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第5章 もう一つの卒業
70 親戚
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六階受付で事情を話し、言われるままに目の前の待合エリアに座って待つ。その数分後。
「峰岸さん」
受付が間違って患者名を呼んでしまったのだと思い、悦子は立ち上がりかけたが、その名を呼ばれて明確に反応した人物がいた。受付正面のエレベーターを挟んで反対側にも椅子が置かれていたらしい。四十そこそこの女性がさっと立ち上がって受付に向かった。
何がしかのやりとりの後、受付が少し声を落とす素振りを見せ、峰岸と呼ばれた女性が悦子の方を振り返った。もしかして、と思いながら何となく会釈すると、彼女が悦子に歩み寄り、話しかけてきた。
「あの……先ほどのお電話の?」
「あ、はい」
「ごめんなさいね。慌てて切ってしまって、失礼いたしました」
「いえ……あの、私、柿村悦子と申します。えっと、ご親戚……でしたっけ」
「……はい」
遠い親戚ならそうと言えば済む話だろうに、電話では親戚「みたいなもの」と言っていた気がする。腑に落ちない様子の悦子に気を遣ってか、彼女はやんわりと付け足した。
「家庭の事情が……いろいろと複雑なものですから」
実家がない大輝の入院手続きを済ませていたのであろう峰岸姓の女性に、複雑な事情を説明しろと迫るわけにもいかない。悦子は彼女に言った。
「私、また落ち着いた頃にでも出直しますので、ごゆっくりどうぞ」
「いえ……先ほど執刀医の先生から状況は聞きましたし、事務的なことも済みましたので、もう失礼するつもりだったんです」
「大輝さんに……会って行かれないんですか?」
彼女はちょっと気まずそうに首を振ると、不意に目を輝かせ、逆に悦子に尋ねた。
「ね、あなた……大輝の彼女?」
「えっ、いえ、違います」
「でも、よくご存じなのよね?」
こんな時にこんな所にいるぐらいだから、そう思われても仕方ない。振られかけのセフレですと明かすわけにもいかず、悦子は曖昧に微笑むに留めた。
「大輝はどうしてます? 長いこと会ってないものですから。仕事は何してるのかしら?」
「なんか、コンサルティング関係らしいですけど」
へえ、と彼女は目を丸くする。
「同僚の方たちとも仲良さそうで……結構楽しく働いてるみたいです」
「そうですか。ちなみに、恋人がいるのかどうか、ご存じ?」
イエスかノーか。彼女はどちらを聞きたいのだろう、と迷いつつ、悦子は答えを濁した。
「私には、そういう話はあまり……」
「……そう」
まるで大輝の怪我の状態よりも恋人の有無の方が重要な問いであったかのような反応だ。
「でも、モテます。とっても」
と悦子は付け足した。夜毎に違う女と遊び歩いていると知ったら彼女は幻滅するだろうか。いや、その程度のことではびっくりしないぐらいに大輝のことを知っている人物なのかもしれない。彼女の表情は、喜びとも悲しみともつかなかった。悦子は、大輝が刺された事情を彼女が尋ねないことが気になり始めていた。病院や警察からはどこまで聞いているのだろう。
「優しい子でしょ」
「はい」
「でも、むつかしーい人」
悦子は思った。大輝の難しさを、どれだけの人が知っているだろう。どんなにそばにいても、一見仲良くしていても、いつも見えない壁の向こうにいる。数多くの友達から信頼され、初対面の人にも気さくに接し、数え切れないほどの女たちに跨っていても、ここから先は誰にも踏み込ませないというラインを、頑なに守り続けている。
(でも、今は……)
大輝がいくらか心を許せる誰か一人が、その壁の向こうに招き入れられようとしているはずだ。
(そうよ、刺されたぐらいで死んでる場合じゃないんだから……)
大輝がその人を残してあやうくこの世を去ってしまうところだったのだと思うと、悦子は堪え切れなくなり、目頭を拭った。彼女が呟く。
「ごめんなさいね」
「えっ?」
「兄弟でもいれば、また違う人生になってたのかもしれないわね」
(違う人生に……)
大輝が決して語りたがらない生い立ち。複雑な家庭の事情。悦子ははっとした。内に秘めた苦悩に陰る彼女の切れ長の目に、見覚えがあるような錯覚に襲われた。そして、あのクリリンの言葉。
(やけに若くてきれいな……)
悦子は自分でも気付かないうちに口にしていた。
「あの……お節介なのはわかってますけど……ご存じですよね? 大輝さんが、家族も親戚も『いない』で通してること」
彼女は表情を曇らせたが、悦子は無我夢中で続けた。
「別に平気なわけじゃないんです。望んだって手に入らないって、諦めてるだけなんです」
彼女の気丈な唇が微かに震えた。悦子は、さすがに言いすぎたかとは思ったが、勢いに任せて食い下がった。
