主婦、王になる?

鷲野ユキ

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捏造のシャンポリアン

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「碓井さん!」
「碓井!」
陽子の声と、もう一人男の声が重なった。唐澤だった。
「唐澤君、そんなところに隠れていたのか」
呆れたように入江がつぶやいた。だが、当の唐澤はそれどころではなかった。
どういうことだ、なぜ碓井がアイツに捕まっている?やはり碓井は富士噴火を思いとどまってくれたのだ。彼はそう解釈した。しかし、協力してしまった俺をはたして彼は許してくれるだろうか。
「人気者だね、碓井君。それともルクレティウス?君はどうしてほしい?王の裏切りによって殺されたいかい?」
「殺す……ですって?」
その言葉に陽子が反応した。彼女も唐澤と同じ気持ちだった。ああ、碓井さんもやっぱりこの愚かな考えを止めるべく助けに来てくれたんだわ。わたしの為に。いつだってわたしの味方だったじゃない、いつもわたしがいるところに駆けつけてきてくれた。
けれど多勢に無勢だ、彼は捕らわれてしまった。そして今、命運を握られてしまっている。入江と、わたしの手によって。
「君が兵器を作動させれば彼は自由だ。なに、東海沖地震は東京まで及ばない。まあ少しは揺れるだろうが、せいぜい電車が遅延して、富士噴火の火山灰が舞い散るくらいだろう。さすがに君自身は無傷で世には返せないが、けれど愛する人を守れたんだ、文句はないだろう?」
「多くの人を傷つけておいて、文句がないはずないじゃない」
「じゃあ君の愛する人が殺されても構わないと。目の前で。君のせいで殺されても?」
「それは……」
陽子は言いよどむ。秤に掛けろだなんて、そんな。
確かに碓井は陽子に知らない世界を見せてくれた。けれど碓井が、いや彼の中のルクレティウスがなのだろう、見ていたのはフュオン王ばかり。その彼をわたしは本当に愛していたのだろうか。愛された気になって、それで愛していたつもりだったのではないのか。
その動揺が伝わったのだろうか。亜美が野次を飛ばす。
「陽子さん、騙されるな。富士噴火を望んでたのは誰だい?ルクレティウスじゃないか。あいつはそのオッサンとグルなんだ、そうに決まってるだろ!」
その声で、碓井が今まで結ばれていたくちびるを開いた。
「やはり王を奪おうとするか、アナトリア」
「奪いなんかしないよ、王なんてもういないんだ、そこにいるのは陽子さんだろ、それ以上でもそれ以下でもない。アンタは何を見てるんだ、あんた自身はどうしちまったんだ」
ルクレティウスに、というよりは、それは碓井に向けて放たれた言葉の様だった。やはり碓井はルクレティウスに成り変わってしまったのだろうか。わたしの愛した碓井さんはどこに行ってしまったの?
「碓井さん、目を覚まして。噴火を止めに手伝いに来てくれたんでしょう?」
「私は……」
碓井の姿かたちをした人間が、掠れた声を絞り出す。
「この人がどちらかなんて、この場合あまり関係ないだろう?いずれにせよヒトは肉体を壊されれば死ぬのだから。中身がどうであれ、失いたくなければ早く兵器を作動させるんだね」
「わたしは……」
どうしよう、どうすればいい?陽子には判断がつかなかった。確かにルクレティウスは噴火を望んでいるかもしれない。でも碓井さんは?このまま彼の中のルクレティウスの思惑通りにさせてしまっていいのだろうか。逡巡するしかない陽子の元に、一人の影が躍り出た。今までただ成り行きを見守るばかりの、唐澤の姿だった。
「なんだ、今さら裏切る気か?」
急に躍り出た唐澤に、一斉に向けられる銃口。それを制しながら、入江が面白がるように言った。
「黒崎から話は聞いている。碓井君を殺されたくなくて来たのかね?ならば君からも王を説得してくれたまえ。はやくそれを押してしまえと」
「兵器を作動させれば碓井は殺されずに済むんだな?」
「ああ、約束しよう」
鷹揚に入江がうなずいた。
「先生何言ってるの!信じたくないけど、碓井先生は、ルクレティウスはそのおじいさんの仲間かもしれないんだよ、言いなりになっちゃだめだって」
唐澤の言葉に、悲鳴に近い叫び声で緋美が叫ぶ。
「でも言いなりにならなければ、碓井は殺されてしまう」
確かに碓井と入江は関係があるはずだった。大学時代の恩師と教え子。しかし碓井は捏造の件を知らないのだ、一方入江はそれを知っている。ならば単に碓井は入江に捕まって、利用されているだけではないのか?
