恋の駆け出し記念日 ~23歳の地味処女にやたら優しいイケメンは、誰よりも真面目なワケありプレイボーイでした~

生津直

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第5章 もう一つの卒業

75 真の愛

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 エレベーターの電光表示をぼんやりと眺めていると、大輝が言った。

「今朝シャワー浴びてきたよ。超さっぱり」

 言われてみれば確かに、無精ひげもきれいに落ちている。

「おかゆデビューもバッチリ」

「……おいしかった?」

「おいしいねえ。米の甘みしかなかったけど」

 パジャマのズボンには、妙な位置に悦子が作ってしまった涙染みが広がっていたが、大輝はそれを気にする様子もなく、目鼻を赤く泣き腫らした悦子を連れて平然と院内を歩いた。やや前かがみでキャスター付きの点滴台を押し、屋上に着く頃には少し息を切らしていた。

「大丈夫? こんなにたくさん歩いて……」

「大丈夫。屋上までは一回来たの、今朝」

 日中だけ開放されているという屋上スペースは、ところどころに芝生が敷かれ、入院患者の散歩や日向ぼっこにちょうど良さそうだ。土曜日とあって、老若男女で賑わっている。患者が家族と談笑し、子供たちが無邪気に走り回るのどかな光景に悦子は少し癒やされた。

 ベンチの多くは埋まっていたが、隅にぽつんと置かれた一つに並んで腰を下ろす。薄曇りの空を見上げて、大輝は言った。

「女の涙なんて見飽きたつもりだったけどさ。君に泣かれると毎度不安になる。俺、大丈夫かな、これでいいのかなって。そんで、しまいには俺も泣きたくなる」

「……ごめんね、ほんと泣き虫で。うざったいよね」

 大輝はゆっくりと首を横に振る。

「原因は全部俺だ」

 それは悦子も否定しない。

「この前した話だけどさ」

「この前って、例の……忘れられない、人?」

「うん。実はまだ……続きがあって」

「続き?」

「その続きを知った上で、君に決めてもらいたい。俺と一対一の関係になりたいかどうか」

「え? 一対一の……?」

 横目で恐る恐る見やると、熱い視線がまっすぐに返ってきた。

「君と正式に付き合えたらいいなと思ってる」

「私……?」

「そう、君」

 話が違う、と、咄嗟とっさに思った。

「だって……大事な人ができて、断捨離してるんじゃ……」

「うん、してた。毎日せっせと身辺整理した。大事な君にお伺いを立てたくて。まさか最後の一人が終わった後に命がけの番外編が待ってるとは思わなかったけど」

とパジャマの腹をさする。悦子は予想外の展開を何とか呑み込もうとしていた。

「終わった、って……」

 東条ユキまでもが振られたという事実にショックを受けたのがつい先日のことだ。漠然とイメージするしかなかった大輝の「本命の人」。それがまさか自分だったなどとは、到底信じられない。大輝は遠い山並みに目を向けて言った。

「しかしまあ、そんなことでわざわざ呼び出すなって怒り出したり、勝手にすりゃいいじゃん、ってあきれる人の方が圧倒的に多かったね。俺もルール違反以外でわざわざ終了宣言するなんて珍しいことだったし」

(でも、私のために全員……? 嘘でしょ?)

 大輝のお相手をそんなに多数知っているわけではないが、少なくともこれまでに見かけた顔触れと比べて、自分の方が選ばれるという原理は思い付かなかった。

「それって……同情っていうか、人助け的なあれ? 例のほら、人道的に正しいってやつ」

「相変わらず自虐的だな」

と、大輝はいまひとつ締まらない笑顔を見せた。

「最初はね、君の自尊心の足しになればいいなとか、いい思い出を作ってあげたい、って気持ちもあったと思う。でも、いつの間にか引きずられるみたいにずるずると、純粋に君のことを求めてた。それも最初は主に体だったけど、そのうち、心も、時間も、エネルギーも、過去も未来も、君の全部が欲しくなった。会いたいなあ、今何してんのかなあって、誰かのことを会ってない時にこんなに思ってしまうっていうのは、何だか懐かしい感覚で……。ただ、それがいわゆる好きってことなのかと言われると……」

 悦子は思い出した。大輝は好きの定義に厳しい、という東条ユキの言葉を。

「忘れられない人がいるからじゃない? その人と比べたらやっぱり違うなって……」

「同じかと言われればまあ違うんだけど……君がじゃあ二番目かっていったら、そうじゃないと思う。それよりもね、前にちらっと言ったけど、振り向いてほしいとか、自分のものにしたいとか、そんなんで好きを語っていいのかなって思っちゃうんだよね。だってさ、幸せになってほしいとは思いながらもね、そのためにじゃあ他の男に差し出せるかって言われたら……」

 大輝はさも辛そうに目を伏せた。悦子はそれが自分のことだと実感できないまま、一般論のような感覚でただ思ったことを言った。

「最初からそんなきれいには……。いくら好きだって所詮他人だもん。家族とは違うし」

 大輝の睫毛まつげが微妙に持ち上がる。悦子は、世で見聞きする例を思い浮かべ、懸命に言葉をつむいだ。

「血が繋がってたって難しいよ、無償の愛なんて。まして他人同士はさ、長い時間を過ごして、時にはぶつかって、だんだん強くなっていくんだろうから……いつか相手の幸せを純粋に願えたとしたら、それはすごいことだと思うよ。私だって大輝には幸せになってほしいと思ってたつもりだけど、やっぱり……取られたくないみたい。勝手だね、人間って」

 大輝の苦笑いはたまらなく美しかった。

「そうだな。勝手なことばっかり言ったりやったりしながら、それを愛だと思ってる」

 そう、まことの愛には程遠い。悦子は、雲の向こうから柔らかく照る太陽を見上げて呟いた。

「強く深く思えばこそ、互いの幸福をただ一途いちずに……そんな風になれるのかな、いつか」

 突然、悦子の手を大輝がつかんだ。その目は、驚愕とも恐怖ともつかぬ不穏な色をたたえていた。

「それ……どこで?」

 そう問われて悦子は自分が何を口走ったかに気付き、まずい、と思ったが、もう遅い。あれほど念を押して帰って行った彼女の真剣な眼差しが思い出され、悦子は青ざめた。

「あっ、えっと、テレビ……だったか……」

 我ながら見え透いた嘘を悦子が言い終えぬうちに、大輝は真実を察していた。奥歯の擦れる音が微かに聞こえ、首に血管が浮いた。両手で顔を覆い、重たそうに首を振る。悦子はいたたまれぬ思いでそれを見つめた。彼女の姿が、口ぶりが、まざまざとよみがえり、あの時には流れなかった彼女の清らかな涙が、今ここで空気を濡らすような気がした。そして彼女の視線に触れぬまま横たわっていた一人の男。彼は今、何を思っているのだろう。不意に聞こえた声は、安らかな微笑を帯びていた。

「夢じゃなかったんだな……」

 丸まった背中に、数え切れないほどの問いが浮かんでは消えた。どれぐらいの時間が経った頃だろう。その中のたった一つに答えを求めるため、彼はわずかに頭を持ち上げた。

「俺が無事だってことは……?」

「うん、お医者さんから聞いたみたいで……安心して帰った」

 悦子の目の前で、永遠の苦みに安堵の色がじわりとにじんだ。うつむいた横顔が、彼女の名を呼んだように見えた。大輝がしようとした話の「続き」が、そこにあった。

「明日……また来るね」

 大輝がどうやら小さく頷いたらしいのを見届けると、悦子は静かにその場を離れた。
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