74 / 80
第5章 もう一つの卒業
74 決壊
しおりを挟む
呆然と立ち尽くしていると、大輝が大野氏と共に入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
と大野氏。悦子はかろうじて、こんにちは、と笑顔を返した。大輝は先ほど出て行った隣の患者と同じパジャマ姿になっていた。怪訝そうに悦子に歩み寄ると、顔を覗き込む。
「どした?」
悦子は目を合わせられなかった。
「何でもない」
と首を横に振った瞬間、両目から同時に涙がぼろぼろっとこぼれ落ちた。唇を噛んで耐えれば耐えるほど、渾々と涙が湧く。
「おいで」
と大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせる。大野氏は見て見ぬふりだが、大輝はえっちらおっちらとベッドの反対側に回り、躊躇なくカーテンを閉めた。腕で体重を支えながら、慎重に悦子の隣に腰掛ける。
「いなかったからびっくりした?」
違う、と首を振ろうとしたが、改めて問われてみると、ガランとした真っ白のシーツは、なるほど良からぬ事態を想起させる気がした。先ほど目にした光景に今さら動揺する。
「さっきね、お客さん来て、俺も歩けるようになったし、ここであんまりしゃべってても迷惑かなと思って、この廊下ちょっと行ったとこの面会室に行ってた。ほら」
と、先ほどのメモをつまんでみせる。それは知ってる、と心の中で呟き、悦子は頷いた。
「大野さんもちょうど息子さん一家が来てたから面会室にいてね。息子さんたち帰った後に、こっちに合流したの。そんで、三人でしゃべってた」
(そうやって誰とでも簡単に仲良くなって、結婚してもあちらの親戚に気に入られて、奥さんの友達にも大人気で、私のことなんかなかったことになっちゃうんでしょ……)
悦子は己が惨めでぐずぐずと泣いた。大輝がこの病室にいる間だけは束の間の夢が見られると思い込んでいた。お互い束縛しないと誓い合ったこの男をほんの一時束縛できる気がした。他の女といるところを見ずに済み、周りからは普通のカップルに見える、そんな聖域ができたと錯覚していた。現実をねじ曲げて慰めを得ようとした自分の愚かさが悔しくて、涙が止まらなかった。大輝の腕が肩に回った瞬間、悦子はいやいやをして逃れた。
(優しくしないで……)
つい先日、東条ユキの話を聞いて大輝の幸せを願ったはずだった。でも今は、ずっとみんなのものでいてと祈らずにいられない。そんな自己矛盾がお腹の底から湧き上がり、ひっくひっくと音を立てた。理性とはかくも脆いものだろうか。大輝に恥をかかせたくはないが、悦子は子供のように泣きじゃくる声を抑えられず、文字通りわあわあと泣いた。
(どうして私をこんな風にしたの? いっそ最初から相手せずにいてくれれば……)
顔を覆った手を、大輝の手がそっと剥がしにかかる。その手を振りほどこうと力を込めた瞬間、耳元で熱のこもった声。
「悦子」
静けさが訪れた。悦子の呼吸だけが不規則にしゃくり続けていた。しかし、涙はまた新しく流れた。片方の手を、大輝の両手がしっかりと挟んでさらっていく。
(やめて……やめて。私のことなんか何とも思ってないくせに)
悦子はとうとう抵抗する気力を失い、大輝の膝の上に突っ伏した。喉が絞り上げられるようで苦しかった。頭が痺れ、悲しさや悔しさを肉体的な苦痛が凌駕し始めていた。大輝の手が髪を撫でる。このまま何も考えず、この優しさに溺れてしまえたら……。
「ちょっとさ、屋上行かない?」
行きたいのか行きたくないのかわからず、悦子は呼吸を保つことに専念した。
「あの話をさせてほしい」
その言葉にはっと息を呑む。
「三日前にしそびれた話」
東条ユキを納得させた一方で、ある女を逆上させた、あの話。他の女たちはどんな風に聞いたのだろう。そして、私はどんな風に受け止めるのだろう。大輝からの、さよならを。
「あら、いらっしゃい」
と大野氏。悦子はかろうじて、こんにちは、と笑顔を返した。大輝は先ほど出て行った隣の患者と同じパジャマ姿になっていた。怪訝そうに悦子に歩み寄ると、顔を覗き込む。
「どした?」
悦子は目を合わせられなかった。
「何でもない」
と首を横に振った瞬間、両目から同時に涙がぼろぼろっとこぼれ落ちた。唇を噛んで耐えれば耐えるほど、渾々と涙が湧く。
「おいで」
と大輝は悦子の手を引き、ベッドに座らせる。大野氏は見て見ぬふりだが、大輝はえっちらおっちらとベッドの反対側に回り、躊躇なくカーテンを閉めた。腕で体重を支えながら、慎重に悦子の隣に腰掛ける。
