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第三章
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あの子は、あの状態でよく眠れたのかしら。
翌日、聡子は病室を訪れた。穏やかな夕方。今日も寂しげな陽が差していた。
いつも通りノックをすると、「どうぞ」と落ち着いた声が聞こえてきた。
「こんにちは、刑事さん」
「こんにちは。……気分はどう?」
そう問いかけたのは、彼の顔が精彩を欠いていたからだ。当たり前といえば当たり前か。
むしろ今までの、妙に元気な姿の方が不自然だったのだ。
「正直、あんまり……。俺海外なんて行ったことないんですけど、なんだかまるで時差ボケしてるみたい」
「それは、そうかもね」
「大丈夫です、俺。今は夕方の16時過ぎですよね。12時――深夜じゃなくて、正午。病院の人がご飯を持ってきてくれました。なんで俺、あれをいつものまかないと勘違いしてたんだろう。山郷店長の作る料理の方が断然美味しいのに」
「あら、そんなこと言ったらここの給食センターの人が悲しむわよ」
「だって、ほんとですもん。こんな薄い味付け、食べた気になれませんよ。身体にはいいんでしょうけど」
確かに彼の言う通り、彼は大丈夫そうであった。時間の感覚も戻っている。けれど眠そうではあった。まさに今まで昼夜逆転していた時差ボケのせいなのか、単に色々なことがあって眠れなかったのか。
「あれから俺、考えたんです。なんで俺、姉が勇者に殺されたなんて思ったのか。刑事さんの言う通りですよね、なんで姉がそんな目に遭わなくちゃいけないのか。姉はただの被害者なのに、なんで俺はそんなこと考えたんだろうって」
「そう……それで、あまり眠れなかったのね。眠そうな顔をしてるわ」
「俺だって、何度考えてもわからないし、疲れたし早く寝たいって思ったんだ。きっとすべてが悪い夢で、もう一度覚めたらすべてなかったことになってるんだって」
そこで彼は、手元にある渋い青色のハンカチを握りしめた。彼の親切な友人が貸してくれた青いハンカチ。それを後生大事に握りしめながら、彼はこう続けた。
「けれど俺、怖くって。そうやってまた眠ってしまったら、また俺は偽物の日常に逃げ込んでしまうんじゃないかって。そんなこと繰り返してたら、ずっと姉を殺した犯人を捕まえることができないんでしょう?俺はなにかを見たはずなんだ。勇者と間違えた誰かを。そしてそいつが犯人なんだ」
そこまで喋りきって、慧はついに耐えきれず大きく欠伸をした。
目尻から涙が流れる。生理的反応。
ああ俺は、姉のことをなかったこととして、ろくに涙も流していなかったような気がする。
けれど死を悼む、その行為すらなんだか慧には憚られて仕方がなかった。
なぜだかは自分でもわからない。なんだってこう、自分で自分のことがこうもわからないのだろう。
慧はひどくもどかしい。まるで、勇者に『お前のことを知っている』と言われた時のような居心地の悪さ。
お前は一体俺の何を知ってるって言うんだ。俺はお前のことなど、一ミリたりとも知らないのに。
「あまり根を詰めすぎるのもよくないわ。考えても思い出せないのは、そこに何かしらの精神的なストッパーが掛かっているからなのかもしれない。それなら無理に思い出せるわけないでしょう。逆に、無理に思い出そうとすればするほど、そのストッパーは重くなる」
「じゃあ、俺はどうしたらいいんですか?」
「そうね……。慧くん、身体は大丈夫?」
この突然の切り返しに、慧は驚きつつもこう答えた。
「え、ええ、まあ。別に怪我したわけでも病気なわけでもありませんし。けどしばらく寝てばっかりだったから、ちょっと体力落ちてるかも」
「じゃあリハビリがてらちょうどいいかもしれないわね。こんないい天気だもの。気分転換に外に出てみない?」
「外、ですか?俺出てもいいんですか?だって今の俺は精神異常者なんでしょう?」
「そんな。ここは狂人を閉じ込める檻じゃないわよ。治療・回復のために来るところ。ここは病院なのだから」
それに、今はまだ、彼は自由が許されている。この限られた時間に何とかしなければ。
「そうなんですか。じゃあ俺、学校に行きたいです。河野に〈勇者〉について聞きたいし……ほら、昨日の刑事さんが言ってたじゃないですか。〈真の勇者〉が出てくるゲームが、クラスで流行ってたんじゃないかって。あいつ、ゲーム好きだし詳しいはずだから」
学校に行きたいんです。
それは予想の範囲内ではあった。家と学校、バイト先。そのくらいしか彼の寄る場所はないのだから。
けれどそのどの場所も、行くべきではないだろうと聡子は判断していた。
先日訪れた立川市立北高校。彼が犯人じゃないかと疑う教員に、やたらと憐れむ生徒ら、そしてバチあたりの穢れ者は追い出せと騒ぐ保護者ら。
バイト先だって似たようなものだろうし、下手に家に帰っても、ご近所さんに見つかりでもすれば再び根も葉もない噂話が返り咲くだけだ。
やっぱりあの子がおねえさんを殺したんじゃない?そうに決まってる。前もそういう事件あったでしょう?二人暮らしの兄妹の、妹をバラバラにしちゃった事件。それと似たようなものじゃない、怖いわぁ。
「学校は、ここからだとちょっと遠いの。いきなり遠出じゃ疲れちゃうでしょう。だからそうね……電話とか、メールとかはどうかしら」
「そうか、遠いんですか」
明らかに彼は落胆したようだった。ごめんね慧くん。行けない距離ではないけれど、無理に行く場所でもないの。