「そんなのホントかどうかわからないじゃない、二人で共謀して演技してるのかも」
緋美に加担する形で粕川も叫んだ。というより、そうであってほしかった。多くの人の命が奪われるのも嫌だったし、碓井先生が殺されるのも嫌だった。早く碓井先生がこんなバカなことをやめてくれさえすれば!
「そうよ、碓井さん。こんな冗談、早くやめて。いつものあなたに戻って、お願いだから」
陽子も彼女らと共に懇願した。ああ、いままでのことすべてが、今まで見てきた壮大な夢だったならば良かったのに。
「別に碓井君が何者だろうが私には関係ないのでね。ルクレティウスだろうがなんだろうが、計画通りに行かなければ私は彼を殺さざるを得ない。共謀?そんなことをして何のメリットが私にある。まあ、ルクレティウスとやらにはあるのかもしれないが、そんなことは私の知ったことではない」
だが彼女らの願いも虚しく、投げられたのは入江の冷徹な答えだった。
「そんな」
「わかった。ならば俺は碓井を助ける」
唐澤は確かにそう言った。その言葉に陽子は絶句する。わたしは秤にかけて、碓井さんを選ぶと即答できなかった。なのにこの幼なじみは彼を取るという。わたしにはできなかった。ほかの命を奪ってまで、彼を取るなんてことは。
「だが、ボタンを押すのはなにも陽子さんでなくても構わないだろう、どうせあんたは俺もテロリストの仲間として処分するつもりだったんだろうし」
なかば自暴自棄気味に唐澤が入江に言った。じゃなきゃおかしい。彼は最初からそう踏んでいた。確かに自分が富士噴火に加われば碓井は、いやルクレティウスは喜ぶだろう。だが、俺なんかより優秀な学者はたくさんいるはずだ、なんなら碓井自身がこの作戦に加担すればいい。けれどそうではなく、あくまで彼が最後の切り札だったのは、俺をテロリストの仲間入りをさせるためだったのだ。
兵器に関して知識のない陽子らが、これをうまく利用できるはずもない。その手引き役として研究員が一人必要だった。つまり俺と言う存在が。俺にすべての罪をなすりつけるために。だがしかし、それならなぜ碓井を利用しなかったのか。もしや……。それだけは認めたくなかった。だが。やはり碓井は俺さえも利用しようとしたのか?
「その通り。そこまで気づいていたのに、秘密をばらされるのを恐れて我々の言いなりになってくれたとは。いやはや見上げたものだね、カラシャール君」
殊更に面白がる入江を睨みつけ、唐澤は口を開いた。
「だが最後に聞きたい。碓井、お前は本当に富士を噴火させたかったのか?」
背の高い彼が、少し腰を落とし碓井と視線を合わせる。正面から瞳を見据えられ、影を落としたその瞳を碓井は泳がせる。
「私は……」
「私?俺は碓井に聞いている。ルクレティウスじゃない、碓井瑛士に用がある」
「唐澤、俺は……」
ようやく暗い瞳が光を取り戻してきた。丸メガネの奥で揺れる瞳。子供の頃に一緒に悪戯して、大人に怒られた時と同じ表情だった。
「俺は……俺自身は、そんなことするべきではないと思っていた、けれど彼女があまりに強く望むから、俺は彼女の言いなりになってしまった。俺は彼女の望むことならすべて叶えてやりたかった」
「彼女?」
誰のこと?粕川らは困惑する。陽子さんじゃないだろうし、まして入江のはずもない。
「彼女が望むから、王も手に入れた。だがそれだけでは彼女は満足しなかった」
わたしを?陽子は理解した。と同時に、悲しい気持ちにもなった。気づかないふりをしていただけだった。碓井は、陽子には用はなかったのだ。あったのは、フュオンティヌスにだけ。しかも、ルクレティウスの為に。
「やがて彼女は、あの国を滅ぼすきっかけとなったすべてを憎むようになった。手にしたフュオン王もルクレティウスのことを見てはくれない。あくまでも器の俺を、碓井瑛士に好意を寄せるだけ。さらには、アナトリアまで引き連れて、こうして彼女の計画を阻止すべく現れた」
