偽りの勇者

鷲野ユキ

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第四章

1

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相変わらず時を止めたままの時計。その下に置かれたテレビ。
古いリノリウムの床にはところどころ不自然にくすんだ箇所が見受けられるし、少し黄ばんだ白い壁には黒ずんだ彼女の痕跡が残っていた。
ああ、これは現実だ。ようやく俺は帰ってきたんだ。
「戻りづらいとは思うけれど、あなたにはあなたの人生があるのだから」
そう言う聡子に連れられて、彼は帰ってきた。世の中からすれば事件現場、けれども彼にとっては唯一の家に。
「これであなたは晴れて自由の身よ。警察は田嶋修一をお姉さん殺しの犯人として告訴した。動機もある、凶器も見つかった、そしてアリバイはない。すべての状況が、彼が犯人であることを証拠付けている。あなたはもう何も怯える必要はないし、守られる必要もない」
「守られる?」
何かをごまかすかのように、やたらと饒舌に喋る聡子の横顔を見つめながら慧は不思議に思い聞き返した。
「病院に隔離される必要もないでしょう。あなたの無実は証明されたのだから。あなたは田嶋修一という偽りの勇者、その実逆恨みに燃えた殺人鬼に怯えて精神を病んでいたのだから。もう彼から逃げて、偽物の日常を過ごすこともない。これからは本当の日常を過ごすべきだわ。その方がきっと心にもいい」
「そうですか……」
刑事さんが言っていた、10年前の死刑囚の弟。田嶋修一。彼が本当に犯人だったというのだろうか。本当に?
それに。ああそうか、俺は疑われていたんだ。だから刑事が俺のところに。俺に思い出せとしきりに急かしてきたのは、犯行を認めさせるためだったのかもしれない。それが結局別に犯人がいたものだから、この刑事は少し気まずいのかもしれないな。
あなたがやったんでしょう、居もしない勇者なんかのせいにして。思い出しなさい、なぜ勇者なんて言い出したの?本当はあなたがやったんじゃないの?
それにしたってなんで俺が茜姉を殺すなんてことしなきゃいけないんだ。するわけないだろう、誰よりも悲しんでいるのは俺なのに。
『彼らにはそれを行う動機も必然性も見つけられません』
そうだよ。この人の言う通りだろ。この人?時おり記憶に現れる誰か。
「でも。お金は?俺、一人で暮らしていけるんでしょうか」
病院から出られるのは嬉しい。学校やバイト先。みんなどうしているだろう。河野が冷たかったのも、俺のことを犯人だと思っていたからなのかもしれない。
けれど俺は無実だ。濡れ衣を着せられていただけなんだ。それがわかればそう、そうだよな村上、疑って悪かったなって迎え入れてくれるに決まってる。
けれど金は?生活するには金がいる。ヒトであるために守らなければならないルール。何かをするには金がいる。生きるためには金がいる。そして、金を稼ぐために生きていかなければならない。
「被害者遺族であるあなたには、国からある程度の補償金が支払われる。それと、お姉さんの残したお金が」
「姉が?」
初耳だった。なんだよ、今月厳しいんだよなって言ってたじゃんか。
「けっこう頑張って貯金していたみたい。相続税がかかってしまうから全額とはいかないけれど、それでも高校卒業までは十分足りると思うわ」
「なんでそんなに……。そんなにあるんだったら、ケチケチしないでコートのひとつや二つ我慢しないで買えばよかったのに。
「おそらく、あなたの学費のつもりだったんじゃないかしら」
そのために不本意な不倫までして。その言葉は喉の奥にしまって、聡子は続ける。
「大学進学のために」
「大学?そんな、俺は別にそんなつもりは」
「でも進学校なんでしょう?あなたの高校」
「そうですけど、でも別に。ただ近かったから選んだだけなのに、そんな」
なんでこの学校受けたの?近かったから。ふーん。そうやり取りした友人の憮然とした表情が目に浮かぶ。
俺なんかわざわざ遠くから、いい大学に進むためにここに通ってるっていうのに。こいつはそんな理由で来ているのか。ただ近いから。へえ。その表情はそう言っているようだった。