「でも電話ったって、俺ケータイどこやったんだろう。さすがに電話番号、覚えてませんし」
「ああごめんね、ケータイ返してもらったから。このままあなたには返せないんだけど、一時的に使うならって。ほら」
そう言って聡子はスマートフォンを彼の目の前に差し出した。スマホの機種には詳しくないが、ずいぶんと年季の入ったそれは古い型のようだった。
「それで連絡してみたら?ああ、ここではダメよ。待合室か、外でね。で、それから少し散歩しましょう」
そう言って彼女は慧の手を取った。
久しぶりの外だ。
確かに俺はずっと、あの部屋にとじこめられていたのだろう。
なのに学校やバイト先に行っていたと――ましてあの何もない部屋が、自分のあの家だとまで思い込んでいたとは。
我ながら、想像力、いやこの場合妄想力だろう、が甚だしい。
ここはどこの病院なのだろう。手がかりを求めきょろきょろとあたりを見まわしながら、外に出るため彼らは待合室を通った。
そこにはマスクをした老若男女で溢れていた。彼らは受診を待っているのだろうか、それとも薬が出されるのを待っているのかよくわからなかったが、それはよくある総合病院の風景のようだった。
なにも精神病患者ばかりを押し込めたところではなく、普通の病院のようだった。その事実に慧は安心する。
暇潰しのためだろうか、大きなテレビが備え付けられており、そこに座る彼らは虚ろな目付きでそれを見つめていた。
速報……ニュース、……。ひどく絞ったボリュームだった。
字幕が出ていたのかもしれない。けれど通りすがりの慧たちには、その内容までは分からなかった。速報なんて、またどこかで地震でも起きたのだろうか。大丈夫?心配だけど、けれど所詮どこか遠くで起きてる出来事。
外に出れば大きなロータリー。タクシーが数台停まっていた。
あれに乗れば、俺は日常に戻れるのだろうか。
ふとそんな考えが慧の頭をよぎる。案外、こっちが嘘かもしれないじゃないか。学校では河野や何事もなかったかのように迎え入れてくれて、家に帰れば茜姉が。
いややめよう、そんなこと考えたって無駄だ。俺は受け入れなければならないのだ。大丈夫、前だって勇者なんてバカみたいな存在を受け入れられたではないか。
あれ、勇者はいなかったんだっけ。ダメださすがにまだ本調子じゃあない。そもそもタクシーに乗る金も持ってないって言うのに。
そういえば、ここの入院費って誰が払ってくれるんだろ。
そんなことを考えている間に、聡子に手を引かれるまま歩いているとちょっとした庭に出た。
昼ドラにでも出そうな場所だ。不慮の事故で歩けなくなった車イスのヒロインを、その家族や恋人が押して歩くようなきれいな小道が広がっている。
けれど現実にはそんな空想の人物はおらず、いるのは慧と聡子の二人ぐらいだった。
花の種類には詳しくない慧であるが、それでもあの花は分かる。棘があって赤い花。バラだ。
けれどバラがこんな寒い時期に咲くとは知らなかった。花なんて、ひまわり以外はみんな春に咲くものじゃないのか。
そのバラたちが、誰の目に留まるでもないのに見事に咲き誇っていた。
見るものの評価など関係ない、私は自分で自分が美しいことを知っている。そんな傲慢ささえもって、二人を出迎えるでもなくツンと咲いていた。
「ああじゃあ、刑事さん。俺ちょっと河野に連絡してみます」
その美しさを愛でるもなく、木にとまる小鳥のさえずりを聞くでもなく、慧はすぐそばのベンチに腰掛けながらそう言った。
そんなに急がなくっても。これじゃあ気分転換の意味がないじゃない。
聡子はそうも思ったが、だが気を急いているのは彼女も同じなのでそのまま無言でうなずいた。
なんだか久しぶりに触るなぁ、ケータイ。慧は久しぶりに持つその機械を、袖口で拭きながらそう思う。
てっきりなければ今の若者らしく、禁断症状でも出そうなものなのに。
けれどそれが手元にないことに違和感すら覚えなかった。確かにあまり使っていなかったような気もする。
一応今のこの世の中、スマホぐらい持ってないと浮くだろうから買ってあげる、とこれをくれたのは姉だった。
大丈夫、一番安い機種の、一番低い料金プランのやつだから。調子にのってネット使うとすぐ通信規制かかるから気を付けな。エロサイトばっか見るんじゃないわよ。なんて言いながら。
そうだそれで俺は、その言いつけを忠実に守ってきた。
いやもちろん河野じゃあるまいし、エロサイトなんて見てやしない。授業で必要なことをちょっと調べるくらいだ。あと、バイト先とのやりとり。それとメール。
そうだ、俺がこんな目に遭っている間に、みんなはどうしてただろうか。俺のことを心配して、連絡を寄越してはいないだろうか。
そう思ってメールフォルダを開いてみたものの、最近ではバイト先の鈴木さんから来ていたくらいだった。
風邪大丈夫?明日はこれますか?
心配しているようで、単に翌日の出勤の有無を確認するだけの事務的なメール。
ああ、きっと警察に回収されてる間、電池切れでもして受信できなかったのだろう。けれどなぜ警察が、俺の私物を回収などしているのか。俺は被害者の遺族なのに。
それに。メールフォルダを眺めながら慧は訝しがる。いくら学校で毎日会うからって、少しくらい河野や田中からメールが来てたっておかしくないのに。
フォルダに残されていたのは、姉とバイト先からのものがほとんどで、彼らからのものがなかった。もちろん送信フォルダもだ。あれ俺、メール送らなかったっけ?