そう語る彼の瞳に嫉妬の炎がとぐろをまいた。まるでルクレティウスに成り変わったかのように。
「ああ、憎きアナトリア。私から王を奪ったばかりか、汚いサピエンスどもによって私の身体は蹂躙された」
呪詛を吐き、碓井は自分の身体を抱きしめる。
「それは……」
亜美が言いよどむ。もちろんアナトリアが指示したことではなかった。だが、戦の血の気に当てられた、一部のサピエンスの男どもがそうしたのは確かだった。同じ女として、そんなことをされて許されるはずがないだろう、亜美はそうも思う。さらに原因が王とアナトリアの姦通だ。あの国が亡びるきっかけとなったのは、たしかにアタシだったけれど。
「……思えば俺は、そんな彼女に同情したのかもしれない。悲運の王妃ルクレティウス。だから俺は彼女に手を貸した。こんなことを言っても理解してもらえないだろう、俺自身だっておかしいと思っている。けれども彼女は俺の中にいた憧れの存在だったんだ、ルクレティウスは」
そこで碓井は大きく息を吐いた。そして、苦しげに言葉を続ける。
「俺は、彼女を愛してしまっていたんだ」
瞳に浮かぶ彼女の怒りをなだめ、碓井はそう告げた。
「碓井……」
なかば絞り出すように放たれた告白に、唐澤はその名を呟くしかできなかった。
「頭のおかしいやつだと笑いたければ笑えばいい。自分の中のもう一人の人格を愛するだなんて、ナルシズムもいいところだ、そう嫌悪すればいい。俺にだってわからない、なぜこんなことになってしまったのか」
頭を抱えながら、碓井は何かを封じ込めるように身をかがめた。まるで自分のなかのルクレティウスが、これ以上好き勝手しないよう、抱きしめるように。
「その為にこんなことまでして、彼女の気を引く為に陽子さんやお前にもひどい仕打ちをしてしまった。そうだ、お前に罪をかぶせようとも画策した。こんな俺にかまうな、唐澤」
そして彼は片目を失った陽子にも、まるで散々怒られて今にも泣きだしそうな表情で、
「陽子さんには、もうなんと謝ればいいのかもわからない」と言うだけで精一杯だった。
「俺はそれだけのことをしてしまったんだ、殺されても仕方がない。早く逃げろ」
そこまで言いきって、碓井はうなだれる。入江に流されるまま、この計画に加担してしまったのは事実だった。なにより彼女がそれを望んでいた。あの国を奪ったサピエンスどもを、いやすべてを壊してしまえと。しかしその気持ちさえも入江に利用されたにすぎなかった。すべてはこの国の為だなんていうまやかしと共に。
「ここまで来て、いまさらやすやすと逃げ切れるものか」
うなだれる碓井に唐澤が口を開いた。いずれにせよ、引き返せないところまで来てしまったのは誰もが同じだった。この状況で、どうやって逃げ出せと。
「それに俺はお前を頭のおかしいやつだとは思わないさ。俺だって同じだ、気を引く為に、悪に手を染めてしまった」
「唐澤?」
顔を上げ、自分を見上げる碓井の姿にかつての自分の姿が重なった。周りから疎まれていた自分に手をさしのべてくれた碓井。きっと彼に自分はこう見えていたのだろう。
だからこそ、もうごまかすことはできなかった。ずっと秘めていた思いだ、だがもう引き返すことはできない、ならば俺も、彼に伝えなければならないことがある。
「お前の夢を一緒に追い続けていたかった。だから俺は、学者としてしてはならないことをしてしまった」
「何を言ってるんだ?」いぶかしがる碓井を見据え、唐澤は腹に力を込めて言い放った。
「シャンポリオンはないんだ、あの遺跡はすべて偽物だ」
「何を」
この発言に驚いたのは碓井だけではなかった。彼のゼミ生らも、過去の記憶を持つものらも呆けたように彼らのやり取りをただ見ているしかできなかった。陽子を除いて。
「嘘よ、だってこれは?確かに記憶がある。フュオンティヌスがルクレティウスにプレゼントしたペンダント」
そう叫んで陽子は胸元の翡翠を取り出した。