「会うだけ会ってあげてもらえませんか? そろそろ目を覚ます頃かもしれませんし……こんなことになったのも、もしかしたらお二人を引き合わせるためだったのかも……」
彼女は一瞬目を閉じてうつむき、それから悦子に笑顔を向けて言った。
「私の前で目を覚まされたら困りますから、そろそろお暇します」
(困るって……)
大輝の人当たりがよいくせに妙に頑固なところはDNAのせいだと悦子は確信した。病室の方角を見やった彼女の瞳につややかな膜が張り、苦渋の嘆息が悦子の前髪まで届いた。
「あの……」
気付けば悦子は、彼女の肩をつかんで訴えていた。
「事情は知りませんけど、こんな状況ですし、ちらっと顔を見るだけでも……お願いします」
と頭を下げる。彼女は潤んだ目を遠くへ向け、何かを読み上げるかのように言った。
「真の愛とは 互いの心求めるものならず
強く深く思えばこそ 互いの幸福をただ一途に志すべし」
彼女は天井を見上げ、両目に溜まった涙を引っ込めると、再び笑顔を見せた。
「昔ね、あるお坊さんに言われた言葉なの」
悦子は、病室の扉の向こうに何かしらの像を結んでいるらしき彼女の視線を目で追った。
「つまり、好きな人に好かれようとするより、その人の幸福を第一に、ってことですか?」
彼女はオホホと笑った。
「あなたに言ったんじゃないわよ。あなたは少し図々しいぐらいにアピールした方がいいんじゃないかしら」
と小首を傾げる。大輝への恋心を見透かされたような気がして、悦子は頬を赤らめた。
「でも、困難な時にあなたを救ってくれる言葉になるかもしれないわ。一つだけ訂正。『その人の』幸福じゃなくて、『互いの』幸福、ね」
悦子はすっかりはぐらかされてしまい、これ以上かける言葉を思い付けずにいた。
「あなたみたいな人がそばにいてくれたら……大輝もいつか幸せになれるかもしれないわね」
(え……?)
彼女は、ふと厳しい顔付きになって言った。
「私が来たこと、大輝には黙っていてくださいね。病院にもそうお願いしてありますから」
そんな約束はしたくなかった。
「悪く思わないでちょうだい。大輝は知らない方がいいんです。あの子のためなんです」
(でも……)
「そもそも来るべきじゃなかったんです。ただ、危険な状態だと聞いて居ても立ってもいられなくて……。でも、手術が無事終わって、もう心配ないって。それだけわかれば十分ですから」
彼女は不意に悦子の手を取った。その柔らかな両手に力がこもる。
「大輝のこと、どうぞよろしくね」
(えっ? よろしくって……お見舞い、のことだよね?)
悦子は黙って会釈した。彼女は受付に何か告げると、まるで買い物にでも出かけるような足取りで去っていった。悦子が首から提げる面会証を手に入れたのは、その一分後のことだった。
「峰岸さん」
受付が間違って患者名を呼んでしまったのだと思い、悦子は立ち上がりかけたが、その名を呼ばれて明確に反応した人物がいた。受付正面のエレベーターを挟んで反対側にも椅子が置かれていたらしい。四十そこそこの女性がさっと立ち上がって受付に向かった。
何がしかのやりとりの後、受付が少し声を落とす素振りを見せ、峰岸と呼ばれた女性が悦子の方を振り返った。もしかして、と思いながら何となく会釈すると、彼女が悦子に歩み寄り、話しかけてきた。
「あの……先ほどのお電話の?」
「あ、はい」
「ごめんなさいね。慌てて切ってしまって、失礼いたしました」
「いえ……あの、私、柿村悦子と申します。えっと、ご親戚……でしたっけ」
「……はい」
遠い親戚ならそうと言えば済む話だろうに、電話では親戚「みたいなもの」と言っていた気がする。腑に落ちない様子の悦子に気を遣ってか、彼女はやんわりと付け足した。
「家庭の事情が……いろいろと複雑なものですから」
実家がない大輝の入院手続きを済ませていたのであろう峰岸姓の女性に、複雑な事情を説明しろと迫るわけにもいかない。悦子は彼女に言った。
「私、また落ち着いた頃にでも出直しますので、ごゆっくりどうぞ」
「いえ……先ほど執刀医の先生から状況は聞きましたし、事務的なことも済みましたので、もう失礼するつもりだったんです」
「大輝さんに……会って行かれないんですか?」
彼女はちょっと気まずそうに首を振ると、不意に目を輝かせ、逆に悦子に尋ねた。
「ね、あなた……大輝の彼女?」
「えっ、いえ、違います」
「でも、よくご存じなのよね?」
こんな時にこんな所にいるぐらいだから、そう思われても仕方ない。振られかけのセフレですと明かすわけにもいかず、悦子は曖昧に微笑むに留めた。
「大輝はどうしてます? 長いこと会ってないものですから。仕事は何してるのかしら?」
「なんか、コンサルティング関係らしいですけど」
へえ、と彼女は目を丸くする。
「同僚の方たちとも仲良さそうで……結構楽しく働いてるみたいです」
「そうですか。ちなみに、恋人がいるのかどうか、ご存じ?」
イエスかノーか。彼女はどちらを聞きたいのだろう、と迷いつつ、悦子は答えを濁した。