もしかしたら警察が何かしたのかしら。不信感が慧の中に沸いてくる。そうだ、俺は無条件に刑事だからってこの人を信用してしまっているけれど、けれどなぜ被害者遺族の俺にここまでこの刑事が関係してくるのだろう。
俺がなにかを知っているから?けれどこんな記憶の曖昧な俺をどうにかしようとするよりは、現場に残された遺留品を精査に調べた方がいいのではないか。
現代の科学技術ではどうにもならないほど、あの事件は複雑なものなのだろうか。なにも密室殺人というわけでもないのだし、現場に残されたDNAとかやらで、犯人が特定できるでしょう?
だが、そう思ったところで今の俺にはなにもできないのだ。
せいぜい、この刑事の言う通り、俺の見た勇者なる誰かを特定することぐらいしか。おそらくそれが分かるまで、俺はここから出してもらえないのだろう。
まいったな。入院費、警察が払ってくれるんですよね。
電話帳を開き、河野の電話番号を選択する。履歴から察するに、電話するのは初めてな気がする。メールと違って相手の都合を考えない電話は嫌いだ。よほど急でもない限り。
けれど今は急用だ。なにせ犯人逮捕がかかってるのだから。
けれど慧の期待に反して、何コールと鳴らしても一向に河野が出ない。
ああ、そうだ今は授業中なのかもしれない。そう思って刑事さんに話したところ「あら、もう放課後のはずなんだけど」と返されてしまった。
「もしかしたら塾にでも行ってるのかしら」
そうなのだろうか。確かに河野は親に塾に行かせられていたが、学校終わりで即行くほど熱心だったろうか。
じゃあ田中を、と思いこちらにかけるも留守番電話のアナウンス。
だめだ、けれど他にあてもないので再び河野にかけてみる。十数回のコールのあと、ようやく電話の主が出てくれた。
「あ、河野?」
「……どちらさまでしょうか」
けれどようやく出た電話の主は、ひどく冷たい印象であった。
なんだよ、俺の番号登録してるんだから、俺からの電話ってすぐわかるはずじゃんか。
「村上だけど」
「……村上?ああ、なにか?」
てっきり、お前大丈夫か、心配したんだぞと言われるものだと思っていた慧は、この反応に落胆してしまった。
なんだよ。俺たち親友じゃなかったのかよ。
それともなんだ、やっぱり塾なのかな。着いたばかりなのか、それとも今はちょうど休憩時間なのか?ならば少し機嫌が悪いのかもしれない。限られた休み時間。疲れた脳を休ませたいんだ。そういやテストの期間、休憩の度に言ってたような気もする。
「ああ、忙しいところ悪い。あのさ、〈真の勇者〉が主人公のゲームって知ってる?公務員で、警視庁勇者課に所属してるっていう」
「はぁ?なにそれ。知らないけど」
返ってきたのはやはり冷たい反応だった。
いや、俺だってバカバカしいこと聞いてるって思ってるよ?なんだよ勇者課って。
けれどもう一人の刑事さんが、そういうゲームがクラスで流行ってたのかも、なんて言い出すから。
「用はそれだけ?」
一刻も早くこの電話を切りたい。そんな河野の思いが電波を通じて届けられているようだ。
「あっもう一個。ハンカチ借りっぱなしでごめん。必ず返すから」
これだけは伝えとかなければ。まるで借りパクしたみたいになってしまう。
俺だって早く返そうと思ったんだ、けれどあんなことがあったから。
だが返ってきたのは意外な一言であった。
「ハンカチ?俺がお前にハンカチを貸したって?なにか勘違いしてるんじゃないか。ああ悪い、もう切るから」ツーツーツー。
そこでついに回線は切られてしまった。
なんだよ、なんだよあの反応。
憤る慧を、心配そうに聡子が覗いてくる。
「大丈夫?どうだった?」
「なんか、忙しいみたいで。とりあえず、そんなゲームはないみたい」
まさか親友に冷たくあしらわれたとも言えず、慧はそう濁しながらケータイを彼女に手渡す。
この子ほんとは友達なんかいないんじゃないの。そんなこと思われるのも癪だった。
大丈夫、俺は普通だ。たくさんいる訳じゃあないけれど、でもボッチでもないんだ。学校でだって、バイト先でだって、今までうまくやって来たのだから。
「そうかぁ。やっぱりゲームじゃなかったか」
そんな慧の狼狽は聡子には伝わらずに済んだらしい。がっかりしたような、けれどホッともしたような声でそう言った。
ゲームのせいで。そんな陳腐で下らない理由が消えたのは個人的には清々した。ゲームに感化されて、その都度なにか事件が起こったらたまったものじゃない。
まして彼はこうも言っていたではないか。俺ゲームは詳しくないんですけど。
けれど振り出しに戻ってしまった。
何がそう見えたのかしら。一か八か、捜査線上に上がっている、姉の不倫相手を彼に見せてみようかしら。慧くんが見たのは彼かもしれない。それが一番可能性が高いのだし。
けれどその姿はただのおじさんだ。会社役員なのだから偉いのだろう。とはいえただのスーツ姿だし、兜も盾も身に付けていない。刀は持ってるらしいけど、それにしたってちぐはぐだ。
だって普通、刀を持ってるだけで勇者って思う?
