1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.8.9 中野 2

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 扉を開くと、「おやおや、まあまあ」と愛嬌のある老婆が出迎えてくれた。前歯が一本欠けたこの婆さんに栄二は見覚えがあった。
「ツネ婆さんか?」
「おや、その憎たらしい声は栄二だね?まったく、今でこそアタシゃババアだけどね、あんたたちがここに来たころは花も恥じらう乙女だったんだよ」
「なにが乙女だ、俺たちが着た頃からツネ婆はツネ婆だっただろ」
 鼻で笑いながら、老婆を指さすのは矢野だった。
「そのえらそうな口の利き方は正志だね、で、ええと……」
 そこまでかつての子供らを特定してきたツネ婆が言葉に詰まる。じっと向けられた視線に困って、ぼさぼさ頭が答えた。
「僕は英紀です。菅野英紀」
「ああ、そうだった、そうだった。いつも机にかじりついてた英紀だね。ダメだねぇ最近物忘れがひどくって。さ、寮長がお待ちだよ、食堂においで」
 一人だけ名前を思い出せなかったのが気まずかったのか、ツネ婆はくるりと背を向けると栄二らを奥の食堂へと案内した。これから子供たちは食事なのだろう、扇風機が生ぬるい空気をかき回している厨房では、おばさんたちが汗だくになりながら昼食の準備をしていた。
「なんだか、お忙しい時間に来てしまってすみません」
 記憶の中のものより小さいテーブルに案内されると、氷の入った水をツネ婆が出してくれた。それに菅野が恐縮して礼を述べる間に、矢野はあっという間にコップの中身を飲み干したくせに文句を垂れる。
「ツネ婆、ケチくさいな。水しか出ないのかよ」
「お前は大人になってもそれじゃあやってけないよ。少しは英紀を見習ったらどうだい」
「そうだぜ。ツネ婆知ってるか?こいつ、電機メーカーで働いてんだぜ」
 まるで自分のことかのように栄二が自慢すると、「おやおや、そりゃあえらいねぇ」と歯の欠けた口を開いてツネ婆が笑った。突然称賛されて、テーブルで身を固くする菅野の姿が見えた。相変わらず相手が誰であろうと、褒められるのは苦手らしい。
「けれどお前もなんだかずいぶんときれいな格好じゃあないか。栄二は何をしてるんだい?」
「俺のことなんかどうでもいいだろ、それより小百合さんはまだなのか?」
 イライラした様子で栄二が胸元のポケットから紺色の煙草の包みを取り出すと、ツネ婆がそれを目ざとく見つけ、栄二の頭をはたいた。
「痛てっ」
「こら、こんなとこで煙草なんて吸わせないからね。まったく図体がデカくなったら、そんな身体に悪いもんになんか手を出して」
「別に変な薬に手を出したわけじゃないんだ、煙草ぐらいいいだろ」
 そう言いながらも煙草をケースにしまうと、代わりに出された水をぐいと飲んだ。
「ああ、確かにコカ・コーラが恋しいな」
 コップの中の水は冷えていて気持ちが良かったが、ひどく味気なかった。
「まあ、ずいぶんいいご身分だこと。あんたたちが普通に今を謳歌できる若者に育ってくれて、寮長もさぞかし喜んでるだろうよ」
「なんだよ、皮肉か?ツネ婆さん」
「とんでもない!寮長は純粋にそう思ってくれるさ」
「ああ、小百合さんならそう思ってくれるだろうさ。ツネ婆とは違ってね。それより小百合さんはどうしたんだ?」
「おやまあ、昔からあんたはずいぶんと寮長が好きだからねぇ、三井寮長はお忙しいんだ。ここを畳む準備に追われていてね」
 しきりに催促する栄二に、ツネ婆がさみしそうに答えた。
「畳むって……やっぱり本当に、ここを閉めてしまうんですか?」
「だからお前たちを呼んだんだろ。やだねぇ、世の中がお祭り騒ぎに湧いているなかで、ひっそりと消えて行くだなんて」
「でも、ここにいる子供たちはどうするんですか?」
 菅野が思わず席を立った時だった。
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