1964年の魔法使い

鷲野ユキ

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1964.10.10 開会式 君が代演奏 2

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 演奏が終わり着席すれば、いつの間に置かれたのか、空いたC―85の席に黒いバッグが置かれていて、正志は迷う頭を振り払った。今更後戻りなど出来るものか。ここまで来たら、転がるように駆けていくだけだ。
 けれど懸念されたのは、隣に座るあの女が何者かということだった。もしかしたら、警察の差し金なのかもしれない。正志は躊躇した。単にトイレに並んでいただけかもしれないが、ぎりぎりまで現れなかったのがいかにも怪しい。
 さらにわからないのは、先ほどまで確かに誰かが座っていたはずなのに、突如として生まれた空席だった。C―85より前方の席が一つ空いているのを見つけた正志は仰天してしまった。しかもそこにも黒いバッグが置かれている。正志は、混乱してしまった。
 これは警察の罠なのだろうか。確かに俺は空席に金を置けと言った。何か所か空席が生まれたとしても、そのうちのどれかに置くように指示したはずだ。それがなぜそうなった?
 前方の席も、両隣は女だった。片方はおばさんで、もう片方はポニーテールの若そうな女。一方後方の席は、グラマラスな女と、厳ついオッサンが空席を挟んで座っている。
 本来俺が指定するつもりだった席はC―85、つまり後方の席だ。あの両隣の男と女はいかにも怪しい。警察は、あらかじめ俺がどの席を目指しているのか知っていたのではないか? 
 だとしても、なぜダミーを違う場所に用意する意味がある?必死に正志は考えた。これは、警察の仕業なのか。それとも。
 正志が動くのをためらっている間にも、式は進行していく。各国の選手らがにこやかに手を振りながら入場してきた。それに合わせるようにキラキラと光り輝く花火が打ち上げられ、会場はさらに盛り上がる。
 さあ、俺はどう動けばいい?正志が視線をC―85の席へと戻した。だが戻した視線の先には、あるはずの黒いリュックとグラマラスな女の姿も消えてしまっていた。
「くそ、何なんだ!」
 叫びながら正志は、手前のもう一つの空席へと目をやった。そこには依然として黒いバッグが置かれていた。その隣にいるポニーテールの女の子が、なにやら身を乗り出して空を仰いでいる。その方向を見て正志は納得した。女の子の視線の先には聖火台がある。きっと、ランナーの到着を待ちわびて身を乗り出しただけだろう。だがまだ選手らが入場し始めたばかりだ。ずいぶんと気の早い娘だ、正志は思った。
 あの女の子は関係がなさそうだ、どちらにせよ金の入っていそうなバッグはもう一つしかない。あれをかっさらって、あの隣のお嬢ちゃんには悪いけれど、もし偽物だったらこの会場を火の海にしてやるまでだ――。
 正志は立ち上がった。そして、歓喜に沸く会場の中を移動する。鋭い目つきの男らがこちらを見ているのには気が付いたが、もうなりふり構っている場合ではなかった。
 構うもんか、俺に飛びかかってでも見ろ、この爆弾が火を噴くまでだ。まさかこれだけの人間がいる中でチャカを使うわけにもいくまい。もし撃とうとでもしやがったら、そうだな、あのお嬢ちゃんでも盾に使ってやる。
 人々を押しのけて、正志はバッグの置かれた席へと辿りついた。先まで身をねじって聖火台の方を見ていた女の子が、驚いたようにこちらを見た。青い目だった。
「外人か?」
 とっさに思った言葉は口をついて出ていたらしい。その言葉に女の子が反応したのか、
「あなたは……誰?」
 と怯えの色を瞳に浮かべて後ずさった。
「もしかして、あなたも草加次郎の一味なの?」
 なぜ、コイツがそれを知っている?こいつは無関係の人間なんじゃなかったのか。もしかしたら、これも罠なのか?
 草加の名を聞いた途端、正志の全身に危険を知らせるアラームが鳴り響いた気がした。罠だったのだ。とっさに、正志は荷物から水筒を取り出すと、汗ばんだ手でライターに火を灯した。
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