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第5章 もう一つの卒業

73 見舞いの妊婦

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 翌日。病室に入るとすぐに大輝の姿が目に入った。ベッドのリクライニングを起こした状態で、半開きの目でぼんやりとテレビを眺めている。耳には白いイヤホン。だらんとした様子は大輝に似合わず、一体この世で何人がこんな隙だらけの大輝を知っているだろうと思うと、悦子は偶然のうちに大層な特権を得た気分だった。

 入って右手、大輝の隣のベッドには昨日と同様にカーテンがかかっている。中の患者は眠っているのかもしれない。部屋の左手奥のベッドでは、昨日は眠っていた六十代半ばかと思われる男性が雑誌をパラパラとめくっており、悦子と目が合うと軽く会釈した。悦子も頭を下げ、

「お邪魔します」

と小声で挨拶する。大輝の正面に回ると、ようやく気付いてイヤホンを外し、笑顔になった。

「もう起きてるの? 大丈夫?」

「今日ね、夕方から水が飲めるようになって」

「そうなんだ。よかった、飲めないの辛いもんね」

「その後、起きてみますか、って言われて、半ば強制な感じだったけど、まあ何とか」

「そう。傷は痛い?」

「昨日に比べたらまし。でも腹に力が入んないって、こんな頼りないもんなんだね。全てがふわふわしちゃってさ。まあ微熱もあるからかもしんないけど、なんもやる気しない」

と軽く伸びをしようとして、腹の痛みに顔をしかめる。

「そんなのいい方だよ。母の子宮筋腫の時なんて、術後ゲーゲー吐いて大変だったもん」

「あ、やっぱそうなんだ。佐々木さん、ってほら、昨日の看護師さんに順調ですねって言われて。俺はあんま順調な気はしないんだけど、明日は歩きましょうだって。超スパルタ」

「そうね。内臓の癒着を防ぐために動いた方がいいって、母も言われてた」

「そう、それそれ。だから明日に備えてちょっと頑張って起きとこうかなと思って」

 悦子がベッド脇の椅子に座ろうとすると、大輝がベッドをトントンと叩く。悦子が照れながらベッドに腰を下ろすと、大輝は腕で体を支えながらしんどそうに背中を浮かせ、悦子の肩にひたいを落とした。

 悦子が大輝の肩に手を触れると、その腕が下腹部に絡みついてきた。全身が熱くなる。今すぐ抱かれたかった。せめてその弱り切った体を抱き締めたくてたまらなかったが、大輝に痛みを与えずにそうすることはできそうにない。仕方なく、わずかに触れ合った部分に意識を集中させる。

 そこへ向かいのベッドから、ゴホン、と咳払いが聞こえ、悦子は慌てて飛び退いた。その拍子に大輝がバランスを失って悶絶する。向かいの男性は雑誌に目を落としたまま、何食わぬ顔で鼻の下をこすっている。

「ちょっと大野さん、邪魔しないでよ。自分だってさっき奥さんとチューしてたじゃん」

と大輝が抗議すると、大野と呼ばれた男性は途端にやんちゃ坊主の顔になった。

「それっくらいしか楽しみないもんねえ」

と囁き、声を殺してくっくっと笑う。悦子は、なんだ、もうそういう仲なのか、と安心して、清く正しく椅子に座り直した。

「お邪魔だったら出かけてくるけど、一時間で足りっかい?」

と入口の方を指差す大野氏に、大輝は腹をさすりながら、

「さすがにまだ無理だね」

と大袈裟に肩を落としてみせる。悦子は、そんな大輝の手の甲をつねってたしなめた。



 その翌日、術後二日目。悦子が見舞いに行くと、大輝は昼間練習したと言ってベッドの上に自力で起き上がった。歩くのはしんどかったが、トイレまでは何度か行ったという。導尿の管を取ってもらう時には、っちゃったらどうしようと心配したが、「何の迷いも感情もなくほいっと」触られて無事だったと笑った。

 ようやく食事にもありついたそうで、重湯と具のない味噌汁、グレープゼリーという質素な献立を明かした。明日にはシャワーが浴びられるので楽しみだという大輝は、さすがに髪が少しベタ付き始めていた。



 翌土曜日の昼間、病室に着くと、大輝のベッドは空っぽだった。大野氏もいない。大輝のベッドのそばまで行ってみると、テーブルにメモがあった。

〈面会室にいます。峰岸大輝〉

 その時、隣のベッドのカーテンが開いた。三十代と思しき男性がパジャマ姿で出てくる。

「あ、すみません、お邪魔してます」

と悦子が声をかけると、「どうも」、と気のない返事が返る。具合が悪いのか機嫌が悪いのか、もともと愛想が悪いだけなのか。

「あの、ここのベッドの峰岸ですけど、誰かお見舞いに来た感じでした?」

「ああ、さっき誰か来たみたいですね」

「……どんな人だったか、わかります?」

「声聞いただけですけど、年配の男の人かな」

(男か……)
「そうですか。ちなみに、昨日は……?」

「昨日……は、夕食片付いた後に誰か……」

「あ、それは多分私、です」

「あ、そう。そういえば、なんか昼間妊婦さんが……いや、あれはおとといかな?」

「妊……婦?」

「ええ。僕がちょうどトイレから戻った時に来てたんで、ちらっと挨拶したんですよね。もうじき産まれるんじゃないかってぐらい、ぼーんとお腹出てましたけど。その人と、今来てる人ぐらいだと思いますよ。ま、僕には誰も来ませんけどね」

と中途半端な笑いを浮かべ、ひょこっと首で挨拶すると、病室を出て行った。

(てことは、その人が大輝の……?)

 大輝の恋愛成就は祝福しているつもりだったが、妊娠までは想定していなかった。

(もうじき産まれる……大輝がパパに?)

 途端に激しい嫉妬が湧いた。なぜ今まで考えなかったのか。大輝に断捨離を決意させるには、相手の妊娠ぐらいのパンチが必要だろうという発想に今さら至った。面会室で会っているという年配の男性は花嫁の父だろうか。子供までできているなら婚約していたって不思議はないのだから。

 全てがおめでたい話のはずだった。大輝に唯一欠けていたものを誰かが与えつつある。限りなく完璧に近い彼を、ついに完成させようとしている人がいる。
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