まだ武士だとか、落武者がいたんですって言うなら分かるけど。
「じゃあ慧くん、この人に見覚えある?」
だが他に打つ手もない。聡子はしかたなしに、もう一人の容疑者の写真を彼に見せた。
ああでも、お姉さんの不倫相手なのって言わない方がいいかしら。彼はどこまで知っているのだろう、姉の異性関係を。
「……誰ですか?このおじさん。特に見覚えはないですけど」
返ってきた反応はひどく薄かった。彼が勇者と間違えたのは不倫相手ではなかったのか。では犯人は他にいるのか、それとも彼自身が犯人だと言うのか。いや、そうは思えない。
彼はなにも見ていないのか。だがそれでは説明がつかない。それとも、本当にただの妄言なのか?
「この人は、容疑者。事件当時のアリバイがない。けれど決定的証拠がない」
「この人が姉を?なんだってこんなおじさんが、姉を殺したって思われてるんですか?」
どうやら彼は知らないらしい。そこで聡子は少し悩んでから、こう言うに留めておいた。
「どうやらこの人は、あなたのお姉さんと付き合ってたようなの」
「え、このおじさんが茜姉のカレシだって言うんですか!?」
ええ、信じられない。慧は思わず絶句してしまった。姉に年上趣味なんてあったのだろうか。
カレシの存在は知っていたが、せいぜい職場の同僚か後輩かと慧は思っていた。
あのサバサバ感が年下に受けるのかな。そんな風に漠然と思っていたのだが、まさかこんな。
驚きに写真を凝視する彼は、あることに気がついてしまった。スーツ姿の男性の上半身の写真。椅子に腰掛け、両手を組んだ偉そうな、いけ好かないポーズ。
なんだって姉はこんなやつと。ムラムラと漠然とした怒りが沸いてくる。その嫌みなやつが組んだ手に、指輪が光っているのを見つけてしまった。写真だから反転してるのか。ならばこれは左指だ。
「もしかして、姉は不倫してたんですか」
「え?なんで」
私そんなこと言ってない――内心慌てる聡子に、「でもこれ」と慧が落ち着いた様子で写真を指差す。
ああ、しまった。だめだわ、これじゃあ刑事失格だわ。いや、刑事なんかじゃないんだけど。
「ええ、その……そうね、仕事でこの人に助けてもらって、それからそういう関係になったらしいわ。けれど、お姉さんがその関係をやめたいとこの人に言ったらしくて」
なるほど、それでこの人が容疑者として上がっているのか。慧は納得がいった。
そうだこんなやつ、別れた方が正解だ。姉にはひどく不釣り合いな感じがした。だって歳だって、だいぶ離れてるだろうし。
ならばあの事件の前、姉を見た最後の日だ。ベロンベロンに酔っぱらっていたのは、こいつとなにかあったからなのだろう。
「じゃあ、こいつが犯人に決まってる」
感情のまま、慧はそう言い放った。
「なら……あなたが見た勇者はこの人?」
「それは……わからない。でも、きっと俺はなにか勘違いしてるんだ。だって勇者なんて誰も知らなかったんだし。河野だってそんなの知らないって。ニュースで俺が聞いたのも幻聴だろ。だってこんなとこにぶちこまれるくらい、俺の頭はおかしいんだ。きっと姉が殺されたショックでうわ言を言ったんだ。そう考えた方が自然じゃないですか。犯人はこいつだ」
気がつけば大分声を荒げてしまったらしい。
どこかの病室から、誰かが中庭を覗いているのと目が合った。
やだ、なんかおかしいのが外で叫んでるんだけど。
その目がそう言っているように慧には見えた。
違うんだ、俺は大丈夫。ただショックなことがまたあったから、ちょっと混乱してしまって。
また?ああそうだ、俺は親も殺されてたんだっけ。こんなバカみたいな話。なぜ俺にばかり降りかかるんだろう。俺が何をしたって言うんだ、悪いのはこの男なんだろ、俺から最後の家族を奪った憎むべきやつは。
こいつも、アイツみたいに死刑になればいいんだ。アイツみたいに――。
「慧くん、落ち着いて!」
手を握りしめ、見上げるようにして彼を見ているものがいる。
ああ、これは刑事さんだ。悪いやつを捕まえてくれる正義の味方。
そこでようやく慧は冷静さを取り戻してきた。俺は何をしているんだ。こんなに他人に心配かけてしまって、だめじゃないか。
「すみません……」
そう謝りながら、彼はそのまま崩れるようにベンチに腰かけた。
手は繋がれたままだった。
大丈夫、逃げやしないよ刑事さん。けれどその手は案外に冷えていて、とたんに彼は心配になってきた。風邪でも引かないといいんだけど――。
「すみません、ちょっと、色々思い出してしまって」
「いろいろ?」
「ええ。……たぶん犯人はその人ですよ。だって動機があるでしょう。振られた腹いせ。けれどあんまりですよね、あそこまでするなんて。こいつのアリバイを崩したり、証拠を見つけるのは警察の仕事じゃないですか。俺の妄言なんて、真に受けることないのに。だから俺になんて構ってないで、頑張ってください、刑事さん」
「けれど、勇者は」
「言い出した俺がわからないものが、刑事さんにわかるはずないじゃないですか。それより、もう戻りましょう。少し冷えてきたようだから」
しまった、焦りすぎたかしら。
もう一人の容疑者が犯人だ。そう言いきれないから、警察はあなたを疑っているのに。
あなたが実際何を見て、どうしてそうなってしまったか説明がつかなければ、おそらくあなたには本当の意味での日常はやってこないのに。
そう思う聡子を置いて、彼はのそのそと自室へと戻っていってしまった。
