悪い冗談

鷲野ユキ

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解答編

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「残念ながら、犯人は分かっている」

 うつむく先生がぽそりと漏らした。

「そうでなければよかったのにと、思う結果だ」
「それは、つまり」

 やはり佐伯修二が犯人なのですか。
 その言葉は私の口から出ることはなかった。

「犯人は君だよ、リンドウ君。いや、鷹野君」

 初め、先生が誰のことを指しているのかがわからなかった。
 それほどまでに、人から呼ばれるのは久しぶりだった、本名。

「私、が」

 私の口からは、かすれた声しか出なかった。

「最初から不自然だとは思っていたんだ。いくら気になる遺体があるからって、警察署で働く人間がそれを調べてもらうために、外部の人間にそれを渡したりなどするものだろうか」

「ちょっと待ってください!」安藤が、先生のボサボサ頭を睨んだ。
「先輩が犯人なわけないでしょう!」

 まるで私を守るかのように、安藤が前に飛び出した。

「先輩が遺骨を加賀見さんにわざわざ見せたのは、自殺で片付けるには不自然な点が多すぎたから、それだけです」
「だとしても、仮にも警察署で働く人間が、そんなことをするかね?」
「先輩は真面目で正義感が強いんです。ちょっと私が炊きつけたら、本当に持って行っちゃったんだもの」
「真面目な人間は、つまりは道を踏み外すのが怖い臆病者だよ。そんな大それたことなどしない。死体を持ち歩くなんてね」
「お前、そんなことしたのか?」

 驚いた顔で黒川が私を見ている。小野さんもだ。まさか、という表情。

「ああ。まだ火葬されていない骨など、ひどく重いし臭いだってひどい。そんなものを電車で持ち運ぶ人間を、真面目と形容するには不自然だ」
「でも先生だって、嬉々として私から骨を預かっていたじゃないですか」

 私は今だって忘れない。今でこそ彼が純情で、でも意外に浮気性で臆病な男であることを知ってはいるが、あの時の先生には狂気を覚えたのだ。

「私のことがそう見えたのなら、恐らく君もこちら側の人間なのだろうな」

 そう、先生がにやりと笑ったように見えた。

「自分が正しいと思ったことは譲らず、そのためには、自分自身さえ犠牲にする」

 先生は一度唇を湿らせると、再び言葉を続けた。

「そう、それは確かに正義だ。君の中のそれは認めよう。だが、もうそれにしがみつく必要はないんだ。なぜなら、君こそがそれを手放すことを望んでいたから。さあ、両手を自由にしたまえ。もうそこには、血に濡れた包丁はないのだよ」

 そう言って先生が指さしたのは、台所の方角だった。

「あっちに、何があるって言うんだ?」

 この突如として始まったショーに困惑しながら、佐伯医師が聞く。「千暁を殺したのもこいつなのか?」

 その言葉に、人々がざわめく。

「それについては後で説明しよう。まずは事の発端だ」

 そう言って、先生は後ろ手に手を組んで、居間の中を闊歩する。

「蜂蜜男――いや、結城誠一氏の命を奪ったのは、何らかの刃物によるものだと私は言ったね」
「ええ」

 やはり、彼は自殺ではなかったのだ。そう知った時、私の中で喜びと恐怖がない交ぜになっていた。

「ここでグラヤノトキシンなどという毒素が検出されたばかりに、話は少しややこしくなってしまった。あの毒では人を死に至らしめるのには程遠い。幸か不幸か、これは偶然の産物だ」

 先生は、締め切った窓の外を眺めながら続けた。窓の向こうには、荒れ果てた庭がある。

「わざわざ検死などしなければ、あの遺体はただの自殺体で処理されて終わりだったのだ。だが君はそれを良しとしなかった」
「なんでそんなことを」

 わからない、と言った表情で小野嬢が口を開いた。「スパロウホーク先輩がそんなことをする理由がわかりません」
「そうだぜ、仮に百歩譲って、こいつが犯人だったとしよう」

 納得いかない様子で黒川が言う。「でもそんなの、自首すれば済む話だろ?」
「しかし自首したところで信じてもらえるだろうか」

 睨む黒川の視線を平然と受けながら、先生が答える。

「人を殺して樹海に棄てました。急にこんなつまらない都市伝説を一見真面目な彼が言ったとしたらどうする?私が上司だったら、早退させてとにかく寝ろと勧めるね」

 事実、君は余り元気がなかったようだからな。と先生は付け加えた。

「君の上司が、わざわざプライベートの時間を割いて相談に乗るほどだ。少し調べさせてもらったが、そこまで面倒見がいいタイプでもなさそうだ、君の上司は」

 その言葉に、山梨県警組が一斉に口をつぐんだ。どうやら先生の見解は正解らしい。

「それに、身元不明のままあの遺体を片されては困る理由が君にはあった。君は知りたかったはずだ。誰が、遺体に手を加えたのかを」
「そこまで、お見通しってわけですか」

 私は急に気が楽になって、強張っていた腕の緊張がほどけていくのを感じていた。だが、足は強く畳を踏みしめたままだ。
 これからが本番だ。頭の後ろでささやかれた気がした。
 お前は、こうなることを望んでいたんだろう?