「翡翠?何かの間違いだろう、俺はそんなものは埋めていない。すべての遺物はすべて俺がそれらしく作って埋めたもの。覚えていないか?お前の発掘ごっこに付き合わされて、ああいう遺物が家にはゴロゴロしてるんだ」
「嘘だ、俺は確かにあれを発掘したんだ」
陽子の掲げるそれを指し、碓井も叫ぶ。唐澤が覚えていないだけで、あれも彼の作った捏造物なのか?いや、まさか。
「ルクレティウスの言った通り、シャンポリオンが見つかってから皆覚醒したじゃないか。それは発掘物が本物だったからだ、そうでなければおかしい」
「そう俺も思いたかった。けれど遺物をそれらしく加工して、事実この俺が埋めたんだ、すべて」
「確かにいろいろ掘り出しては遊んでたが……、しかしそんな、お前だってカラシャールだったって、記憶があるんだろう?」
「それも嘘だ。俺は唐澤秋人。ただのしがない学者だ」
「けれど捏造だなんて、そんなのすぐにばれるだろう?俺だって……、いや、俺は……現に気づきもしなかった」
「見つかったこと自体に興奮して、それどころじゃなかったんだろうな。まさしく上高森と同じパターンじゃないか。それに今までバレずに済んだのは、そこの入江教授やら、お偉いさん方がご協力してくださったからだ。すべてはこの計画の為に」
「嘘だろ、まさか、お前も富士噴火を目論んでいたのか?」
動揺が伝わるほど、碓井は狼狽していた。じゃあ俺はいったい何を今まで信じてきたんだ。それに、シャンポリオンがなければ、俺の中にいるルクレティウスはいったい何者なんだ。本当に俺は自分の中に憧れの存在を作り出して、それを勝手に愛していたとでもいうのか。ああ、俺は……その気持ちを利用されたというのか?
「違う!利用されたのは俺も同じだ」
動揺する碓井をなだめるように、唐澤はうずくまる碓井の肩に手を置く。思わずそれを振りほどこうとした碓井だったが、その生白くてひょろっちくて、いまいち頼りにならない友人のその手によってしっかりと掴まれてしまっていた。
「俺は単純にお前の気を引きたかっただけだ。シャンポリオンが見つかればさぞかしお前は喜ぶだろう、それだけの気持だった。お前がルクレティウスにしたことと一緒だよ、碓井」
つかむ手を離さぬまま、唐澤はしゃがみ込み碓井の顔を覗く。何かに怯えたような、けれど旧友の顔を見て、安堵するその表情。少なくともそこにはルクレティウスの影は見えなかった。さて俺は、彼女の呪縛を断ち切ることが出来るだろうか。
いや、断ち切らなければ未来はない。まったく、変な女に引っ掛かりやがって。だが自分もずいぶん昔からそのろくでもない男に引っ掛かってしまっていたので、何とも言えない苦みが胸の中に広がる。類は友を呼ぶとでも?
いや、今はそんな場合じゃない。これから先どうすべきか。少なくとも陽子さんたちには逃げてもらわなければ。唐澤は算段する。彼には策があった。だがそれがうまく成功するかはなんの力も持たないサピエンスの彼にはわからなかったが、残された道はそれしかなかった。
「さあ、入江教授。そろそろ時間だろう、お望み通り兵器は作動させてやる。俺の手で」
「唐澤、正気か?」
そう言い放った声に碓井でさえ驚いた。自分がそこまでして守られるべき人間だとは到底思えなかったし、これ以上彼らを巻き込みたくなかった。たとえルクレティウスが何を望もうとも。彼は必死に自身の中の彼女をなだめるしかできなかった。
「ふむ、まあ計画とは多少異なるがまあいいだろう。テロリストどものうちの一人が手をかけたことには違いがない」
変わらず余裕の表情でうなずく入江。その手に握られた銃は外されることなく碓井に向けられていた。ああ、あの矛先さえずらせれば。
「わかった」
「唐澤先生!?」「唐澤!」「唐澤さん!」
全員が悲鳴を上げて制止させようとする中。
彼の白い左手が、コンソールの中央、その兵器の始動ボタンを静かに押した。
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