大丈夫です、一人で戻れます。俺は大丈夫ですから。
そうして、陽の翳ったバラの園には、聡子だけが取り残された。
翌日、聡子は病室を訪れた。穏やかな夕方。今日も寂しげな陽が差していた。
いつも通りノックをすると、「どうぞ」と落ち着いた声が聞こえてきた。
「こんにちは、刑事さん」
「こんにちは。……気分はどう?」
そう問いかけたのは、彼の顔が精彩を欠いていたからだ。当たり前といえば当たり前か。
むしろ今までの、妙に元気な姿の方が不自然だったのだ。
「正直、あんまり……。俺海外なんて行ったことないんですけど、なんだかまるで時差ボケしてるみたい」
「それは、そうかもね」
「大丈夫です、俺。今は夕方の16時過ぎですよね。12時――深夜じゃなくて、正午。病院の人がご飯を持ってきてくれました。なんで俺、あれをいつものまかないと勘違いしてたんだろう。山郷店長の作る料理の方が断然美味しいのに」
「あら、そんなこと言ったらここの給食センターの人が悲しむわよ」
「だって、ほんとですもん。こんな薄い味付け、食べた気になれませんよ。身体にはいいんでしょうけど」
確かに彼の言う通り、彼は大丈夫そうであった。時間の感覚も戻っている。けれど眠そうではあった。まさに今まで昼夜逆転していた時差ボケのせいなのか、単に色々なことがあって眠れなかったのか。
「あれから俺、考えたんです。なんで俺、姉が勇者に殺されたなんて思ったのか。刑事さんの言う通りですよね、なんで姉がそんな目に遭わなくちゃいけないのか。姉はただの被害者なのに、なんで俺はそんなこと考えたんだろうって」
「そう……それで、あまり眠れなかったのね。眠そうな顔をしてるわ」
「俺だって、何度考えてもわからないし、疲れたし早く寝たいって思ったんだ。きっとすべてが悪い夢で、もう一度覚めたらすべてなかったことになってるんだって」
そこで彼は、手元にある渋い青色のハンカチを握りしめた。彼の親切な友人が貸してくれた青いハンカチ。それを後生大事に握りしめながら、彼はこう続けた。
「けれど俺、怖くって。そうやってまた眠ってしまったら、また俺は偽物の日常に逃げ込んでしまうんじゃないかって。そんなこと繰り返してたら、ずっと姉を殺した犯人を捕まえることができないんでしょう?俺はなにかを見たはずなんだ。勇者と間違えた誰かを。そしてそいつが犯人なんだ」
そこまで喋りきって、慧はついに耐えきれず大きく欠伸をした。
目尻から涙が流れる。生理的反応。
ああ俺は、姉のことをなかったこととして、ろくに涙も流していなかったような気がする。
けれど死を悼む、その行為すらなんだか慧には憚られて仕方がなかった。
なぜだかは自分でもわからない。なんだってこう、自分で自分のことがこうもわからないのだろう。
慧はひどくもどかしい。まるで、勇者に『お前のことを知っている』と言われた時のような居心地の悪さ。
お前は一体俺の何を知ってるって言うんだ。俺はお前のことなど、一ミリたりとも知らないのに。
「あまり根を詰めすぎるのもよくないわ。考えても思い出せないのは、そこに何かしらの精神的なストッパーが掛かっているからなのかもしれない。それなら無理に思い出せるわけないでしょう。逆に、無理に思い出そうとすればするほど、そのストッパーは重くなる」
「じゃあ、俺はどうしたらいいんですか?」
「そうね……。慧くん、身体は大丈夫?」
この突然の切り返しに、慧は驚きつつもこう答えた。
「え、ええ、まあ。別に怪我したわけでも病気なわけでもありませんし。けどしばらく寝てばっかりだったから、ちょっと体力落ちてるかも」
「じゃあリハビリがてらちょうどいいかもしれないわね。こんないい天気だもの。気分転換に外に出てみない?」
「外、ですか?俺出てもいいんですか?だって今の俺は精神異常者なんでしょう?」
「そんな。ここは狂人を閉じ込める檻じゃないわよ。治療・回復のために来るところ。ここは病院なのだから」
それに、今はまだ、彼は自由が許されている。この限られた時間に何とかしなければ。
「そうなんですか。じゃあ俺、学校に行きたいです。河野に〈勇者〉について聞きたいし……ほら、昨日の刑事さんが言ってたじゃないですか。〈真の勇者〉が出てくるゲームが、クラスで流行ってたんじゃないかって。あいつ、ゲーム好きだし詳しいはずだから」
学校に行きたいんです。
それは予想の範囲内ではあった。家と学校、バイト先。そのくらいしか彼の寄る場所はないのだから。
けれどそのどの場所も、行くべきではないだろうと聡子は判断していた。
先日訪れた立川市立北高校。彼が犯人じゃないかと疑う教員に、やたらと憐れむ生徒ら、そしてバチあたりの穢れ者は追い出せと騒ぐ保護者ら。
バイト先だって似たようなものだろうし、下手に家に帰っても、ご近所さんに見つかりでもすれば再び根も葉もない噂話が返り咲くだけだ。
やっぱりあの子がおねえさんを殺したんじゃない?そうに決まってる。前もそういう事件あったでしょう?二人暮らしの兄妹の、妹をバラバラにしちゃった事件。それと似たようなものじゃない、怖いわぁ。
「学校は、ここからだとちょっと遠いの。いきなり遠出じゃ疲れちゃうでしょう。だからそうね……電話とか、メールとかはどうかしら」
「そうか、遠いんですか」
明らかに彼は落胆したようだった。ごめんね慧くん。行けない距離ではないけれど、無理に行く場所でもないの。