「まさか、本当にお前がやったのか?」「嘘でしょ?」

 黒川刑事と小野さんが、幽霊でも見たような顔でこちらを見ている。その顔に、前に電話で主事に嘘を言ってずる休みをした時の申し訳なさを感じた。

「やっぱり、最初から私を疑っていたんですね」

 ため息とともに言葉が出た。皆が無責任に私を信じる中、彼だけは私のことを信じていなかった。
 彼だけが、私のことをちゃんと見ていた。

「首都高に乗って高井戸方面に向かったのも、全部計算していたんですか?」
「……そうだ」

 やれやれと言ったように先生が肩をすくめる。

「君の家が謎解きにはふさわしくない場所だとは重々承知の上だが、残念ながら、ここに来る必要があったのでな」

 残念そうに彼は言う。それはせっかくの見せ場を台無しにされた気落ちなのか、それとも他の何かなのか。
 後者であってほしい、とおこがましく私は考えた。

「順を追って話そう。まず、樹海近辺で同時に起こった二つの事件だが、そもそも二つの事件は全く性質の異なるものだ」

 今更誰に聞かせるというのだろう。すべてはもう、明らかになっている。
 だが、こうして私の罪を淡々と暴いていく行為は、まるで私の代わりに先生が神への告解を行ってくれているようにも見えた。

「時間軸で言えば、まず木村馨を結城誠一が殺し、そして結城誠一を、鷹野君が殺した。それだけのことだ」
「それだけのことじゃ、何があったかわかりません。木村馨と結城誠一の間で何かがあった事だろうくらいの予想はつきますけど、なんでそこに先輩が関係してくるんですか」

 私を庇うかのように、安藤が先生にたてつく。その姿をありがたいとも、頼もしいとも私は思わなかった。

「安藤君の言うとおり、木村馨と結城誠一の間にはトラブルがあった。当事者が死んでしまった今となってはそれが正解かどうかはわからないが、恐らく恋愛関係のトラブルだ」

 その言葉に、小野嬢がつまらなさそうに言った。「そんな理由?」
「そんな理由と言ってくれるな。愛は古来から非常に強い毒薬なんだ。うまく使えば薬になるが、まあ大抵は失敗する。そして、死を招くことも多い」

 そして胸元に手を伸ばした。恐らくバラの花でも掲げたかったのだろうが、そこには何もないことに顔をしかめて先生は続けた。

「結城誠一は末期の癌患者だった。自分の病気のことを思って、恋人を自分に付きあわせるのを悪いと思ったのかもしれない。だから結城誠一は一方的に木村馨を振った。だがそれに納得しなかった木村馨は、彼を探し出して問い詰める。そして、結果結城誠一は元恋人を手に掛ける羽目になり、自身も死を選ばざるを得なくなった」

そうだろう?と聞かれて、私は言葉を続けた。

「大方、先生が想像した通りだと思います。癌に苦しむ結城誠一が、恋人の足かせとならぬよう、彼女に何も言わずに別れを告げた。けれど木村馨としては裏切られた気分だったでしょう。諦めきれずこっそり結城誠一のことを調べていた彼女は、有栖千暁という美人の主治医の存在に気付いてしまった。この女のせいで、彼は自分と別れることになったのだと思いつめて、木村馨は有栖千暁に嫌がらせをするようになった」

 だが事実、結城誠一は有栖千暁に熱を上げていたのではないか。彼女のログからは、そんな風に感じ取れた。

「その通りだ、全部はアイツが元凶だ。アイツさえいなければ、千暁だって死なずに済んだはずだ」

 声を荒げたのは佐伯医師だった。二人は本当に恋人だったのだろうか。

「なあ、誰が彼女を殺したんだ」
「落ち着きたまえ。それも順を追って説明しよう。残念ながら、死んだ人間は生き返らないのだ。例えあなたがオルフェウスだったとしても」

 先生の言葉に佐伯医師がうなだれた。

「自分のせいで、有栖医師にまで被害が及んでしまった。そのことを悔いて、結城誠一は樹海へと向かったのかもしれない。そう、自ら死ぬために」
「ええ。結城誠一は、首を吊って死ぬつもりでした。包丁なんて持ってきていない。あれは、木村馨が持ってきたものなんです」

  彼は、死に場所を探して彷徨っていたのだ。

「今はそれが、君の家の台所にしまわれている。それも、間違いないかな」
「はい」

 私もつられて台所の方へと目をやった。

「古い調理器具ばかりの中に、新品の包丁。けれど刃先が欠けている。おかしいと思っていた」

やはり処分すべきだった。なに、ガムテープでも刃を巻いて、燃えないゴミの日に棄てれば良かっただけなんだ。

「相手は殺人者でした。自らの命を絶つはずだったロープで、彼女の首を力いっぱい絞めたと言っていました。よくもまあこんな力が残っていたとも。そう言って笑ったんです」

 今ならその時の彼の気持もわかる気がする。
 どうしようもなくなると、人は笑うのだ。

「彼は、罪を死で償いたがっていた。そんな人間に望みどおりに罰を与えるのは、悪いことでしょうか」

 これは、正義ではないのか。
 さらに、人を刺す経験まで出来る。秘かに私は喜びに震えていたのだ。
 ああ、これできっと何かが変わる。

 私はその時のことを思い返しながら話した。興奮からか、声が上ずっているのが自分でもわかった。口角が上がる。

「そうして私は、縄に首を掛ける彼に、とどめを刺した。抵抗できないよう両手両足をガムテープで止めて。無抵抗の人間に、刃を突き立てた」
「嘘、嘘でしょう?」

 私の告白に、安藤が打ちひしがれているのが見えた。
 なるほど、小野さんの言う事は尤もだ。彼女が私を嫌うのも尤もだ。
 安藤は本当に、男を見る目がない。

「彼はこう言っていました。本当は、もっと生きたかったのだと。その言葉が彼と交わした最後の言葉です。彼が息絶えて静かになって、血と尿の臭いであたりが臭くなった頃、私は興奮から覚めて一転、自分は何をしてしまったのだろう、という恐怖に駆られました」