「けれど大学進学までは……そうね、あなたの努力次第になってしまうかも。でもそれでも行きたければ、奨学金制度もある。おそらくあなたの立場なら、無利子で貸してもらえることになると思う。もうこれからは過去に捕らわれないで、あなた自身の未来を歩んでいけばいいの」
過去に捕らわれないで。そんなことできるだろうか。姉の、あんな姿を見た後で。慧は考える。
それに勇者は田嶋修一でした、だなんて。じゃあレイプ犯を殺したのも、木村聖を殺したのはそいつなのか?そうじゃなきゃおかしいだろ。
「じゃあ刑事さん。公園でレイプ犯を殺したのも、木村聖を殺したのもその田嶋修一という人なんですか?」
「それは……」
再び聡子は声を濁した。
「レイプ犯の方はわからない。でもおそらく、田嶋修一ではない」
「え?」
「現場から去ったその誰かは、背の高い人物。けれど田嶋修一は私より背が低い」
確かに、俺が見た勇者は、この目の前の刑事さんなどより背が高かったはずだ。少なくとも俺と同じか、それ以上かには。
「じゃあ、誰が」
「わからない。木村聖は同じ学校の生徒らの犯行だった。単に、名前が似ていたというだけ。これは全くの偶然よ」
「ならなぜ田嶋修一が姉を?」
「田嶋修一が、あなたたち姉弟を恨んでたのは事実。現に、あなたたちの住む家も把握して、近くの八王子市に住んでいた」
「じゃあ俺らは、田嶋修一に監視されてたってこと?」
「その可能性は十二分にある。これからの公判で明らかになると思うけれど」
「田嶋修一は、犯行を認めているんですか?」
「いえ、否認しているみたい。けれど証拠は揃っているもの。アイツが犯人で決まりよ」
さとしくん、おれじゃあない、おれじゃあない……。
必死に否定する声が聞こえた気がした。でもあんた以外誰がするっていうんだ。そうだ、田嶋修一も。なぜ俺たちをこんな目に遭わせた?俺たちは何も悪くないというのに……。
「慧くん?」
「いえ……すみません。大丈夫です。じゃあ俺が見た勇者は何者だったんでしょう」
「たぶん、事件のショックで記憶が混乱したのよ。バラバラ事件と〈自称勇者〉。ニュース番組で聞いたこのフレーズが、今回の事件とごっちゃになっただけ。きっと、ただそれだけなのよ」
そうなのだろうか。あんなに勇者に固執していたのに、この刑事さん。
「それと私は、あなたに謝らなければいけないことがある」
「謝る?」
ああ、俺を容疑者扱いしてたことか?でも仕方がないだろう、人を疑うのが刑事の仕事なんだろうから。それに真犯人を見つけてくれたじゃないか。だから俺は別に。
「あのね、慧くん。なぜだかあなたが勘違いしていたようだったから、そのまま訂正するタイミングを失ってしまって」
勘違い?俺が?何を?当惑する慧をよそに、目の前の彼女は大きく息を吸ってからこう言った。
「私は、刑事じゃないの」と。
「刑事じゃない?でもだって、あんなとこに……いえ、あのときここにいたから、そうなんだと」
「あれは本部……警察本部からそう申請があったから。あなたのことを見張るようにって」
「俺を?じゃあやっぱり、俺を疑ってた刑事なんじゃ」
「これが私の正体」
そう言って彼女は小さな紙切れを慧に手渡した。長方形の、飾り気のない質素な名刺。それにはこう書かれていた。
「国立精神・神経医療研究所……所員 設楽聡子」
「そう、私はあなたの嫌いな精神科の医者。あなたを起訴前本鑑定にかけた検察官の指示のもと、あなたのことを調べていた」
「精神科医?」
「黙っていてごめんなさい。必要以上にあなたを混乱させたくなくって。それにあなたは犯人ではないと思っていた。検察や警察の思惑とは違ってね。だから本当によかった。あなたの無実が証明されて。あなたは単に事件のショックで心を痛めてしまっていただけ。これからは定期的に通院して、投薬とカウンセリングでその傷を癒していくのが一番だわ」
そう言いきって彼女は大きく背伸びをした。まるで罪の告白をしただけで、すべてが赦されたかのように。
「刑事なんて私には荷が重すぎたわ。これでこの役目もおしまい。あなたを騙していたようで悪いけれど、私はあなたのことを信じていた。それだけは信じてちょうだい」
この人は、刑事じゃなかったのか。
そう言われれば確かに、俺はただの一度も警察手帳を見せてもらっていないんだし。そうだよ俺が勝手に勘違いしただけなんだ。だってあんな場面にいたんだもの。
