1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.9.20 浅草 4

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 その時だった。にわかに、ザザザ……とさざ波のような音が聞こえた。何事かと真理亜が川の方へ顔を向ける。
ボートでも近づいてきているのかしら、などと呑気に思っていたら、突如として火山のように水が噴き出した。まるで水中で何かが爆発したかのような勢いだった。
「キャアアアっ!」
 突然現れた巨大噴水は、辺りところ構わず水をまき散らかす。近くのベンチで憩いの時間を過ごしていた家族連れやアベックもその餌食になった。慌てて人々が川岸から逃げていく。
そして、それは真理亜たちも例外ではなかった。襲い来る大波から逃れるべく、二人はベンチから飛び上がる。
「今のは一体なんだったの!」
 足の痛いのもなんのその。お気に入りの服が濡れてなるものかと、真理亜は慌てて逃げだした。その後に、一足遅れて菅野がやってきた。全身ずぶぬれで、セットした髪も台無しだ。
水も滴るいい男、と言ってあげたいところだったが、なにせ浴びたのが川の水なので少し生臭い。
「ま、真理亜さん……早いですね」
「菅野さん!ごめんなさい、つい、とっさに足が動いちゃって……」
 高校時代陸上部だったのは伊達ではない。今でも家の敷地内でランニングを欠かさない真理亜は、こう見えて運動神経には自信がある。とはいえ襲い来る水の手から完璧に逃げることはできず、少し濡れてしまった脚が早くも涼しい秋風を浴びて冷えてきてしまった。
「大変、早く乾かさないと、このままじゃ風邪を引いてしまうわ」
「ああ、じゃあ……仕方ない。真理亜さん、ちょっとこっちに」
 一体今のはなんだったのかと騒ぐ人々の間を抜けて、二人は川沿いの公園の隅にやってきた。ブランコや滑り台などの遊具があるそこは、いつもは子供たちの騒ぎ声で包まれているのだが、先ほどの騒ぎを皆見に行ってしまったのか人影もまばらだった。
「ここならいいでしょう」
 そう言って、英紀が真理亜の身体に手を伸ばしてきた。え、ちょっと、こんなところでなにをするっていうのかしら。
 急に人けのないところに連れられて、真理亜はあらぬ想像をしてしまう。もしかして、服を脱げっているのかしら。けれどいくら濡れてるからって、男の人の前で服なんて脱げるわけがないじゃない!
 思わず目を瞑ってしまった真理亜だったが、伸ばされた手が身体に触れる気配もない。
それどころか、なんだかじんわりと暖かくなってきた気がする。恐る恐る目を開くと、疲れた顔で真理亜に向かって手をかざしている菅野の姿があった。
「……菅野さん、何をなさっているの?」
「乾かしているんです。このままじゃ風邪を引いてしまう」
 そう言う英紀の手からは、確かに乾いた暖かい風を感じた。
「これも、『力』なんですの?」
「ええ。空気中の原子をかき混ぜてやれば、そのエネルギーによって空気が暖められるんです」
 じんわりと、手のかざされた場所が暖まっていく。濡れてしまった足元はずいぶんと乾いていた。
「なら私はもう十分ですわ。それより菅野さんの方がずぶぬれじゃない、早く乾かさないと」
「そうしたいのはやまやまなんですが、原子を動かすのってエネルギーがいるんです、もう僕にはそんなエネルギーは……」
 へらり、と返した顔はひどく疲れていた。まさか、ものを乾かすだけでそんなにエネルギーって必要なのかしら。じゃあ、ドライヤーって実はすごい機械なのね。
「それならいいものがあるわ。これをどうぞ。……ものすごく甘いみたいだけれど」
 真理亜はメグに渡されたお守りを思い出した。これを使うことがないといいんですけれど、と渡された激甘のチョコレート。どうやら水に濡れることもなく、菅野の熱風に溶けることもなく、それは真理亜のバッグの中で無事だった。
「ああ、助かります。いただきま……」
 菅野は渡された包みを慌てて開いた。そしてその中身をぽいと口内に放り込んで、しばらくして押し黙ってしまった。いつもは細い目が見開かれ、白黒しているのが見て取れた。
いかにエネルギーが必要とはいえ、味に難アリはどうにもいただけないらしい。すぐに太い眉が八の字になって、苦しげな表情となる。
「……ごちそうさまでした」
「その、まだあるんですけれど」
「いえ、大丈夫です」
 そう返して、菅野は猛烈に手から熱風を出して自分に浴びせかける。ひととおり闇雲に熱風を掛け、濡れた服は乾いたらしい。
 そうして菅野は力なく言った。
「ああ、もうだめだ、真理亜さん、なにか飲み物を……お茶でもしましょう……」
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