 大丈夫、ここで起こったことはすべて自殺で片付けられる。
 私は慌ててそう自分に言い聞かせた。

「自分の犯行の証拠を掴んで逃げました。氷穴入口側ではなく、反対側の西湖付近の駐車場に車を停めていたんです。もし氷穴側に停めていたら、話は違っていたかもしれない」

  そちら側に駐車していたならば、車のナンバーもバッチリ録画されていて、私はちゃんと殺人者として手配されていただろう。
 だが、猛スピードで走り去る黒のヴィッツの登場によって、事件はややこしいことになってしまった。

「その時に身に着けていた服やバックは庭で燃やしました。明るいところで見たら、血が付いていたから。けれど包丁は燃やせる気がしなくて、仕方なく台所に」
「そこまでが、君の犯行だ」
「はい。けれどその後、あの遺体が何者かによって蜂蜜を塗りたくられていた事にとても驚いたんです。私の他に、あの遺体に誰かが関与している。不安でいてもたってもいられなくなった」
「それじゃあ、木村馨の周りにオリーブオイルやキノコを置いたのは別のヒトだって言うんですか?」

 小野嬢が目を広げて喚いた。「誰がわざわざ、なんでそんなことを」
「恐らく同じことを鷹野君も思ったはずだ。なぜそんなことを?なぜ、遺体がここにあるとわかった?」

 あの時の衝撃は今でも忘れない。
 自分の殺した男の遺体に、なぜだか蜂蜜が掛けられている。
 木村馨にしたってそうだ、彼女は結城誠一が首を絞めて殺したと言っていた。それだけだ、変な細工をしただなんて聞いていなかった。

「だから鷹野君は、自殺だとそのまま結城誠一の遺体を片すことが出来なかった。もう一人、関わっている人間がいる。さらには、そいつは自分の犯行のことを知っているのかもしれない」
「だからわざわざ、あれは自殺じゃないって騒いだんですか?」

 安藤が、もはや何を信じたら良いのかわからないような怯えた目つきをしている。

「そんなことするメリット、ないじゃないですか」

 似たようなセリフを聞いたな。彼女と過ごした休憩時間を思い出す。メリットはあった。誰かが気づいてしまう前に、自分で何とかしようと思った。自分からあの遺体の事件性を訴えて、でもあれはやはり何でもなかったのだと結論付けてしまえばいいと思った。
 だがその歯車が狂ってしまった。

「偽物の木村馨の登場か」

「ええ。あの時、被害者の名前までは私は知らなかった。けれど狭い署内です、氷穴の近くで殺人事件があったという噂は私の耳にも入る。しかも遺体は意味深なアイテムと共に捨て置かれていた。恐らくその被害者が、結城誠一が殺した彼女だろう、というところまでは推測できた。あの男がそこまで手の込んだことをしたのだろうか。それも気になりました。あの慌てようじゃあ、あんなことまでする余裕はなかったんじゃないかと。そう思うと、蜂蜜を塗りたくったのと、オリーブオイルとキノコをばらまいたのは、同一人物ではないかと思ったんです」

「そうなると、わざわざ被害者の名を名乗って現れた彼女こそが、それをした人物なのではないかと君は考えたわけだ」
「ええ。彼女がそんなことをした意味はわかりません。多分、先生が前に言っていたように、贖罪の気持からだったのかもしれません。けれどまさかその被害者の名を堂々と語って、行方不明の恋人を探してほしい、それがあの蜂蜜男かもしれないなどと言われて、私はひどく動揺しました」

 つまり、彼女は私の罪を知っているのではないか、と。

「自分がゲーム内で殺した、だなんて話は、まるっきりの嘘だろうと思っていました。ゲーム内の恋人が蜂蜜を好きだったから、あの遺体がその恋人と同一人物かも、なんて推測、無理があります。最初からあの女は何かを知っていて、そして私に声を掛けたのだと考えた。まさか職場まで特定されているだなんて、冷や水を浴びたような気分でした。だから私は、彼女がどう動くか、彼女の指示するままにゲームにも参加した。けれど本当に、彼女は私が何をしたかは知らないようだった。むしろ彼女は、メリッサを疑っているようだった」

 ただの偶然だったのだろう、そもそも樹海の自殺遺体の身元確認を行う仕事をしているのだ、そうなる確率だってなくはない。
 そう考えて、このままあの遺体はやはりただの自殺だったと結論付けよう、そう考えていた矢先だった。

「まさか本当に、骨だけで検死できる人間とコンタクトを取れるなんて思っていなかったんです」

 安藤にああでもない、こうでもないと憶測をぶつけていたのは、あれはあくまでも私の好奇心から捜査しているだけなのだ、と印象づけるためだけだった。
 警察官ではない私があれこれ喚くほど、本職のやつらは私のたわごとだと、あの遺体から興味を失っていく。笹塚課長だって、あれだけ不自然にもかかわらず、私に手を引くように勧めてきた。

「だが、安藤が知り合いに一人いるという。ここまで騒いでその人に見せないのも不自然かと思って、私は骨を先生に託した」

 けれど、理由はそれだけではなかった。

「そうしてあっという間に、私が考えた筋立てとは違う方向に話が転がって行ってしまった。ならばいっそ、最期まで見届けてやろうと思った。このまま、あれはやっぱりただの自殺でした、で片付けるにはもったいない。そうも考えました」
「もったいない?」

 意味が分からない、と言うように黒川が首を傾げた。

「ええ。そのためには、私の罪が暴かれようとも構わないじゃないか、とも」
「隠そうとしてたんじゃなかったの?」
「最初はそうだった。偽物の木村馨、つまり有栖千暁は、私について何か知っているのではないか。そう怯えました。彼女が私の元に現れたのも、私の罪を追及するためなのだと」
「だから、殺した?」

 先生が、悲しそうな目付きで私のことを見ている。

「最初からそうするつもりはなかった。彼女はメリッサのことを疑っているようだったから、そのままメリッサに私の罪を被せてしまえばいいと思った」
「けれどそれに失敗して、結局彼女の口を塞がざるを得ないことが起こった」