「でも電話ったって、俺ケータイどこやったんだろう。さすがに電話番号、覚えてませんし」
「ああごめんね、ケータイ返してもらったから。このままあなたには返せないんだけど、一時的に使うならって。ほら」
そう言って聡子はスマートフォンを彼の目の前に差し出した。スマホの機種には詳しくないが、ずいぶんと年季の入ったそれは古い型のようだった。
「それで連絡してみたら?ああ、ここではダメよ。待合室か、外でね。で、それから少し散歩しましょう」
そう言って彼女は慧の手を取った。
久しぶりの外だ。
確かに俺はずっと、あの部屋にとじこめられていたのだろう。
なのに学校やバイト先に行っていたと――ましてあの何もない部屋が、自分のあの家だとまで思い込んでいたとは。
我ながら、想像力、いやこの場合妄想力だろう、が甚だしい。
ここはどこの病院なのだろう。手がかりを求めきょろきょろとあたりを見まわしながら、外に出るため彼らは待合室を通った。
そこにはマスクをした老若男女で溢れていた。彼らは受診を待っているのだろうか、それとも薬が出されるのを待っているのかよくわからなかったが、それはよくある総合病院の風景のようだった。
なにも精神病患者ばかりを押し込めたところではなく、普通の病院のようだった。その事実に慧は安心する。
暇潰しのためだろうか、大きなテレビが備え付けられており、そこに座る彼らは虚ろな目付きでそれを見つめていた。
速報……ニュース、……。ひどく絞ったボリュームだった。
字幕が出ていたのかもしれない。けれど通りすがりの慧たちには、その内容までは分からなかった。速報なんて、またどこかで地震でも起きたのだろうか。大丈夫?心配だけど、けれど所詮どこか遠くで起きてる出来事。
外に出れば大きなロータリー。タクシーが数台停まっていた。
あれに乗れば、俺は日常に戻れるのだろうか。
ふとそんな考えが慧の頭をよぎる。案外、こっちが嘘かもしれないじゃないか。学校では河野や何事もなかったかのように迎え入れてくれて、家に帰れば茜姉が。
いややめよう、そんなこと考えたって無駄だ。俺は受け入れなければならないのだ。大丈夫、前だって勇者なんてバカみたいな存在を受け入れられたではないか。
あれ、勇者はいなかったんだっけ。ダメださすがにまだ本調子じゃあない。そもそもタクシーに乗る金も持ってないって言うのに。
そういえば、ここの入院費って誰が払ってくれるんだろ。
そんなことを考えている間に、聡子に手を引かれるまま歩いているとちょっとした庭に出た。
昼ドラにでも出そうな場所だ。不慮の事故で歩けなくなった車イスのヒロインを、その家族や恋人が押して歩くようなきれいな小道が広がっている。
けれど現実にはそんな空想の人物はおらず、いるのは慧と聡子の二人ぐらいだった。
花の種類には詳しくない慧であるが、それでもあの花は分かる。棘があって赤い花。バラだ。
けれどバラがこんな寒い時期に咲くとは知らなかった。花なんて、ひまわり以外はみんな春に咲くものじゃないのか。
そのバラたちが、誰の目に留まるでもないのに見事に咲き誇っていた。
見るものの評価など関係ない、私は自分で自分が美しいことを知っている。そんな傲慢ささえもって、二人を出迎えるでもなくツンと咲いていた。
「ああじゃあ、刑事さん。俺ちょっと河野に連絡してみます」
その美しさを愛でるもなく、木にとまる小鳥のさえずりを聞くでもなく、慧はすぐそばのベンチに腰掛けながらそう言った。
そんなに急がなくっても。これじゃあ気分転換の意味がないじゃない。
聡子はそうも思ったが、だが気を急いているのは彼女も同じなのでそのまま無言でうなずいた。
なんだか久しぶりに触るなぁ、ケータイ。慧は久しぶりに持つその機械を、袖口で拭きながらそう思う。
てっきりなければ今の若者らしく、禁断症状でも出そうなものなのに。
けれどそれが手元にないことに違和感すら覚えなかった。確かにあまり使っていなかったような気もする。
一応今のこの世の中、スマホぐらい持ってないと浮くだろうから買ってあげる、とこれをくれたのは姉だった。
大丈夫、一番安い機種の、一番低い料金プランのやつだから。調子にのってネット使うとすぐ通信規制かかるから気を付けな。エロサイトばっか見るんじゃないわよ。なんて言いながら。
そうだそれで俺は、その言いつけを忠実に守ってきた。
いやもちろん河野じゃあるまいし、エロサイトなんて見てやしない。授業で必要なことをちょっと調べるくらいだ。あと、バイト先とのやりとり。それとメール。
そうだ、俺がこんな目に遭っている間に、みんなはどうしてただろうか。俺のことを心配して、連絡を寄越してはいないだろうか。
そう思ってメールフォルダを開いてみたものの、最近ではバイト先の鈴木さんから来ていたくらいだった。
風邪大丈夫?明日はこれますか?
心配しているようで、単に翌日の出勤の有無を確認するだけの事務的なメール。
ああ、きっと警察に回収されてる間、電池切れでもして受信できなかったのだろう。けれどなぜ警察が、俺の私物を回収などしているのか。俺は被害者の遺族なのに。
それに。メールフォルダを眺めながら慧は訝しがる。いくら学校で毎日会うからって、少しくらい河野や田中からメールが来てたっておかしくないのに。
フォルダに残されていたのは、姉とバイト先からのものがほとんどで、彼らからのものがなかった。もちろん送信フォルダもだ。あれ俺、メール送らなかったっけ?
