1964年の魔法使い

鷲野ユキ

文字の大きさ
11 / 101

1964.8.9 中野 3

しおりを挟む
「お待たせしてごめんなさいね、皆さん」
 玄関のある通路から、上品な女性がやってきた。豊かな黒髪をアップでまとめた、紬の和装姿の女性だった。途端に栄二が席から飛び上がり、矢野と菅野も席から立つと彼女を迎え入れた。
「あら、みんな本当に立派になったわねぇ」
 栄二らに向けられる笑顔は、まさに花がこぼれるようだった。あれから十年が経っているがまるで変わらない。もう五十も近いだろうに、その姿は昔に憧れたその姿と何一つ変わらなかった。
「お久しぶりです、小百合母さん」
 まるで別人かのように栄二が丁寧な態度でおじぎをする。それに倣って、矢野と菅野も頭を下げた。
「母さんだなんて。もうすっかりあなたたちも大人じゃない」
「先ほどそこのツネ婆さんに、図体ばっかり大きくなってと叱られたところですよ」
 あからさまに態度の違う栄二に肩を竦め、ツネ婆が厨房へと姿を消した。忙しい時間だ、彼女も老体に鞭打って、子どもたちへの昼食の準備をするのだろう。
「それより小百合さん、ここを畳むというのは本当なんですか?」
 どうぞと席を勧められたものの、気が急いた菅野が突っ立ったまま小百合に聞いた。
「ええ。本当は私もそんなことはしたくなかったのだけれど、どうしても……」
 そこで小百合はうつむいてしまった。
「……金か?」
 窺うように栄二が声を掛ける。彼の思惑は見事に当たった。
「まあ、有体に言えばそうだわ」
 ため息と共に小百合が返す。「国に打診してみたけれど、ダメだった」
「そんなの、あんまりだ」
 記憶している限り、あまり感情を外に表さない男だったと思う。その菅野が怒りをこらえるように呟いた。
「もとはと言えば、この国の政策が悪かったせいで出来た施設じゃあありませんか、ここは。国は責任を持って子供たちの面倒を見てやるべきだ」
 相変わらず突っ立ったまま、菅野が小百合の目を見据えて訴える。
「私もそう打診して、それでやっと私名義の財産の没収を免除してもらっていたのよ。だけど、もうここにいる子供たちは戦争孤児ではないでしょうって、もうあの頃の子供たちは大人になったんだから、もういいでしょうって。この施設も不要でしょうからって、オリンピック需要の宿泊施設として国が回収してしまうそうなの」
    ドンと拳をテーブルに叩きつけて、矢野が声を荒げた。
「そんな。でも、今ここにいる子供たちだって、好きで孤児になんてなったわけじゃないんだ、それは戦後も今も同じだろ」
「オリンピックが理由なら、何をしてもいいって思ってるんですかね。それじゃあオリンピックも戦争も大して変わらない」
「おいおい怒る気持ちは分かるが、ここで怒鳴り合ったって仕方がないだろ」
 怒る二人に栄二が声を掛ける。無意識にジャケットの内ポケットに手を伸ばし、煙草の包みを出したところを小百合に見咎められる。栄二は慌てて手を引っ込めた。
    どうやら自分も相当イライラしていたらしい。
「そうよ、栄二君の言うとおりだわ。時代の流れには逆らえないもの。大丈夫よ、今いる子たちは私が責任を持って、他に面倒を見てくれるところを探すから」
 小百合はけなげに笑っていたが、はたして受け入れてくれる場所はあるのだろうか。
「そういうわけで、これで最後のお別れよ。けれどここはみんなの家だから、勝手に壊すわけにもいかないでしょう。それでここを出て行った子たちにも声をかけたの。あなたたちみたいにね」
 小百合が三人にほほえんだところで、正午を告げるチャイムが鳴った。
「あのう、三井寮長、そろそろお昼の時間なもんで……」
 申し訳なさそうに声を掛けたのはツネ婆だった。
「テーブルを開けてもらえませんでしょうかねぇ」
「あら、もうそんな時間なのね。腹ペコたちにガマンさせるのはかわいそうだわ。さ、しんみりしてないで早くみんな立ちなさい」
 小百合とツネ婆に追い立てられて食堂を出ると、待ってましたとばかりに子供らがテーブルへと駆け寄る。小さな女の子が転びそうになるのを、中学生くらいの丸坊主の男の子が助けてやる。血のつながった兄弟のはずがないのに、それ以上に近しい間柄に栄二には見えた。ここが無くなってしまったら、彼らはどうなってしまうのだろう。
 玄関先まで小百合に見送られ、「何か力になれるよう頑張ります」と菅野と矢野が別れを告げている。外に出たのでもう遠慮することもなかろうと、栄二は煙草に火をつけた。
「そんなもの吸っちゃって。本当に、皆大人になったのねぇ」
「もう三十近いんだ、いつまでも子供扱いしないでくれよ、小百合母さん」
 ぷかぷかと煙を青空に吐き出して、栄二が苦笑する。
「それを言うなら栄二君、あなたもいつまでも私のことを母さん扱いするのはやめなさい。早くお嫁さんでも捕まえて、偽物の家庭じゃなくて、ちゃんとあなたの家庭を作るのよ」
 微笑む小百合の顔を見つめて、栄二は言った。
「そんなことを言われても……ここが俺の家なんだ。母さんはいつまで経っても俺たちの母さんだろ。偽物も本物もあるかよ。俺は、ここを畳ませなんかさせないからな」
 言い放って、栄二は踵を返した。ここでさよならを小百合に言って、もう会えなくなるのは嫌だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

強面夫の裏の顔は妻以外には見せられません!

ましろ
恋愛
「誰がこんなことをしろと言った?」 それは夫のいる騎士団へ差し入れを届けに行った私への彼からの冷たい言葉。 挙げ句の果てに、 「用が済んだなら早く帰れっ!」 と追い返されてしまいました。 そして夜、屋敷に戻って来た夫は─── ✻ゆるふわ設定です。 気を付けていますが、誤字脱字などがある為、あとからこっそり修正することがあります。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

【完結】子爵令嬢の秘密

りまり
恋愛
私は記憶があるまま転生しました。 転生先は子爵令嬢です。 魔力もそこそこありますので記憶をもとに頑張りたいです。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

処理中です...