「私には、そういう話はあまり……」
「……そう」
まるで大輝の怪我の状態よりも恋人の有無の方が重要な問いであったかのような反応だ。
「でも、モテます。とっても」
と悦子は付け足した。夜毎に違う女と遊び歩いていると知ったら彼女は幻滅するだろうか。いや、その程度のことではびっくりしないぐらいに大輝のことを知っている人物なのかもしれない。彼女の表情は、喜びとも悲しみともつかなかった。悦子は、大輝が刺された事情を彼女が尋ねないことが気になり始めていた。病院や警察からはどこまで聞いているのだろう。
「優しい子でしょ」
「はい」
「でも、むつかしーい人」
悦子は思った。大輝の難しさを、どれだけの人が知っているだろう。どんなにそばにいても、一見仲良くしていても、いつも見えない壁の向こうにいる。数多くの友達から信頼され、初対面の人にも気さくに接し、数え切れないほどの女たちに跨っていても、ここから先は誰にも踏み込ませないというラインを、頑なに守り続けている。
(でも、今は……)
大輝がいくらか心を許せる誰か一人が、その壁の向こうに招き入れられようとしているはずだ。
(そうよ、刺されたぐらいで死んでる場合じゃないんだから……)
大輝がその人を残してあやうくこの世を去ってしまうところだったのだと思うと、悦子は堪え切れなくなり、目頭を拭った。彼女が呟く。
「ごめんなさいね」
「えっ?」
「兄弟でもいれば、また違う人生になってたのかもしれないわね」
(違う人生に……)
大輝が決して語りたがらない生い立ち。複雑な家庭の事情。悦子ははっとした。内に秘めた苦悩に陰る彼女の切れ長の目に、見覚えがあるような錯覚に襲われた。そして、あのクリリンの言葉。
(やけに若くてきれいな……)
悦子は自分でも気付かないうちに口にしていた。
「あの……お節介なのはわかってますけど……ご存じですよね? 大輝さんが、家族も親戚も『いない』で通してること」
彼女は表情を曇らせたが、悦子は無我夢中で続けた。
「別に平気なわけじゃないんです。望んだって手に入らないって、諦めてるだけなんです」
彼女の気丈な唇が微かに震えた。悦子は、さすがに言いすぎたかとは思ったが、勢いに任せて食い下がった。
「会うだけ会ってあげてもらえませんか? そろそろ目を覚ます頃かもしれませんし……こんなことになったのも、もしかしたらお二人を引き合わせるためだったのかも……」
彼女は一瞬目を閉じてうつむき、それから悦子に笑顔を向けて言った。
「私の前で目を覚まされたら困りますから、そろそろお暇します」
(困るって……)
大輝の人当たりがよいくせに妙に頑固なところはDNAのせいだと悦子は確信した。病室の方角を見やった彼女の瞳につややかな膜が張り、苦渋の嘆息が悦子の前髪まで届いた。
「あの……」
気付けば悦子は、彼女の肩をつかんで訴えていた。
「事情は知りませんけど、こんな状況ですし、ちらっと顔を見るだけでも……お願いします」
と頭を下げる。彼女は潤んだ目を遠くへ向け、何かを読み上げるかのように言った。
「真の愛とは 互いの心求めるものならず
強く深く思えばこそ 互いの幸福をただ一途に志すべし」
彼女は天井を見上げ、両目に溜まった涙を引っ込めると、再び笑顔を見せた。
「昔ね、あるお坊さんに言われた言葉なの」
悦子は、病室の扉の向こうに何かしらの像を結んでいるらしき彼女の視線を目で追った。
「つまり、好きな人に好かれようとするより、その人の幸福を第一に、ってことですか?」
彼女はオホホと笑った。
「あなたに言ったんじゃないわよ。あなたは少し図々しいぐらいにアピールした方がいいんじゃないかしら」
と小首を傾げる。大輝への恋心を見透かされたような気がして、悦子は頬を赤らめた。
「でも、困難な時にあなたを救ってくれる言葉になるかもしれないわ。一つだけ訂正。『その人の』幸福じゃなくて、『互いの』幸福、ね」
悦子はすっかりはぐらかされてしまい、これ以上かける言葉を思い付けずにいた。
「あなたみたいな人がそばにいてくれたら……大輝もいつか幸せになれるかもしれないわね」
(え……?)
彼女は、ふと厳しい顔付きになって言った。
「私が来たこと、大輝には黙っていてくださいね。病院にもそうお願いしてありますから」
そんな約束はしたくなかった。
「悪く思わないでちょうだい。大輝は知らない方がいいんです。あの子のためなんです」
(でも……)
「そもそも来るべきじゃなかったんです。ただ、危険な状態だと聞いて居ても立ってもいられなくて……。でも、手術が無事終わって、もう心配ないって。それだけわかれば十分ですから」
彼女は不意に悦子の手を取った。その柔らかな両手に力がこもる。
「大輝のこと、どうぞよろしくね」
(えっ? よろしくって……お見舞い、のことだよね?)
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