もしかしたら警察が何かしたのかしら。不信感が慧の中に沸いてくる。そうだ、俺は無条件に刑事だからってこの人を信用してしまっているけれど、けれどなぜ被害者遺族の俺にここまでこの刑事が関係してくるのだろう。
俺がなにかを知っているから?けれどこんな記憶の曖昧な俺をどうにかしようとするよりは、現場に残された遺留品を精査に調べた方がいいのではないか。
現代の科学技術ではどうにもならないほど、あの事件は複雑なものなのだろうか。なにも密室殺人というわけでもないのだし、現場に残されたDNAとかやらで、犯人が特定できるでしょう?
だが、そう思ったところで今の俺にはなにもできないのだ。
せいぜい、この刑事の言う通り、俺の見た勇者なる誰かを特定することぐらいしか。おそらくそれが分かるまで、俺はここから出してもらえないのだろう。
まいったな。入院費、警察が払ってくれるんですよね。
電話帳を開き、河野の電話番号を選択する。履歴から察するに、電話するのは初めてな気がする。メールと違って相手の都合を考えない電話は嫌いだ。よほど急でもない限り。
けれど今は急用だ。なにせ犯人逮捕がかかってるのだから。
けれど慧の期待に反して、何コールと鳴らしても一向に河野が出ない。
ああ、そうだ今は授業中なのかもしれない。そう思って刑事さんに話したところ「あら、もう放課後のはずなんだけど」と返されてしまった。
「もしかしたら塾にでも行ってるのかしら」
そうなのだろうか。確かに河野は親に塾に行かせられていたが、学校終わりで即行くほど熱心だったろうか。
じゃあ田中を、と思いこちらにかけるも留守番電話のアナウンス。
だめだ、けれど他にあてもないので再び河野にかけてみる。十数回のコールのあと、ようやく電話の主が出てくれた。
「あ、河野?」
「……どちらさまでしょうか」
けれどようやく出た電話の主は、ひどく冷たい印象であった。
なんだよ、俺の番号登録してるんだから、俺からの電話ってすぐわかるはずじゃんか。
「村上だけど」
「……村上?ああ、なにか?」
てっきり、お前大丈夫か、心配したんだぞと言われるものだと思っていた慧は、この反応に落胆してしまった。
なんだよ。俺たち親友じゃなかったのかよ。
それともなんだ、やっぱり塾なのかな。着いたばかりなのか、それとも今はちょうど休憩時間なのか?ならば少し機嫌が悪いのかもしれない。限られた休み時間。疲れた脳を休ませたいんだ。そういやテストの期間、休憩の度に言ってたような気もする。
「ああ、忙しいところ悪い。あのさ、〈真の勇者〉が主人公のゲームって知ってる?公務員で、警視庁勇者課に所属してるっていう」
「はぁ?なにそれ。知らないけど」
返ってきたのはやはり冷たい反応だった。
いや、俺だってバカバカしいこと聞いてるって思ってるよ?なんだよ勇者課って。
けれどもう一人の刑事さんが、そういうゲームがクラスで流行ってたのかも、なんて言い出すから。
「用はそれだけ?」
一刻も早くこの電話を切りたい。そんな河野の思いが電波を通じて届けられているようだ。
「あっもう一個。ハンカチ借りっぱなしでごめん。必ず返すから」
これだけは伝えとかなければ。まるで借りパクしたみたいになってしまう。
俺だって早く返そうと思ったんだ、けれどあんなことがあったから。
だが返ってきたのは意外な一言であった。
「ハンカチ?俺がお前にハンカチを貸したって?なにか勘違いしてるんじゃないか。ああ悪い、もう切るから」ツーツーツー。
そこでついに回線は切られてしまった。
なんだよ、なんだよあの反応。
憤る慧を、心配そうに聡子が覗いてくる。
「大丈夫?どうだった?」
「なんか、忙しいみたいで。とりあえず、そんなゲームはないみたい」
まさか親友に冷たくあしらわれたとも言えず、慧はそう濁しながらケータイを彼女に手渡す。
この子ほんとは友達なんかいないんじゃないの。そんなこと思われるのも癪だった。
大丈夫、俺は普通だ。たくさんいる訳じゃあないけれど、でもボッチでもないんだ。学校でだって、バイト先でだって、今までうまくやって来たのだから。
「そうかぁ。やっぱりゲームじゃなかったか」
そんな慧の狼狽は聡子には伝わらずに済んだらしい。がっかりしたような、けれどホッともしたような声でそう言った。
ゲームのせいで。そんな陳腐で下らない理由が消えたのは個人的には清々した。ゲームに感化されて、その都度なにか事件が起こったらたまったものじゃない。
まして彼はこうも言っていたではないか。俺ゲームは詳しくないんですけど。
けれど振り出しに戻ってしまった。
何がそう見えたのかしら。一か八か、捜査線上に上がっている、姉の不倫相手を彼に見せてみようかしら。慧くんが見たのは彼かもしれない。それが一番可能性が高いのだし。
けれどその姿はただのおじさんだ。会社役員なのだから偉いのだろう。とはいえただのスーツ姿だし、兜も盾も身に付けていない。刀は持ってるらしいけど、それにしたってちぐはぐだ。
だって普通、刀を持ってるだけで勇者って思う?