 どうやら先生は千里眼の持ち主でもあるらしい。私は疲れたようにうなずいた。「ええ」

 ここでまた、私の想定を超える出来事が起こってしまった。
 もはや私の手を離れて、物語はどんどん進んでいく。

「有栖千暁を殺したのは、彼女がエーオースであることを知る人物だ」
「ええ」

 そうでなければ、彼女の遺体の脇に鶏肉など置かないはずだ。

「そこには、佐伯医師を犯人に仕立てよう、という意思があったのかもしれない。だがそれはおかしい。君は、まだあの段階では、佐伯医師のことを知らなかったはずだ」

 その言葉に、私は頷きながら答えた。

「彼女を自殺と偽装するのは少々体裁が悪い。今までさんざんそれらしいものが置かれていたというのに、彼女にしてやらないのも不自然に思えたんです。それだけの理由です」
「だがそのおかげで、私には一縷の望みが生まれた。佐伯医師も、エーオースの正体を知る人物だ。犯人は君ではないかもしれない、という希望が。だってそうじゃなければおかしい。あれじゃあまるで、君が自分で自分の首を絞めているようじゃないか」

 痛ましいものを見るかのような目つきで、先生が言う。
 そうだ、先生の言うとおりだ。あの行為は、まさしく自殺行為だ。私は薄く笑った。

「けど、なんで千暁はそんなことをしたんだ?なんで誠一と嫌がらせしてきた女に、蜂蜜だの、キノコだのを置いたんだよ」

 そんなことしなければ結末は違っていたかもしれないのに。佐伯医師が遣りきれない様子で呟いた。

「それには、心当たりがあります」

 私の声が妙に響く。

「彼女も、あれを見たからです。いや、見させられた、のかな」
「あれってなんだよ」
「その心当たりはついている。とりあえずは先に話を進めよう。君は自分を疑っているかもしれない有栖千暁をどうしたんだ?」

 先生に促されて、私はあの時のことを思い出す。

「彼女は、メリッサを探していた。私をゲームに誘ったのもそれが理由でしょう。結城誠一が姿を消して、そして殺されたのには、メリッサが絡んでいると考えた」

 そうは思っても、確証はなかった。そういうフリをして、実は私の凶行を逐一彼女が見ていたとしたら?
 私の中の不安が、悪夢を引き寄せた。

「一体彼女はどこまで私の犯行を知っているのか。不安に思って、メリッサを見つけたと言って呼び出したんです」
「もしかしてそれは、この家にか?」

 そう問う先生の顔には、なぜだか後悔の色が広がっていた。

「ええ」

 だが、それがいけなかったのだ。

「メリッサが蜂蜜をアリスタイオスに売ったのだろう、と言うことは予測がついた。幸か不幸か、私の家の近くには、廃れた養蜂場がある。それをタネに彼女を呼び出して、本当はどこまで知っているのかを確認したかったのです」

 けれど彼女は気づいてしまった。あれの存在に。

「先生が、彼女の姿を見かけない、彼女は失踪したのではないかと考えているときにはすでに、この家の下に眠っていました」

 その言葉に、皆が一斉に恐怖の面持ちで畳を見つめた。

「軒下です」

 十一月下旬から十二月の末までの約一か月間。季節が冬であることに感謝しかなかった。

「だからしきりに、この家の下で虫たちが眠っていると言っていたんだな」
「万一興味本位でのぞかれたら困りますから。ドラム缶みたいに」

 先生に、遺留品を燃やしたドラム缶を見られたときはヒヤヒヤとしたものだった。
 万一遺体を見られたらさすがに後がない。彼が虫を異様に怯えるので、そう言って遠ざけた。

「けれどまさか、有栖医師が実験に携わっているだなんて思いもよらなかった」
「実験?」

 聞き捨てならない、と眉をひそめたのは黒川だった。

「何をしてたって言うんだ?」
「詳しくは、佐伯医師に聞いてください」

 予定外の出来事に翻弄されて疲れた私は、そう返すしかできなかった。
 急に話題を投げかけられて、佐伯医師が大げさな身振りで抵抗した。

「おい、実験だなんてやめてくれ。僕たちは、彼を救うのに必死だったんだ」
「どうだかな。有栖医師のレポートには、どうにも本来はまだヒトでは出来ない段階の治療を行って、良くない結果が出たような内容が書かれていたが」

 そう言って先生がiPadを掲げた。「その結果を、これを隠した人物は君に伝えたかったように思えるのだが。それはなぜかね?」
「それは……」

 一瞬言い澱んだのち、観念したように佐伯医師は唇を開いた。

「たぶん、誰よりも僕が、あの男を助けたかったからだろう」
「助けたい?」 

 どう言う事だろうか。相手は自分の恋人に手を出すようなやつだ。少なくとも佐伯修二は快く思っていなかっただろうに。

「あいつはあれでも僕の兄なんだ。もっとも、母親は違うけどね」

 人々の視線を一斉に受けて、端正な顔に影が落ちる。

 兄?

