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一章(アン視点)

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 婚約破棄を伝えられて、アンはとしか思えなかった。婚約して二年経っていた。むしろよくここまで辛抱してくれたとすら思った。更にその元婚約者が、自分の妹と再度婚約し直すと教えられても、やはり納得していた。とっくに自分にその資格がないのを、自覚していた。

 アン・テスラ。侯爵の父と、大国の王女だった母を両親に持ちながらも、彼女の周りでは常に不幸がついて回った。
 アンを産んだ母は産後の肥立ちが悪くまもなく亡くなり、母の侍女をしていた伯爵令嬢が継母となった。継母が産んだ異母妹は父親譲りの金髪碧眼で、愛らしい容姿で、誰からも愛された。
 対する自分は黒髪黒目。仕えてくれる侍女たちは白い肌だと褒めてくれるが、同時に憐れみの目も向けてくる。無言の物言いを、アンはひしひしと感じ取っていた。容姿も良いわけではなく、十人並みだった。自分は異母妹の美しさを際立たせる引き立て役だった。

 ブライトン王国の国王が民衆によって処刑されたとき、アンは十七歳だった。王が民に殺されるという激震は世界を駆け巡った。アンの屋敷も例外ではなかった。何といっても死んだ母は、ブライトン国王の王女だった。

 国王は処刑され、王妃と王太子は行方不明。生きているのか死んでいるのかさえ分からない。顔も見たことのない親類の一族の心配をしている場合では無かった。処刑された知らせが届いたその日に、継母は部屋にやって来てこう言った。

「今までは王家に免じて面倒を見てきたが、こうなった以上はお前は何の後ろ盾の無い穀潰しだ。さっさとこの屋敷を出てお行き」

 亡国の一族の者である以上、自分の立場は確かに弱い。だがれっきとした侯爵の娘ではある。アンは非情な継母の言葉に傷つきながらも反論した。

「お義母かあさまが決めることではなく、お父さまが判断されます。わざわざ不在の時にいらっしゃるなんて、お父さまに知られたら不興を買いますよ」
「王が処刑されるなんて前代未聞。その余波はもうここ、ランドリット侯国までもたらされている。お前がいることでいつ群衆がなだれ込んで来るかも分からないのに、ここに置いておけるわけ無いでしょう」

 それに、と継母は続ける。

「その醜い顔。おぞましい。誰もお前なんかに求婚したいと思う者などいやしない」

 指をさされ、アンは顔を背ける。アンは流行り病にかかり、何とか一命を取り留めたものの、その顔は酷くただれた跡が残った。
 何度も浴びせられた継母の言葉は、その度にアンの胸を深くえぐった。心無い言葉は今に始まったことではないが、何もかもやり過ごせる程、アンの心は死んでいなかった。

「修道院に入れてやりたいけど、病が治っていない以上は、連れて来るなと言われたわ。修道院にすら拒絶されたなら、もう行く所はどこにも無いわね」

 捨て台詞を吐いて、継母は部屋を出ていった。一人になった部屋で、アンは力なくベッドに座り込む。顔が醜くなってから、アンは鏡はおろか、窓にも映らないように、自分の顔を見るのも避けてきた。病を得て、更に母の実家は消滅した。自分の立場を保てるのは、父の胸三寸だった。

 幸い、父はアンを屋敷から追い出すことも、修道院に入れることもしなかった。だが決してアンに会おうとしなかった。父が継母と異母妹を愛していて、自分を愛していないのをとっくに知っていた。ここに留めておくのは、滅んだとはいえ自分が王族の血を引いている他なかった。


 そんな経緯があって、改めて婚約破棄の知らせがもたらされた。だからアンは、何もかも仕方がないと思っていた。




 妹がやって来る。二つ違いの妹は、きらびやかな衣装を着て、美しい金の髪を扇のように広げて、いつもの愛らしい顔を見せてきた。

「姉さまお久しぶりです。体調はいかがですか?」

 病床の姉を気遣う優しい妹、を演じているのをアンは知っている。アンは素っ気なく頷いた。

「ええ。だいぶ良くなりました」

 アンが流行り病に見舞われて既に二年近く経っていた。もうすぐ十九歳になる。病状こそ過ぎ去ったものの、醜い顔を見せたくなくて部屋に籠もりきりになり、衰えた体力が回復せず熱がぶり返して度々伏せるようになっていた。昨夜も熱が出て横になっていたが、今は熱も引き、起き上がれるくらいには回復していた。

「よかった!ナツメの汁物を作らせているから、後で召し上がってくださいまし」

 邪心の無い女神のように明るい顔をして、妹は安心したように手を叩く。それは真っ赤な嘘だった。

「ありがとう。大事に食べるわ」

 だからこちらも喜んでみせる。本心を言い合える者などこの屋敷にはいないが、ことこの妹に対しては、少しでも本心を知られるわけにはいかなかった。

「姉さま、もっと良くなってくださいね。私の結婚式には、是非お姉さまにも出席していただきたいもの」

 ちくりと、刺すように幸せを振りまかれて、アンは笑みを深める。

「駄目よ私なんかが出ては。当家の恥になるわ」
「そんなことないわ。姉さまは私のたった一人の姉妹ですもの。一人だけ置き去りになんか出来ないわ」

 妹の本心は分かっている。いつもの通り、惨めな自分を嘲笑いに来たのだ。今もそう、毛先まで細かく手入れされた着飾った姿を見せびらかしたいだけなのだ。みすぼらしい姉を蔑んで、一体何をしたいのか。生まれながら愛されて育ったのに、性根の悪さは継母そっくりだった。
 いや、継母の方がまだマシかもしれない。向こうは、はっきりと物を言う。当たり散らす。だがこの妹は、ひたすら陰湿だ。絶対に自分からはボロを出さず、他人を使う。

 使用人が部屋に入ってくる。盆に乗った椀は、妹が言っていたナツメの汁物だろう。妹はわざとらしく甲高い声を上げて、使用人から椀を受け取った。

「さぁ姉さま、お飲みになって」

 黒々とした液体。煮詰めすぎて真っ黒になった代物しろものを、体に良いからと差し出される。こんなもの飲めたものではないが、飲まなければこの妹は父や継母にこう言って泣きつくのだ。

『せっかく私みずから作った汁物を、姉さまは嫌がってお捨てになった』

 前にもったから想像は容易い。あの時は怒り狂った継母に押しかけられ、罰だといって使用人に頬を打たれた。口が切れて頬が腫れ、そこに酢の物ばかりを食べさせられ、酷い屈辱を受けた。父は全てを知りながらも見て見ぬふりをした。

 妹の言葉一つで、自分は簡単に崖っぷちに立たされる。なんとか踏みとどまっていられるのは、やはり亡国となった王族の血族だからだろう。だから殺されもせず、修道院にも入れられず、ここで飼い殺しとなっている。

「さぁ姉さま」

 うながされ、アンは椀を受け取る。もはや飲み物とは思えない黒い物体を、無理やり流し込んだ。

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