして……?)
大輝のことだから、欲しい女ぐらい常に簡単に手に入れてきたものとばかり思っていた。いつだって自信に満ち溢れ、女を口説くことにかけては自他共に認めるエキスパート。その大輝がなぜこうもはっきりと、その人とは結ばれないと言い切れるのだろう。
「もう……会うこともない」
悦子はその諦め切った横顔を見上げ、おずおずと尋ねた。
「それは……もしかして彼女がもう、この世にいない、から?」
大輝はしばらく海面に向けて瞬きを繰り返していたが、じきに弱々しい苦笑をこぼした。
「考えてもみなかったな。死んでるかもしれないなんて」
「あ、やっ、ごめんね。縁起でもないこと言って」
生きた人間に大輝が振られるなど想像がつかず、とんでもないことを口にしてしまった。
「もし死んじゃってたら……諦めつくもんなのかな」
「やめて。ごめん、ほんとに」
彼女は一体、大輝の何が不満だったのだろう。大輝がそれほど恋心を寄せた相手を大切にしないはずがないのに。よほどの強敵でもいたのだろうか。
「その人、もしかして……結婚してる、とか?」
「……してたね。出会った時は」
やっぱり。不倫となれば、いくら大輝でも思うようにはいかないだろう。
「でも、離婚した。ま、俺が別れさせたようなもんだけど」
(え……?)
「そのことは別に申し訳ないなんて思ってない。あんなクソみたいな奴とは別れて正解だ」
「でも、彼女はその人のこと……」
と悦子が言いかけると、大輝はうつむいて苦々しげに首を振った。
「一度でも好きだったことがあるのかどうかすらわからない。でも、わざわざ結婚までしたのは……俺のためだったと思う」
(大輝に……恋心を諦めさせるため?)
「いっそのこと、お前なんか大っ嫌いだ、どうにでもなれ、って言われたかった。俺は自分で自分の気を逸らすしかなかった。何か代わりが必要で……でも、彼女のことを忘れさせてくれる人なんて見付からなくて……。それで、数で補うって形になってしまった」
悦子は、どんな言葉を返してよいのか見当もつかなかった。必要に迫られ、切実なセラピーとして始まった大輝の「遊び」。それはきっと、この海よりも深い彼の傷が癒える時まで続くだろう。いつか癒えることがあればの話だが。
「俺がそういう方向に救いを求めたことも、彼女は知ってた。そしてある日突然、連絡を絶った。たった二行のメッセージだけ残して。それを何度も読んだ後、俺は一人でここに来た」
大輝の声の最後が掠れた。それを隠すかのように長い汽笛がボーッと鳴り、そして止んだ。後に残った静寂に、大輝の慟哭を聞くような思いがした。大輝にとって、唯一にして永遠の恋。百戦錬磨の大輝が、本気になった相手に限ってそんな冷たい仕打ちを受けたなんて……。
目を背けていれば何とか生きていける。向き合ってしまったら胸を引き裂くような苦痛でしかない。そんな真実に、これ以上の説明が必要だろうか。互いの間に三歩の距離を挟み、逃げ出したくなるほどの痛みに、ただ二人で耐えた。何か希望が欲しくて、悦子はその沈鬱な横顔を見上げた。
「実らないってわかってるんだったら、新しい恋をしたっていいんじゃないの?」
大輝は、灰色と紫の混じった夜空を見上げた。
「それが……もし、その人の望みだとしたら? 彼女も、大輝には他の人を見付けて幸せになってほしいって思ってるとしたら?」
「思ってるよ。誰よりも、嘘偽りなく、心底そう願ってくれてる」
しかし、彼女のその願いが、大輝の苦悩を幾許も軽くしていないことは明らかだった。
「いつか叶えてあげたいとは、ずっと思ってんだけどな……」
悦子は思った。大輝は永遠に探し続け、そして見付けずにいたいのかもしれない。彼女の代わりになる人を。彼女がいなくなった後の隙間を無情に埋めてしまう人を。そんな事情を何も知らず、これまでひどい言葉をぶつけてきてしまった。謝りたかったが、ごめんと言ったら悦子は泣いてしまいそうだった。自分には今ここで泣く資格はない。
「ありがとう。辛いことを……話してくれて。私なんかに」
言いながら声が震えた。結局込み上げてしまった涙を、悦子は慌てて拭った。
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