「アイツが病気になったのをきっかけで、うちに来たんだ。父の愛人の息子だってさ。驚いたよ、まさかこの年で兄が出来るとは思ってなかったから」

 なるほど、だから病院の跡取りのくせに『修二』なのか。エーオースも言っていた。アリスタイオスは、ゼウスの血を受けるものだと。

「けどまあ、今さら兄弟ヅラするのも変だし、他人だと思ってた。けど、なんで父がわざわざあいつを呼び寄せたのか知って驚いたよ」
「一体どんな理由があったって言うんです」

 ついに気になって私は聞いた。

「実験体にするのだと。実の息子なら、何も問題はないだろう。そう父は言ったんだ」
「佐伯院長が?」
「ほんと驚いちゃったよ。ってことはつまり、同じ息子の僕にだってその可能性があるわけだ。今は元気だけど、万一不治の病にでもかかったら、恐らく同じことをされるんだろうって」

 軽いノリで話してはいるが、彼としては衝撃だったろう。無意識にか手を握りしめている。

「そう思った一方、でもこのまま手をこまねいてたってどうせ死ぬんだ、ならば実験が成功すればいいだけじゃないかって」
「もしかしてそれで、有栖医師と親しくなったのかね?」
「きっかけはそうだ。彼女に失敗されちゃたまらないからね」

 けれど、結果は思わしくなかった。

「それもあって、千暁は僕の元から逃げたんだと思ってたんだ。僕は、実験の結果なんてもうどうでも良かったのに。確かに僕の聖書と彼女のiPadが消えてるのは気になったけど。でもまさか、殺されてただなんて」

 切れ長の瞳から涙が零れ落ちる。

「なんでこんなことになったんだ?そうだ、お前が余計なことをしたからじゃないか」

 突然胸倉を掴まれて、私はよろけた。怒る佐伯にされるがままだ。
 このまま物言わぬ人形にでもなれたら、どれだけ楽だろう。

「別にお前がわざわざとどめを刺さなくても、どうせ誠一は死んでたんだ、癌でな。それに、一人で勝手に罪の意識とやらで自殺してただろうよ。だってのにわざわざ樹海なんかに行って余計なことをして勝手に怯えて、なんでまた彼女まで手に掛けたんだ」

 そう叫んで、私を投げつけるように手を離した。そのまま体制を崩して畳に倒れる私の元に駆け寄って、「ちょっと待ってください」と待ったを掛けたのは安藤だった。

「そうですよ、明らかに不自然です。なんで先輩が樹海なんかにいたんです」

 そもそもそれがおかしいんです、と必死な安藤に、静かに先生が声を掛けた。

「鷹野君が、死に場所を探して彷徨っていたとしたら?」
「え?」

 私を見る安藤の目が一瞬怯えた。「そんな、だって、いくらなんでもそこまで」

 先輩が思いつめてただなんて。そう言いきらなかったのは、惚れた弱みなんだろうか。
 誰よりも自分が相手のことを知りたい、独占したい。そんなつまらない気持ちが恋だ。

 恋は盲目、などとよく言うが、その実とても視力がいい。相手の一挙一動足を見ているのが恋だ。有栖医師をつぶさに見ていた先生のように。

 ならば安藤の目は、曇っていたのだろう。

「嘘でしょう、一体、何が先輩をそこまで追い詰めたんです。変なあだ名を付けられたから?そんなの、見返してやればいいじゃない」

 気丈に返す安藤は、そう言えば自分の悪口を言った人間を逐一記録していて、何かあったら訴えるのだと言っていたっけ。

「それもあるかもしれない。スパロウホークとは、つまりハイタカだ。日本では、雀の鷹と書いてツミ。小さい鷹のことを指す。君の名前と、君の背が低いことを掛けてつけられた、嫌なあだ名だ」

 先生の言葉に、私は視線を落とした。

「だが、恐らくそれだけじゃない。君には何か壮大な夢がある。君はその為に、殺人すら良しと考えた」
「夢?」

怪訝そうに安藤が眉を寄せた。「そんなのがあるなら、むしろ頑張って生きようとするはずじゃない」
「それは、本当の夢を持っていない人間のセリフだ。あるいは、挫折などせずに天賦の才のみで成功した人間の吐くセリフだ」

 まるで自分もそうかのように先生が語りだす。

「人間はある程度、生まれによって才能に差異が出る。一部の人間はその才能によって傑出し、一部の人間は努力によって秀で、一部の人間はそれを諦めて平凡な生活を送る。さらに一部の人間は、自分に何かがあると信じつつも、結局は何もなかったことを知り絶望する」
「それが、私だって言うんですか」

 返す私の声は、さぞ力のないものだっただろう。
 天才にそんなことを言われても、嫌味にしか聞こえない。

「君の家に、トナー式のプリンターがあるのに違和感を覚えたんだ。普通、家庭用にプリンターを買うなら、インクジェットのカラーの物を買うだろう。なのにあるのはモノクロばかりを大量に印刷できるプリンターに、うずたかく積み上げられた紙の束。そして、統一性のない本棚。まるで資料棚だ。ご両親が教師だったからだと君は言ったが、しかし法医学書まで持っている学校の先生と言うのは想像しがたい」

先生は一度言葉を区切り、襖を開けた。私の書斎が暴かれる。

「君は、何か物書きを目指していたのではないか」

 そう指摘されて、私はゆっくりと立ち上がった。

「ええ。昔は、ドラマに憧れて刑事を目指していた。けれどこの身長のせいでダメで、仕方がなくそれに近い仕事に就いた。でも、目指していた世界は理想とはかけ離れていて、ならば理想を形にしてみようと、小説を書いては応募した。これでも私は、学生時代ミス研に所属していたんです」
「ミステリー研究会か。確かに、君の本棚には推理小説がたくさんある」
「仲間たちと短い推理物を書いたりもしていたんです。先輩も面白いと言ってくれていた。だから出来ると思った。けれど全然ダメだった」
「だが、そんな挫折は誰しも経験することだ。経験して、そして諦めていく。自分自身に」
「私は自分で自分を諦めたくはなかった。なりたい自分になれると信じていた。でも、それに疲れたんです」

 もう、何もかもが面倒になった。何をしたって報われない。

「本当に死ぬつもりだったのか?」
「今となって思えば、たぶんそんなつもりはなかったのでしょう。樹海に行けば死ねると思って向かったはいいものの、持ってきたロープを木に掛けることもしなかった。というより、ちょうどいい枝がないんですね、あそこ。当てもなく彷徨っていたら疲れてくるし、腹は減るし。暗くなってきて怖くなって、スマホのライトを付けました」