そこで再び流れる赤が慧の頭いっぱいに広がった。枯れかけのあの花びらみたいな、萎れた赤。それがこの部屋に散らかっていて、ああここにあの生白い瞳が、俺を睨むかのように見つめていて。なんで俺を睨んでるんだよ姉ちゃん。違うだろ、睨んでいたのはアイツなんだろう、そうアイツだ、アイツ……。
「慧くん?」
「……すみません、刑事さん……いえ、お医者さんでしたよね、じゃあ先生だ。先生とはじめて会ったときのことを思い出してしまって、そう、この部屋で」
「ああ、そうね……」
事件のあったあの日。ひどく錯乱した彼の顔。汚れるのも厭わず、思わず姉の頭をかき抱いていたその姿。聡子の頭に再生されるその景色。あたかもサロメのようなその情景。
だってふつう、どんな最愛の人だって言っても、生首を抱くことが出来るかしら。私だったら恐怖と嫌悪感にすくんでなにもできないに決まってる。単に、最愛の人がいないからかもしれないけれど。
「私を見て、過去を思い出してしまうようなら私はもうあなたの前に現れない」
少し寂しい気持ちを隠しながら聡子は続ける。
「通院先の病院は手配するわ。大丈夫、私なんかより信用のおけるいい先生はたくさんいるから。それに、この家も、思い出してしまうのなら出た方がいいかもしれない。通学があるからあまり遠くには越せないだろうけど、少なくともここは出た方がいいと思うわ。力が必要ならここに連絡して。私の後輩を寄越すから」
そう言って聡子は渡した名刺を指差した。
「後輩って、あの頼りなさそうな男の人ですか?ええと、佐々木さん」
「そう。でもあんまり本人にそんなこと言っちゃダメよ。あれでけっこう気にしいなんだから」
「言いませんよ、大丈夫」
「ああ、それと」
そう言って彼女は自分の鞄のなかを覗きこむと、小さな何かを取り出した。
「これ。そこの時計止まったままでしょう?それだと不便だろうから。慧くん、その時計取ってもらえる?」
「え、ああ。はい」
造作もなく慧がその壁掛け時計を取り外すと、その上に積もった埃が舞った。ああ、掃除しなくっちゃ。あと洗濯物も畳まないと。
「電池が切れてたのね。また時差ボケしたら大変だから。はいこれ」
そうしてコチコチとリズミカルに時を刻みだした時計が慧に手渡された。なんだ、壊れていたわけじゃなかったのか。電池が切れていただけ、ただそれだけ。
無事にもとの場所に設置された時計を満足げに眺めて、
「それじゃあ」
と聡子はコートを手に取り立ち上がった。
この調子なら大丈夫。もう彼を脅かすものはいないのだから。
「学校とバイト先、あとここの大家さんにはあなたが無実だってことを伝えてある。じきにテレビでも真犯人逮捕で騒ぎだすでしょうし、おそらくあなたを不当な扱いする人はいないとは、思う。けれど世の中にはいろんな人がいるから、謂れのない難癖をつける人もいると思う」
 例えば被害者に理由があったと思い込みたい、怯えるしかないかわいそうな人たち。
「けれどそれに屈しないで。あなたは何も悪くないのだから」
じゃあね、そう言い残し彼女は去っていった。
俺は何も悪くない。そうだ、そんなの最初からわかりきってたこと。それを繰り返して。
持ち主のいなくなった靴が散乱する玄関の扉が、バタンと閉じた。
部屋には慧一人だけになってしまった。ああ、今日姉は何時に帰ってくるのだろう。反射的に思ってしまって、急に冷酷な現実を思い出した。バカだな、もう姉は帰ってこないのに。永遠に、だ。
さてこれから俺はどうすればいいんだろう。決まってる、いつも通りの日常に戻るだけだ。平穏な日々。それこそが俺の現実なのだから。

翌日、彼は通常通りに過ごすことに決めた。水曜日。けだるがちな週の半ば。そんな折りに、渦中の俺が現れたらみんなどんな反応をするのだろう。慧は少し怖かったが、けれどこのまま怯えて時を止めている場合ではないだろう。だって俺は無実なのだから。俺は何も悪くないのだから。
新しく用意された――恐らく警察が回収した、血に汚れた制服の代わりに用意してくれたのだろう制服に着替え、階段下の自転車を引き出す。たかだか二週間ほど放置していただけなのに、かごの中にはゴミくずが詰められていた。
ああ、ついてないな。いくら使ってなかったからって、ゴミ箱がわりにしなくても。仕方がないので一度部屋に戻り、そのゴミくずを捨てる。紙くずが多かった。なにかが書いてあるようだった。なにかが。
「こんなの、いちいちみなくていいの」
そう言う姉の声が頭に響いた。茜姉?思わず振り向くが、当たり前だがいるわけがなく。ただその声には忠実に従って、黙々とゴミを分類する。遠い昔にも経験したこの作業。
学校でも同じ目に遭うのかもしれない。その予感に慧の気持ちが萎える。そうだよ、田嶋修一が裁判で有罪になって、ニュースで大々的に騒いでくれる頃合いに行けばいいじゃないか。けれどそれはいつになるだろう。一週間?それとも数か月?色々あって疲れてるんだ、俺は。もう少しくらい休んでたって文句言われないだろう。
けれどこの部屋でひとり、俺は何をしてればいいのだろう。一日中寝ていようか?平穏な日々を夢に見て。
でもそれではだめなんだと刑事さんが……ああ、先生だ、先生だった。あの先生が言ってたではないか。これ以上偽りの記憶で塗り固めてしまったら、きっと俺は俺でなくなってしまう。
 時計は8時15分を指し示していた。せっかく少し早めに家を出たというのに。こいつらのせいで結局いつもと同じ時間になってしまった。そうさ、なにいつも通りにしてればいいだけだ。いつも通り。いままでそうやって出来てきたんだ。今日だって大丈夫だろ。
 そう思い直して彼は再び部屋を出た。鍵を閉め、改めて自転車を取り出し跨がる。危ないからと姉が誕生日にくれた星型のキーホルダー。胸元のポケットから出した、その先に付いたカギを自転車に差し込む。あんたの名前、彗星から取ったらしいから。そう言ってくれた、ちらちら光を反射する、まさに星のようなそれ。
染み付いた習慣のお陰で、やがて見慣れた校舎へとたどり着く。下駄箱。大丈夫、さすがにここは学校だ。見知らぬ第三者の悪意は散らばってはいなさそうだ。
教室、窓際の席。俺の特等席。机もそのままだ。ロッカーも。ああ、社会科の教科書、学校に置きっぱなしだったんだな。どうりでいくら探しても見つからないわけだ。
「あっ、おっはよー村上くん!」
一番最初に声を掛けてきたのは水野だった。クラスの人気者。〈真の勇者〉に興味津々の。あれ、勇者は結局いなかったんだよな。じゃあ俺は、何と間違えたのだろう。水野は何に興味があって、あのとき俺に話しかけてきたのだろう。
「ああ、おはよう」
「村上くん、大変だったね。お姉さんもあんな風になっちゃって」
かわいそうに。ポツリとささやいた彼女の声が耳に入る。
かわいそう。そりゃあかわいそうに決まってる。だって、こんな目に遭うなんて。
「もう大丈夫なの?その、いろいろ」
野次馬根性丸出しで聞くのはさすがにまずいと彼女も自覚はあるのだろう。けれど気になって仕方ない、それを我慢しているような表情で水野が問う。みんなあの事件のこと知りたがってるんだよ。まるで彼女の希望がクラス全体のそれであるかのように。
「うん、まあ……。警察から情報来てるんだろ?犯人、捕まったって」
「両親とも殺されちゃった過去の事件の、犯人の弟だっけ?」
「そう。で、俺は事件のショックで寝込んでたただけ。けど落ち込んでても、姉が生き返るわけでもないし」
「そっかぁ。でもよかったね」
そこで予礼のチャイムが鳴った。やっぱり村上くん犯人じゃなかったって。水野はそうクラス全体に言うかのように大きな独り言を呟きながら、席へと戻っていった。
やっぱりってなんだよ。最初から俺は犯人なんかじゃないっていうのに。
朝礼では彼のことは特に触れられなかった。きっと、かえって気まずくなるから、そういう配慮だったのだろう。
淡々ととられる出欠確認に「はい」と返事をした瞬間、担任と目があった。一瞬、教室全体に緊張が走ったような気がした。けれどその目はすぐに逸らされてしまった。まるで村上慧なんて初めから居ないかのように。なんだよ、感じ悪いなぁ。
その担任の目の前に座っている河野は身じろぎもしない。そういえば朝、水野に捕まっちゃったから河野にも、田中にも挨拶すらしていない。おはよう、心配掛けてごめんな。大丈夫、でもよかった。ほらこれ、お前のいなかった間のノートな。親切な河野のことだ、そう言ってくれるに違いない。
朝のホームルーム、文化祭の話。慧のいない間に時はどんどん進んで、気づけば次の土日がいよいよお披露目とのことらしい。このクラスは何をやるのだろう。そういえばそんなことすら知らなかった。なに、後で河野に聞けばいいだろう。何せアイツは文化委員なんだし。
一時限目は地理。行ったことも、これから行くこともなさそうな場所の地形について。ミクロネシアのマーシャル諸島が、温暖化によって八割海に沈んでしまいます。その情報が俺の人生の役に立つのだろうか。   
二時限目は社会。教科書の隅の方まで授業そっちのけで見回したけれど、やはり勇者にまつわる法律なんてなかった。いやあるわけないだろ、そんなもの。
三時限目、世界史。過去の偉人たちが成し遂げた業績。偉人になれない俺らは、せめてその功罪をなぞって満足することしかできない。悲しい現実。
四時限目、国語。ああ、真面目に聞いておかないと。文脈をきちんと読み取らなければ。だからあんな間違いをしてしまうんだ。精神科医を刑事と間違えるだなんて。
そこで昼を告げるチャイムが鳴った。ああ、河野と田中はどこだろう?見回すと彼らの姿はすでになかった。
それにしたって行動が早い。確かに早く行かないと屋上の日当たりのいい場所は他のやつらに取られてしまうし、購買だって田中のお気に入りが売り切れてしまうかもしれないけれど。
けれどひさしぶりに友人が学校に来たというのに。確かに俺は、いつも通りの日常を望んでいたけれども、これじゃああまりにもいつも通り過ぎるじゃないか。
慧は苦笑しながら購買へと向かう。背の低い田中の姿は見つけられなかった。埋もれているのか、すでに買い終わって屋上へ向かったのか。のんびりといつも通り売れ残りの変な組み合わせの食事を手にして、階段を昇る。やっぱりずっと寝てたのはまずかったかもしれない。これしきの階段で息が上がってしまうだなんて。
朝練でもすれば?そう響く姉の声。そうだね茜姉、ギリギリまで寝るのはやめにして、少しその辺走ってみるよ。人生を無駄遣いしないためにも。
扉を開いてすぐ、やわらかな初冬の陽の光を浴びて彼らは昼食をとっていた。なんだよ、意地汚いやつらめ。俺が来るまで待っててくれたっていいじゃないか。
「久しぶり、河野、田中」
彼は笑顔でそう声を掛けながら彼らのもとへと寄った。
「村上君……?どうしたの?」
不思議そうな声で返してきたのは見慣れぬ顔だった。
手にコーラとコロッケパンを持って、彼らと楽しそうに話しているこいつ。誰だっけ、こんなやつクラスにいたっけ?
なんで村上がここに?そう言っているかのような表情で、その彼が問うてくる。
「先生から聞いてない?犯人捕まったんだ。だから、ようやく俺も普段通りの生活ができる」
「へえ、そうなんだ。よかったね」
その見知らぬ彼がそっけなく返した。その声に被せるように、棘のある声が耳に入る。この無駄にいい声は河野だ。
「けどなんで俺たちのとこに来たの?こないだもいきなり電話きたしさ、なんなの?」
「なんでって。だって俺たち友達……だろ?」
この今さらの確認に、なんだか急に自信をなくしてしまい、慧は尻つぼみになりながら河野に返す。え、なんだよ、まさか俺だけ?友達だって思ってたの。けどお前だって言ってたじゃないか。俺たち親友だろぉ?そう言ってきたのはお前の方じゃないか。
「友達……友達ねぇ。っても臨海学校んとき数あわせで同じグループになっただけじゃん」
「え……そうだっけ?」
「そうだよ、お前いっつも一人だからさ、しかたなしに」
「河野くん、言い方。大丈夫だよ、今だけだから。水野さんが村上くんに興味津々なのは」
それをやんわりとたしなめたのは田中だった。
「別にそういうわけじゃないけど」
「ほとぼりが冷めればいつもどおりだよ」
「ならいいけどさ」
田中になだめられ、河野はプイと押し黙ってしまった。どうやら彼は、彼のアイドルである水野マキを村上に取られたような気がして面白くなかったらしい。
はあ、なんだこいつ。憤る気持ちが彼を襲った。なんだよこいつ、人の気も知らないで。水野なんて、ただの野次馬じゃないか。興味本意で、平気でドカドカと入ってくる失礼な女。かわいそう?ああ俺はかわいそうだよ。お前と違って、そう。
そんなに羨ましいのなら、お前も親を殺されてみるか?兄弟も、みんなすべて失って一人になってみるか?