「いなかったからびっくりした?」
違う、と首を振ろうとしたが、改めて問われてみると、ガランとした真っ白のシーツは、なるほど良からぬ事態を想起させる気がした。先ほど目にした光景に今さら動揺する。
「さっきね、お客さん来て、俺も歩けるようになったし、ここであんまりしゃべってても迷惑かなと思って、この廊下ちょっと行ったとこの面会室に行ってた。ほら」
と、先ほどのメモをつまんでみせる。それは知ってる、と心の中で呟き、悦子は頷いた。
「大野さんもちょうど息子さん一家が来てたから面会室にいてね。息子さんたち帰った後に、こっちに合流したの。そんで、三人でしゃべってた」
(そうやって誰とでも簡単に仲良くなって、結婚してもあちらの親戚に気に入られて、奥さんの友達にも大人気で、私のことなんかなかったことになっちゃうんでしょ……)
悦子は己が惨めでぐずぐずと泣いた。大輝がこの病室にいる間だけは束の間の夢が見られると思い込んでいた。お互い束縛しないと誓い合ったこの男をほんの一時束縛できる気がした。他の女といるところを見ずに済み、周りからは普通のカップルに見える、そんな聖域ができたと錯覚していた。現実をねじ曲げて慰めを得ようとした自分の愚かさが悔しくて、涙が止まらなかった。大輝の腕が肩に回った瞬間、悦子はいやいやをして逃れた。
(優しくしないで……)
つい先日、東条ユキの話を聞いて大輝の幸せを願ったはずだった。でも今は、ずっとみんなのものでいてと祈らずにいられない。そんな自己矛盾がお腹の底から湧き上がり、ひっくひっくと音を立てた。理性とはかくも脆いものだろうか。大輝に恥をかかせたくはないが、悦子は子供のように泣きじゃくる声を抑えられず、文字通りわあわあと泣いた。
(どうして私をこんな風にしたの? いっそ最初から相手せずにいてくれれば……)
顔を覆った手を、大輝の手がそっと剥がしにかかる。その手を振りほどこうと力を込めた瞬間、耳元で熱のこもった声。
「悦子」
静けさが訪れた。悦子の呼吸だけが不規則にしゃくり続けていた。しかし、涙はまた新しく流れた。片方の手を、大輝の両手がしっかりと挟んでさらっていく。
(やめて……やめて。私のことなんか何とも思ってないくせに)
悦子はとうとう抵抗する気力を失い、大輝の膝の上に突っ伏した。喉が絞り上げられるようで苦しかった。頭が痺れ、悲しさや悔しさを肉体的な苦痛が凌駕し始めていた。大輝の手が髪を撫でる。このまま何も考えず、この優しさに溺れてしまえたら……。
「ちょっとさ、屋上行かない?」
行きたいのか行きたくないのかわからず、悦子は呼吸を保つことに専念した。
「あの話をさせてほしい」
その言葉にはっと息を呑む。
「三日前にしそびれた話」
東条ユキを納得させた一方で、ある女を逆上させた、あの話。他の女たちはどんな風に聞いたのだろう。そして、私はどんな風に受け止めるのだろう。大輝からの、さよならを。
0
あなたにおすすめの小説
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
愛されないと吹っ切れたら騎士の旦那様が豹変しました
蜂蜜あやね
恋愛
隣国オデッセアから嫁いできたマリーは次期公爵レオンの妻となる。初夜は真っ暗闇の中で。
そしてその初夜以降レオンはマリーを1年半もの長い間抱くこともしなかった。
どんなに求めても無視され続ける日々についにマリーの糸はプツリと切れる。
離縁するならレオンの方から、私の方からは離縁は絶対にしない。負けたくない!
夫を諦めて吹っ切れた妻と妻のもう一つの姿に惹かれていく夫の遠回り恋愛(結婚)ストーリー
※本作には、性的行為やそれに準ずる描写、ならびに一部に性加害的・非合意的と受け取れる表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。
※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
魔性の大公の甘く淫らな執愛の檻に囚われて
アマイ
恋愛
優れた癒しの力を持つ家系に生まれながら、伯爵家当主であるクロエにはその力が発現しなかった。しかし血筋を絶やしたくない皇帝の意向により、クロエは早急に後継を作らねばならなくなった。相手を求め渋々参加した夜会で、クロエは謎めいた美貌の男・ルアと出会う。
二人は契約を交わし、割り切った体の関係を結ぶのだが――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる