恋の駆け出し記念日 ~23歳の地味処女にやたら優しいイケメンは、誰よりも真面目なワケありプレイボーイでした~

生津直

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第5章 もう一つの卒業

71 覚醒

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 病室の扉を悦子は一応ノックしたが、母が入院した時と同様おそらく相部屋で、誰も返事をしないという展開だろう。案の定反応はない。

「失礼します」

と小声で挨拶しつつ引き戸を開け、中に入る。四人部屋だ。左手前のベッドは空で、左奥の患者はカーテンを開けたまま寝入っているらしい。そのぽっちゃり体型と白髪頭はどう見ても大輝ではない。右手のベッドは二つともカーテンが閉まっている。ベッドに書かれた名前を見ると、奥が大輝だった。

 カーテンをつまんで中を覗くと、布団の胸の辺りが静かに上下しているのが見える。悦子は中に入り、そっと枕元に歩み寄った。干からびた唇が痛々しいが、母の術後と比べれば顔色は悪くない。布団の下から方々に管が伸びているが、顔周りのチューブは外された後だった。まぶたが下りたままのその表情に、悦子は違和感を覚えた。そこにまるで命が宿っていないように思えてうろたえたが、そういえば大輝の寝顔をまともに見るのは初めてなのだと気付く。

(痛かったね。よく頑張ったね……)

 いつになくボサボサの髪を撫でてやると、熱い涙が込み上げた。

(無事でいてくれてありがとう。生きていてくれて……)

 その時、一段深い呼吸が一つ見て取れたかと思うと、布団からのっそりと、管の付いた腕が出てきた。だるそうにシーツの上を這った手が、ベッドの縁を捉えて止まる。

「大輝?」

 思わずその手を握った瞬間、悦子ははっと息を呑んだ。この手がこれほど冷たかったことはない。すると、かすれた声が低く呟いた。

「サユリ……」

 悦子は反射的に手を引いた。大輝の乾いた唇からたった今発せられた言葉を反芻はんすうする。

(サユリ……サユリ?)

 どう考えても女の名だ。途端に速まる悦子の鼓動が、おぼろげな記憶と結び付いた。

 以前大輝が口にした、「ルール第七条」。数年前に高杉小百合をナンパしておきながらを結ばず、わずかの雑談だけで立ち去った理由。高杉のファーストネームが「サユリ」なる人物と同じだからだと考えれば説明がつく。

 サユリとは誰なのだろう。大輝がこの度本命に据えた人物か、それとも永久に忘れ得ない片思いの相手か。いずれにしても、大切な、特別な人に違いない。無意識のうちに名前を呼ぶほどに。同じ名前の女性を遊びで抱くことを避けるほどに。

 大輝が目覚めた時に会いたい人は私じゃない、こんな所に私がいていいのだろうか、という思いが湧き上がる。しかし、真っ白なシーツの上に残された寂しげな指を見ると、悦子は再びその手を取り上げずにはいられなかった。大輝は目を閉じたまま、赤ちゃんやお年寄りがするようにもぐもぐと口を動かした。

 微かなうめきと共に、大輝の顔が苦しげにゆがむ。何か試行錯誤するように、ペースの乱れた呼吸が繰り返された後、ついに瞼が持ち上がった。

「大輝? 大丈夫?」

 ゆっくりと何度かまばたきを繰り返した目が、悦子を見付けた。その顔が、寝ぼけまなこのまま苦笑に変わる。大輝の指先が、悦子の手の甲を弱々しく擦った。

「奇跡か、君は」

 呟いた瞬間、しかめ面になる。

「大丈夫? 苦しい?」

「ん……」

「……わかる?」

 ここがどこなのか。何が起きたのか。それよりも、私が誰なのか。

 大輝は何かを探すように、目だけで辺りを見回した。

「長い夢でも見た?」

「ん……長いかどうかよくわかんないけど……きれいな夢だったな……」

 むにゃむにゃと寝言のように答えると、深く息を吸おうとしてむせ、布団の中で悶えた。

「いってぇー、何だこれ」

「ちょっ……今、誰か呼ぶね」

 悦子は、大輝の枕元に転がっている「呼出」と書かれたボタンを押した。すぐに、わずかな雑音に混じって女性の声が聞こえる。

「峰岸さん、どうされました?」

 大輝はまだ半分寝ぼけた様子で、その声の源を探していた。代わりに悦子が答える。

「あの、麻酔が切れたみたいで、今目が覚めたんですけど、なんか苦しそうで……」

「今行きますのでお待ちください。体はなるべく動かさないでくださいね」

 スピーカーからの雑音が途切れると、大輝は何とか元の呼吸を取り戻して言った。

「事の経緯は……聞いた?」

「うん。手術中に、東条ユキさんに会って」

 その名を聞くと、大輝はゆっくりと頷きかけ、目まいにでも耐えるように顔をしかめた。

「もう一人の方は?」

「もう一人って……刺した人?」

 その言葉をとがめるように、大輝が眉を寄せ、途切れ途切れに抗議した。

「刺そうと思って……刺したわけじゃない。うっかり……当たっちゃったと思ったら……あら、意外としっかり入っちゃったな……ってだけ」

「止血してとりあえず大丈夫そうだったって東条さんが。……ここに一緒に運ばれたみたい」

 その時、カーテンの向こうから声がした。

「峰岸さん、開けますよ」

 はい、と悦子が返事をすると、入ってきたのは悦子と年が変わらないぐらいの女性看護師だ。

「あ、起きてますね。そのまま動かないでくださいね」

「すいません、なんか、急なことで。お世話になります」

と大輝が挨拶する。

「あの、私……外に出てましょうか?」

と悦子は気を遣ったが、大輝がすかさず、

「いてもらっていいですか?」

と尋ね、了承を取り付けた。

 看護師は血圧や体温、脈拍を確認し、体中の管の様子をチェックしながら、全身麻酔で開腹手術を行ったことや、途中で輸血をしたことを説明した。詳細は明日執刀医から話すという。
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