なんだ、こいつはこの程度のやつだったんだ。友人の心配をするどころか、女のことばかり気にする浅はかなやつ。ああ、期待した俺がバカだったんだ。
「ごめんね、村上くん。せっかく村上くんから声を掛けてくれたのに。またこんど一緒にご飯食べよう」
さすがに顔色の変わった慧を心配してか、田中がそう声を掛けてくれた。ああ、その点田中は変わらないな。天然だけど優しいやつ。ならばあの事も聞いても大丈夫かもしれない。河野には一蹴にされてしまった、俺が見た何かについて。
「そうだ田中。お前知らないか?〈真の勇者〉。警視庁勇者課のエリート公務員」
最初にそう言っていたのはお前だったじゃないか、昼休みに。満腹でうとうとしながらも俺に教えてくれたじゃないか。
「〈真の勇者〉?」
「そうだよ、唯一刀を操る、ずば抜けて強い勇者様。ついこないだ俺に教えてくれたじゃないか」
「そうだったっけ?うーん、あんまり覚えていないなぁ。ゲームの話かな、河野くん、小野寺くん。知ってる?」
 どうやら見知らぬ一人は小野寺というらしかった。
「知らないなぁ」
「アイツ前もそれでわざわざ俺に電話掛けてたんだぜ。そういうゲームがないかって。あるわけねーだろんなもん。クソつまらなさそうじゃね」
田中に促される形で、河野が不機嫌そうに口を開いた。河野だけなら、もしかしたらそこに悪意があったのかもしれない。面白くない、気にくわないからスルーしてやろうぜ。けれど田中にはそんな理由もないだろう。現に険悪なこの雰囲気に、ただ狼狽しているばかりだ。
じゃあ、彼らの言っていることは本当なのだろう。だってあの刑事さんだって……ああ、違う、何度間違えれば気が済むんだ。あれは先生だ。先生も言っていたではないか。〈勇者〉などいないのだと。
じゃあ、この俺の記憶は?彼らと会話した記憶は?それらも偽りの記憶だと言うのだろうか。
だとしたら、どこからどこまでが本当で、どこからどこまでが偽物なんだ?わからない、俺は……?
なんだかひどく自分の存在があやふやなような気がしてきた。本当に、ただ朝のニュースがごっちゃになってしまっただけなのだろうか。腑に落ちない。俺は……俺は何を見た?誰と話したんだ?
不意に足元がぐにゃりと歪んだような気がした。そして、粘りけのある液体が足元に流れてくる。おかしい、ここは屋上じゃなかったか?赤いものと、透明のもの。それらがどこからか流れてくる。ぬるぬるとしたそれが足元を掬う。危ない、転びそうになる。早く、早くこっちに!まだ幼さの残る女の子の声がする。そう言って差し出された手をとれば、ゴキリという音がした。そしてつかむ手には、人間のひじから先の部分が――
「大丈夫!?村上くん!!」
そう叫んで彼の身体を支える者がいた。ああ、優しいなぁ、田中は。こんなオカシイ俺のことを心配してくれて。
「ああ、ごめん……大丈夫。やっぱりまだ本調子じゃないみたい。何て言うんだっけ……ええと、PTSDっていう病気らしいんだ、俺。トラウマが急にフラッシュバックして、パニックに陥るんだって先生が」
「おい、村上……お前そんなんで学校来て大丈夫なのか?」
心配そうに、けれど半分は気味悪そうな顔つきで河野が慧に声をかけた。こいつ大丈夫なのか?面倒ごとはごめんなんだけど。
「家に居ても仕方ないから……。それに、症状が出たらこれを飲めばいいって」
そうして彼は、聡子から渡された薬をコーラで胃のなかに流し込んだ。大丈夫、俺は大丈夫。これを飲めばすぐにいつもどおりに戻るから、頼むからそんな目で見ないでくれ。
「ごめん、急に変なこと言って。でも俺は大丈夫だから」
やがて落ち着きを取り戻した彼は、そう言い残して屋上を後にした。大丈夫、今日は失敗しちゃったけれど、すぐに元通りになれるはず。河野だって、あんなつまらないこというようなやつじゃなかったはずだ。小野寺だって、もしかしたら俺がいない間に転校してきた生徒なのかもしれない。大丈夫、俺もきっと仲良くなれるだろう。大丈夫、そのうちすぐに、なにもかも元に戻るんだから。
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