まだ武士だとか、落武者がいたんですって言うなら分かるけど。
「じゃあ慧くん、この人に見覚えある?」
だが他に打つ手もない。聡子はしかたなしに、もう一人の容疑者の写真を彼に見せた。
ああでも、お姉さんの不倫相手なのって言わない方がいいかしら。彼はどこまで知っているのだろう、姉の異性関係を。
「……誰ですか?このおじさん。特に見覚えはないですけど」
返ってきた反応はひどく薄かった。彼が勇者と間違えたのは不倫相手ではなかったのか。では犯人は他にいるのか、それとも彼自身が犯人だと言うのか。いや、そうは思えない。
彼はなにも見ていないのか。だがそれでは説明がつかない。それとも、本当にただの妄言なのか?
「この人は、容疑者。事件当時のアリバイがない。けれど決定的証拠がない」
「この人が姉を?なんだってこんなおじさんが、姉を殺したって思われてるんですか?」
どうやら彼は知らないらしい。そこで聡子は少し悩んでから、こう言うに留めておいた。
「どうやらこの人は、あなたのお姉さんと付き合ってたようなの」
「え、このおじさんが茜姉のカレシだって言うんですか!?」
ええ、信じられない。慧は思わず絶句してしまった。姉に年上趣味なんてあったのだろうか。
カレシの存在は知っていたが、せいぜい職場の同僚か後輩かと慧は思っていた。
あのサバサバ感が年下に受けるのかな。そんな風に漠然と思っていたのだが、まさかこんな。
驚きに写真を凝視する彼は、あることに気がついてしまった。スーツ姿の男性の上半身の写真。椅子に腰掛け、両手を組んだ偉そうな、いけ好かないポーズ。
なんだって姉はこんなやつと。ムラムラと漠然とした怒りが沸いてくる。その嫌みなやつが組んだ手に、指輪が光っているのを見つけてしまった。写真だから反転してるのか。ならばこれは左指だ。
「もしかして、姉は不倫してたんですか」
「え?なんで」
私そんなこと言ってない――内心慌てる聡子に、「でもこれ」と慧が落ち着いた様子で写真を指差す。
ああ、しまった。だめだわ、これじゃあ刑事失格だわ。いや、刑事なんかじゃないんだけど。
「ええ、その……そうね、仕事でこの人に助けてもらって、それからそういう関係になったらしいわ。けれど、お姉さんがその関係をやめたいとこの人に言ったらしくて」
なるほど、それでこの人が容疑者として上がっているのか。慧は納得がいった。
そうだこんなやつ、別れた方が正解だ。姉にはひどく不釣り合いな感じがした。だって歳だって、だいぶ離れてるだろうし。
ならばあの事件の前、姉を見た最後の日だ。ベロンベロンに酔っぱらっていたのは、こいつとなにかあったからなのだろう。
「じゃあ、こいつが犯人に決まってる」
感情のまま、慧はそう言い放った。
「なら……あなたが見た勇者はこの人?」
「それは……わからない。でも、きっと俺はなにか勘違いしてるんだ。だって勇者なんて誰も知らなかったんだし。河野だってそんなの知らないって。ニュースで俺が聞いたのも幻聴だろ。だってこんなとこにぶちこまれるくらい、俺の頭はおかしいんだ。きっと姉が殺されたショックでうわ言を言ったんだ。そう考えた方が自然じゃないですか。犯人はこいつだ」
気がつけば大分声を荒げてしまったらしい。
どこかの病室から、誰かが中庭を覗いているのと目が合った。
やだ、なんかおかしいのが外で叫んでるんだけど。
その目がそう言っているように慧には見えた。
違うんだ、俺は大丈夫。ただショックなことがまたあったから、ちょっと混乱してしまって。
また?ああそうだ、俺は親も殺されてたんだっけ。こんなバカみたいな話。なぜ俺にばかり降りかかるんだろう。俺が何をしたって言うんだ、悪いのはこの男なんだろ、俺から最後の家族を奪った憎むべきやつは。
こいつも、アイツみたいに死刑になればいいんだ。アイツみたいに――。
「慧くん、落ち着いて!」
手を握りしめ、見上げるようにして彼を見ているものがいる。
ああ、これは刑事さんだ。悪いやつを捕まえてくれる正義の味方。
そこでようやく慧は冷静さを取り戻してきた。俺は何をしているんだ。こんなに他人に心配かけてしまって、だめじゃないか。
「すみません……」
そう謝りながら、彼はそのまま崩れるようにベンチに腰かけた。
手は繋がれたままだった。
大丈夫、逃げやしないよ刑事さん。けれどその手は案外に冷えていて、とたんに彼は心配になってきた。風邪でも引かないといいんだけど――。
「すみません、ちょっと、色々思い出してしまって」
「いろいろ?」
「ええ。……たぶん犯人はその人ですよ。だって動機があるでしょう。振られた腹いせ。けれどあんまりですよね、あそこまでするなんて。こいつのアリバイを崩したり、証拠を見つけるのは警察の仕事じゃないですか。俺の妄言なんて、真に受けることないのに。だから俺になんて構ってないで、頑張ってください、刑事さん」
「けれど、勇者は」
「言い出した俺がわからないものが、刑事さんにわかるはずないじゃないですか。それより、もう戻りましょう。少し冷えてきたようだから」
しまった、焦りすぎたかしら。
もう一人の容疑者が犯人だ。そう言いきれないから、警察はあなたを疑っているのに。
あなたが実際何を見て、どうしてそうなってしまったか説明がつかなければ、おそらくあなたには本当の意味での日常はやってこないのに。
そう思う聡子を置いて、彼はのそのそと自室へと戻っていってしまった。
大丈夫です、一人で戻れます。俺は大丈夫ですから。
そうして、陽の翳ったバラの園には、聡子だけが取り残された。
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