王太子が婚約破棄を宣言したので、魔界のご令嬢がお怒りになりました

未玖乃尚

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2 小箱の中のぼろ雑巾

8 小さな音

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 突風が突き抜け、私の髪を揺さぶる。
 魔力の壁が分断され、私の足元には剣が刺さっていた。

 何が起きた?

「アレン?」
 思い出のアレンはいない。空気に溶け込むように形を崩して消えた。
 現状を把握するのに時間を要した。

 勇者アレンが私の前にいた。勇者が持つ聖気で魔力の壁を斬り裂いたのか、ならば納得がいく。
 そうか、お前との記憶をお前自身が断ち切ってくれるか。

 ならば思い残すことは何もない。
 あの森の出来事から、しばらくの間、私は魔王の娘であることを忘れた。お前が隣にいたからだ。

 だからお前が、小箱の中の変色した袖を、ただの雑巾に戻すというのなら、お前は敵だ。過去を捨て、完璧な皇女として、お前と出会う前の私に戻ろう。
 お前ごと全員消し飛ばしてやる。そのあとは次代の魔王として君臨し、勇者の痕跡など残らぬように焼き払ってくれるわ。

「よく来たな、勇者よ。これは、褒美だ。私の全魔力を受け止めるがいい」
 他の誰でもない。
 私自身が終止符を打ってやる。

 腕をアレンに突き出す。発動すれば、こんな感情ともお別れだ。
 手首を掴まれた。間近に迫った顔が、あの時の笑顔と重なる。

『分かった、アストレア』
 時間が、逆行する。
 意識が揺らいだ。

 唇に、歯が当たり皮膚が裂けた。舌先に血の味を感じた。

 目の前に、アレンがいた。
 反射的に唇をなぞってアレンを突き飛ばす。

「な……何をした!」
 分からん。
 想像できるが、確信が持てない。
 推論を肯定できる経験がない。

 この痛み。膨らんだ唇の裏を舌で触れる。
 こいつ、私に歯をぶつけなかったか?

「何って……分かるだろ」
「分かるか! あっ……くそ」
 集中力が持続しない。収束させた魔力を保てない。

 読めない。アレンの思考を追えない。起点で既に躓いてる。

 椅子を蹴り飛ばして、内面に生じたもどかしさを発散する。
 配下たちの気配が変わった。

「動いたものから殺す」

 私の行動を攻撃命令の予兆とでも捉えたか。
 これ以上、些事で私の心を煩わせるな。
 確認すべきはアレンの意図だ。

「言い訳する時間くらいなら、くれてやる。してみろ。その後でゆっくり殺してやろう」

 せいぜい私の機嫌を損ねないように理屈を並べてみろ。
 そうすれば、ほんの少しくらいなら寿命が延びるかもしれんぞ。

 アレンが一歩、歩み寄る。
 思いついたか。さて、どんな顔で、どんな言い訳をする。

 アレンが顔を寄せる。手が届く距離、いやこれは腕で引き寄せられるほどの距離。

 目を閉じそうになった。
 唇の痛みを思い出し、瞳をアレンから逃がした。人間たちの姿が視界に入る。後ろには配下たちも控えている。
 顎を突いて、アレンを押しのけた。

「この状況で何をしようとしてるんだ、お前は。周りを見ろ」
「耳打ち、だけど」
「は? 耳打ちだと?」

 紛らわしいヤツだ。だったら、それを先に言え。
 こいつらの前で今さら内緒話なんぞできるか。

「お前はいちいち私を苛立たせるな。人前で言えないことか? コソコソしないで堂々と言え。じれったいヤツだな」
 何で、こいつは平然としてて、私ばかりイライラせねばならんのだ。
 顔面を力任せに引っぱたいてやりたい。さぞかしすっきりするだろう。

 そんな感情を理解する様子もなく、アレンは正面から私を見据えた。その瞳に携えた黒い輝きは、アレンの意志の強さを示しているようであった。

「オレと逃げよう」

 たった一言の言葉が、石ころを投げたように、私の中で音を立てた。
 だがその音は、まだ小さな、聞こえない程度ものだった。

「逃げる……この私が? 人間ごときに背をむけて?」
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