 これから死ぬ人間が、スマホを持ち込んでいる。そのことがすでに矛盾している。いざとなったらそれを使って、助けを求めようと考えている。樹海でGPSが使えないなんて、都市伝説だと知っている。
 あんな俗にまみれた機械を持ち込む段階で、現世に未練たらたらだ。

「そうしたら、今まさに首を吊ろうとしている人間を見つけたんです」
「それが、結城誠一か」
「ええ。とても驚きました。幽霊にでも会ったんじゃないかってくらい。それは向こうも同じみたいでしたけど、私が生きてる人間だと知ってこう話しかけてきたんです」

 どうか、俺を殺してはくれないか。

「こんな時間にこんな場所にいる私のことを、向こうは同士だと思ったのでしょう。どうせ君はこの後自殺でもするんだろう?ならばその前に一つ罪を犯したところで、君を裁く人間はだれもいやしないよ、と」
「それで、お願いされて、自殺しようとしていた人のことを殺したんですか?先輩」

 安藤の黒い目が私を射る。その冷たさを、私は脳裏に刻む。深く息を吸い、口を開いた。

「……ああ、そうだ。すでにその時、私はもう死ぬつもりなどなかった。そんなことより早く、空腹を満たしたかった。しかしこの状況はまたとないチャンスだとも思った」

 あなたの作品には、リアリティがありません。登場人物の心境をもう一度考え直してみてください。

 ふと、選考に落ちた時の寸評が心に浮かんだ。リアリティもクソもあるものか、とその時は思った。ミステリに人物の心境?人なんて殺したことあるわけない。殺すやつの心境なんてわかるもんか。

 いや、わかるかもしれない。

 興奮がうずくのを感じた。死とはなんだろうか。人は死ぬ瞬間、どんな表情を浮かべるのだろう。文面やドラマの中ではよく見る、苦悶の表情。そういうものを浮かべるのだろうか。

「自分の作品に活かせると考えました。よほど不自然な死に方をしていない限り、検死は行われない。私は男の依頼を受けることにしました」

 だが、予想外のことが起こってしまって、私はさらに罪を重ねることになった。

「でも、そうそう都合よく同じ日の同じ時間に、関係者がきれいにそろうものなんでしょうか」

 私の罪の告白に、それでも納得がいかないのか、あるいは信じたくないのか。一縷の望みを掛けるかのように安藤が口を開いた。

「それこそ、これじゃあまるで良くできたお話しですよ。そんな偶然ありますか?」
「そこで鍵となるのが、これだ」

 先生が書斎の本棚に手を伸ばす。そして抜き出したのは、『See a Forest』と書かれた本だった。

「それは!」

 黒川の声が大きくなる。

「なんでそれが、先輩の家にもあるんですか?」

ついに決定的な証拠を突きつけられた犯人のような声だった。その安藤の声には答えずに、先生は『See a Forest』を開いて読み上げる。

「『オリンポスの山の麓、ニュンペーらが住まう場所。アリスタイオスに追われたエウリデュケ、命からがら死の森へ。アトラスがヘリオスを追い越す時、愛しきオルフェウスとの逢瀬は潰える。獅子が乙女を喰らう夜、彼女に死が訪れる』……やはり似ている。聖書に挟まれた暗号とそっくりだ」
「聖書の暗号を作ったのは、有栖医師なんじゃないんですか?」

 そう口では言いながらも、私は確信していた。アレを作ったのは、あの人だ。

「いや、違うな。君はまだ、話していないことがある。そうだろう?」

 先生が私の顔を覗いた。

「この暗号を作ったのは、この本の作者だ。『鷲野由貴』。調べさせてもらったが、こんな名前の著者はいなかった。それもそうだろう、よくできているが、これは出版社から刊行された書籍ではない。いわゆる同人誌と言うものだ。そうだろう?」

 先生が黒川と小野嬢の方を見て聞いた。

「ああ、そうだ。個人で出した本だろうってのはわかってる。だが著者は素人だ、どこの誰かまではまだ――」
「それも見当が付いている。鷲野と由貴。恐らくこの本は二人の手によって作られた」

 二人。そうだ、これは二人で作ったものだ。だというのに、さも自分の作品かのように、あの人は。

「そこで思い出してほしい。ギリシャ神話に妙に詳しい人物がいる」
「アリスタイオス、か?」

 佐伯医師が呟いた。

「その通り。有栖医師のiPadを隠したのは彼だろう。有栖医師の実験を隠したかったのかもしれないし、あるいは君に見つけて欲しかったのかもしれない」
「僕に?」
「君に、同じ道を辿らせないようにするために」

 佐伯修二が、リンゴのマークを見つめた。禁断の果実を手にして、彼はどうするのだろう。

「そして彼の名は、結城誠一。結城をアルファベットで書くとYUKI。そこから取ったのではないか」
「でも、鷲野って言うのは?」小野が首を傾げながら聞いた。
「これが、君のペンネームだろう?鷹野君」

 先生に指摘されて、私はゆっくりと息を吐く。

「自分の名前をもじって付けたんだろう?一般的に、タカ科の小さいものを鷹、大きいものを鷲と呼ぶことが多い。これは君のコンプレックスが産んだペンネームだ。君は、結城誠一のことを知っていた。恐らく彼は、ミス研の先輩だ。違うか?」

 そう問われて、私はゆるくうなずくしかできなかった。

「……結城と鷹野が、同じ大学のサークルに所属していた、というところまで警察は掴んだ」

 黒川が目を落として言った。「偽物の木村馨の件についてもそうだ、お前は何かを知っている。そう思って、安藤にここに連れてきてもらったんだ」
「そうです、私は結城誠一のことを知っていた」

 そうだ、私は忘れなかった。例え治療によって、まるでミノタウロスのごとく顔が腫れあがっていたとしても、見間違うことはなかった。

「この本の内容自体は、まあ至って普通の話だ。むしろメインは謎解きで、ヒントは至る所にちりばめられている」

 先生が再び私の本に目を落とし、書かれた文字を読み上げる。

「『オリンポスの山の麓、ニュンペーらが住まう場所』この暗号がきっかけで、私もずいぶんギリシャ神話には詳しくなったものだよ」

 先生が得意げに言った。

「ニュンペーと言うのは、森の精霊のことだ。『アリスタイオスに追われたエウリデュケ、命からがら死の森へ』ここにも重複して森と言う言葉が語られている。『アトラスがヘリオスを追い越す時、愛しきオルフェウスとの逢瀬は潰える。』アトラスとは地球、ヘリオスは太陽のことを指す。地球が太陽を追い越す。何か思いつかないかい?」

 先生が皆を見回す。まるで学校の先生のようだ。そこへおずおずと、佐伯医師が手を挙げた。

「もしかして、うるう年のことか?」
「ご名答」

 先生は満足げにうなずいた。「地球は365日かけて太陽の周りを一周する。けれどこれは厳密に言うと365.2422日ほどかかっているんだ。そのオーバーした日にちを補うために、うるう年と言うのが設けられている」

 小野が呟いた。「それってつまり、今年のこと?」
「そのとおり。そして、『獅子が乙女を喰らう夜、彼女に死が訪れる』これはもう簡単だ。ギリシャ神話で獅子に乙女とくれば」
「ああ、星座か?」

 黒川が顎に手を当てて答える。「俺はおとめ座なんだ」
「その通り。しし座は八月二十二日で終わり、おとめ座は八月二十三日から始まる。つまり、八月二十三日の午前零時付近で、これらの事件は起こった」
「でも場所は?」

 小野嬢が疑問の声を挟んだ。「この時間に、一体どこに行けばいいんです」
「これも簡単だ。繰り返される森、そのイメージは死の森だ。そしてオリンポスの山の麓。まだヒントはあるぞ、この本のタイトルだ。おかしいと思わないか?『See a Forest』だなんて。aの使い方がまったくおかしい」
「確かに……」
「これはアナグラムだ。言葉を並び替えると、別の意味が現れるというやつだ。入れ替えてみると、こんな単語が出てくる、『Sea of Trees』」
「樹海、か」

 黒川がうなずいた。

「オリンポス山ってのは、富士山を指してるのか」
「そうだ。君は自分の死ぬ場所と時において、この作品に思い当たった。時に自分の作家としての可能性にくじけていた頃だ。過去の作品に導かれてもおかしくはない。一方死の淵に面した結城誠一にとっても、この作品は思い入れのあるものだったのだろう。なにせ、恋人や担当医に配るほどだ。よほど気に入っていたのではないか」

 そうだ、この本によって、私は先輩と久しぶりに邂逅を遂げたのだ。だというのに。

「なるほど、それを持ってた木村馨と有栖医師はこの暗号の意味に気が付いて、結城誠一を追った、と言うわけですね」

 納得したように小野がうなずく。

「ああ。結城誠一は混濁する意識の中で、『森』と連呼していた。これと関連付けて、現場の特定をするのは容易かっただろう。なにしろ、ギリシャ神話のうんちくをさんざん聞かされてうんざりしていたようだからな、彼女は」
「有栖医師がオリーブオイルを持っていたのは、恐らくそれがこの話のなかで、誘拐された恋人を救うのに必要なアイテムだったからでしょう」

 自分で書いた話だ、嫌と言うほど内容はよく覚えている。

「結局この暗号は誘拐された恋人自身が作ったもので、実際は誘拐されたんじゃなくて、自分から失踪して樹海で死ぬつもりだったんです。彼は病に身を蝕まれていて、それを苦に死ぬつもりだった」
「まるで、結城誠一そのものじゃないか」
「ええ。まさか彼も、自分が物語の登場人物と同じ道を辿ることになるとは思ってもなかったでしょう」

 なんという皮肉だろう。

「でも、もし残した恋人がこの暗号を解いて、そして病を治す薬――これこそが、神話の中でアリスタイオスが用いた万能薬です、それを持って自分のもとにたどり着いてくれたならば生きようと彼は考えた」

 恐らく、結城誠一もそう考えたはずだ。だが現実は物語通りにはいかなかった。

「恋人を探す主人公は探偵の力を借りて無事樹海にたどり着くのですが、肝心のオリーブオイルを忘れてしまった。結果、恋人は死んでしまう。有栖医師は万能薬を持ってきたものの、間に合わなかった。せめてもの慰みに、結城誠一には彼の持ってきていた蜂蜜――アンブロシアをかけてやり、そして木村馨には同じくアンブロシアを意味するキノコと、アリスタイオスの秘薬をかけてやった」
「でも、それで火をつけるなんてあんまりじゃない?」

 小野嬢が口を挟む。

「浄化の炎だ。炎はヒトの英知も表す。プロメテウスが自身の命と引き換えに、我々に与えてくれたものだ。彼女の魂を、天に返してやりたかったんじゃないのかね」

 先生が補足した。そうだ、炎はすべての穢れを消してくれる。けれど、私はふと考える。

 先生の言うとおり、本当に有栖医師のこの行為は鎮魂の為だったのだろうか。
 結果、結城誠一は遺体を獣に食い荒らされ、木村馨は黒焦げだ。彼女は何を思ってそんなことをしたのだろう。
 だがそれを聞く機会は、私が永遠に奪ってしまった。

 そこで、急に思いついたかのように小野が早口でまくし立てた。

「もしかして、有栖医師がこの家に呼ばれて、これを見つけてしまった?」
「そのとおりです」

 小野の言葉に、私は首を縦に振った。

「彼女は気づいてしまった。アリスタイオスを、結城誠一を殺したのはメリッサではなく私だと」

 結城誠一の行方を示す本。それを持っている私。当然彼女は疑問に思う。目の前の男は、何か知っているのではないか。いや、こいつこそが、彼を手に掛けた犯人なのではないか――。

「慌てた私は、彼女を手に掛けた。家から逃げようとする彼女を追って、慌てて掴んだ炬燵のコードで首を絞めた」

 こんな本、早く捨ててしまえばよかったのだ。だというのに、それが出来なかった。
 もはや顔を向ける気力もないのか、安藤がゆっくりと口を開いた。

「それじゃあ、先輩は自分の大学時代の先輩を手に掛けた、ってことですか?」
「そうなる」
「それって、あんまりじゃないですか。なんで罪を償うように説得しなかったんです」
「彼は、私のことなど覚えていなかった」

 私はぽつりと呟いた。「覚えていなかったんです」

 それが、きっかけだった。

「だが、あの時の誠一の意識はだいぶ混乱していたはずだ。麻薬を投与されてるってのに、よく自力で樹海までたどり着いたと、驚きしかない」

 佐伯医師が弁明する。「だからきっと、元恋人も手に掛けた。あいつはいけ好かない色男だったけど、そんなやつには見えなかった」

 私だって、先輩が殺人者になるだなんて思っていなかった。そして、それを追うように自分もそうなるだなんて。

「今となっては、そんな理由があったのだとは分かります。確かに、あの時のユキ先輩は異常だった。見た目もだし、言動も。しかも、恋人を殺しただなんて、冗談かと思った」

 うつろな目で、唯一形となった、私の著書を見つめた。

「でも、私も死のうと思ってわざわざ樹海に来たんです。今思えば、私も充分におかしかった。殺してくれと頼まれて、しかもその相手は自分の大学時代の先輩で、人を殺めたと言ってるんです。警察か病院に行くよう薦めたでしょう、普通は。でも、悔しかった。『See a Forest』の暗号を考えたのは確かにユキ先輩でしたが、それ以外は俺が書いたんだ。だってのに、俺のことを忘れてるだなんて」

「それで、言われるままに殺したのか」
「ええ。私が、確かにこの手で殺しました。結城誠一も、有栖千暁も」

 カタカタと風でガラス戸が揺れる音が聞こえる。これだけの人がいるというのに、それ以外の物音は聞こえなかった。外から、鈍い冬の日差しが入ってくる。

 しばらくして、安藤のすすり声が聞こえた。くそ、と壁を叩く黒川刑事の声。小野さんのため息に、佐伯医師の白衣の衣擦れの音。そして、先生の声。

「私の捜査方法として、まずは相手に好意を持つことから始めている。前にそう言ったね?」

 そう言う先生の声は、ひどく優しかった。

「有栖医師もそうだが、実に君は好ましい相手だったのだよ」

 かがみこんで、彼が私に目線を合わせた。その優しさに嬉しいような、悔しいような気持を覚えて、私は顔を上げた。

「それだけに、ひどく残念だ。君とは良い友人になれたと思っていたのに」

 先生が手を差し伸べてきたので、私はそれを力なく握った。先生の手は暖かくて乾いていた。

「君がこの件から学んだのは、あくまでも犯人の心境だけだ。それじゃあ面白い話は書けないだろう。なぜなら物語の主役は犯人でも被害者でもなく、探偵だからだ」

 そう言って、思いのほか強い力で手を握られた。痛みを覚える。これは先生の怒りなのだろうか。彼を裏切ったことに対する。

「でも、いい参考になりました。加賀見先生、いつかあなたを主役にした話を書きたいと思います」
「ふむ、それはいい心がけだ」

 呟いて、先生は手を離した。
 最後に彼は、私に背を向けて言った。

「君の好きな花はリンドウだったな」
「ええ。初秋の頃には、あの庭にいっぱいに咲きます」
「アンブロシアも」
「まさか、あんな害草に、そんな意味があるだなんて思ってもみませんでしたよ」

 樹海に生えたあの草は、恐らく私が持ち込んだのだろう。私も、彼の永遠を秘かに祈っていたとでもいうのだろうか。自分が手に掛けたというのに。

 先生が、ガラガラと引き戸を開けた。ガラス越しには鈍かった光が、鋭く目を突いてくる。まるで私を断罪するゼウスの雷のようだ。眩しさで目を細める私とは対照的に、彼は荒れた私の庭をしっかりと見据えて言った。

「春先には、黄レンゲツツジも咲くのかい?」
「ええ」

 私の庭先に現れるミツバチ。すぐ近くの経営不振の養蜂所。そして、毒を有するツツジの花。むろん、私が植えたものではない。園芸種を、母が買ってきて植えたものだ。

「君は知っていたのか?」
「まさか。こんな偶然、あるわけないじゃないですか」

 だが、すべては信じられないほどの偶然の連鎖によって起こった出来事だった。
 小さな小石が転がり出して、やがて大岩を動かし甚大な災害を及ぼしたかのように。それが私の人生だった。
 私の存在とは、一体なんだったのだろう。私など、最初からいなければ。

「だがそうと知らずに君は多くの罪を犯してしまった。君は、罪を暴いて欲しかったんじゃないのか?」

 その言葉に、私はいったいどのような顔をしたのだろう。自分でもわからなかった。

 これでようやく、〈審判の洪水〉が私の世界にもたらされた。デウカリオンは、私を方舟に乗せることは決してないだろう。
 私は、鉄の時代を見ることもない。
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