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一章(アン視点)
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しおりを挟む目を覚ますと、視界は暗かった。眠っている間に日が落ちたらしい。部屋の中は暗かったが、暖炉はついていたから、そこだけ明るかった。木が小さく爆ぜる音を聞いていると、気持ちが落ち着いてくる。ただ、乾燥して喉が乾いていた。アンは小さく咳をした。
「──苦しいのか?」
部屋に自分以外がいるなど全く思わず、身構える。声の主は、アンが顔を向けていた暖炉側とは反対にいた。暗く、顔はよく見えないが、座っているのはなんとなく分かった。
「…アーネスト様」
話そうとして、咳き込んでしまう。アーネストは立ち上がると、ベッドの端に腰かけた。アンの体を起こすと、持っていた水差しを口元に押しつける。
飲め、ということらしい。アンは差し口を口に含んだ。水差しが傾いて、水が流れ込んでくる。喉を通っていくと、乾きを自覚する。そういえば屋敷に着いてからずっと飲まず食わずだった。半日ぶりの恵みに、体は潤いを取り戻していく。
飲み干すと、水差しが離れる。アンの口元に彼の親指が触れたのは、溢れた水滴を拭うためだった。
「…………」
「まだ飲むか?」
「いえ…ありがとうございます」
するとアーネストは、ため息をついた。
「なに遠慮している」
「え?」
「まだ飲みたいんだろう?腹が減っているなら、軽い物を持ってくる」
「いえ。いえ…もう十分でございます」
と言った直後に、腹の虫が鳴る。アンは腹を押さえた。
「あ」
「天邪鬼め」
アンの体をベッドに寝かせて、アーネストは立ち上がる。そのまま部屋を出ていった。
あまのじゃく。そんなことを言われるとは思わなかった。無理をしている自覚は無い。思いかけて、また腹が鳴る。とっても大きな音に、アンは恥じ入る。
少し待っていると、アーネストが戻ってきた。使用人を一人連れていた。アーネストが手燭で明かりを灯していくと、部屋は明るくなる。彼の端正な顔もよく見えて、見えるということは自分の醜い顔も見られているということ。彼がこちらを向く前に、アンは顔を背けた。
「飯を持ってきた」
「ありがとうございます」
「…後は俺がやる。下がっていろ」
使用人に向けて言った言葉の後に、実際に扉が閉まる音がする。アンは少し顔をあげたが、アーネストともろに視線がかち合って再び顔を背けた。
「おい」
「私の顔は」
「聞き飽きた。とにかく飯だ。薬も飲ませたい」
再び体を起こされて、背中に枕とクッションを当てられる。起きているのに楽な態勢になると、何やら美味しそうな匂いが鼻孔をくすぐる。
使用人が押してきたワゴンの上には、何品かの料理が置かれていた。どれも汁物で、胃に負担のかからないように考慮されたものらしかった。
その一つの深皿を手に取ったアーネストは、ベッドに片膝を付けると、スプーンで掬ったスープをアンの口元に運んだ。
「口を開けろ」
アンはとっさに反応できなかった。水はともかく、スープまで飲ませてもらうなど、そんなことしたことがなかった。
「アーネスト様…わたし、自分で」
「口を開けろ」
「恥ずかしいんです」
「こぼれる。早く」
急かされると、そうしなければならないような気になってしまう。アンは口を開けた。スプーンが口の中に。つるりとした感触が舌の上に乗ると、次にスープの味がした。ほどよく冷めていて熱くなかった。飲み込みやすいように具はしっかり煮込まれていて、薄味の優しい味が、食欲をそそった。
嚥下すると、彼はまた口の中にスープを流し込んだ。手慣れていて、そういう世話をした経験があるようだった。もう口ごたえせずに素直に従っていると、あっという間に一杯飲み干していた。
「まだ飲めそうだな」
腹はもう満たされていた。アンは首を横に振った。
「いえ、もう」
「なら薬を飲め」アーネストは別の椀を手に取る。「熱は引いたが、回復はしていない。医師によればとにかく食べて寝ると良いそうだ。しばらくは続けるからな」
椀の中の薬は茶色い。見るからに苦そうだ。いやそれよりも、今彼は「しばらく続ける」と言った。そちらの方が気になる。まさかこれから今のように食べさせられるのだろうか。
「自分で飲みます」
スプーンで椀の中をかき混ぜていたアーネストは、ちらりとこちらを見やった後、アンに椀を渡した。今度は願いが聞き入れられ、ほっとする。
口をつけると、色の通りの苦々しさが広がった。修道院でも、屋敷にいた時ですら、まともに薬が処方されたことが無かった。これだけ厚遇してもらって、申し訳ないくらいだった。
飲み干すと、空になった椀と引き換えに、飴が手渡された。
「レモンの飴だ。苦いのが和らぐ」
舐めてみると彼の言う通り苦みが引き、さっぱりとした爽やかな味わいが広がる。甘いものをアンは久しぶりに口にした。美味しい。甘いというだけで嬉しくなる。
ふと、彼がくすりと笑ったような気がした。そんな気配がして彼の顔を見てみるが、無表情のままだった。
「どうした」
「いえ…美味しいですねこの飴」
「気に入ったなら置いておく。好きなときに舐めるといい」
「いえ、そこまでしてもらうわけには」
「飴ぐらいで何言ってる」
また怒らせてしまった。アンが俯いていると、頬に彼の手が触れた。顔に触れられて、アンは反射的に手を払ってしまった。
「あ…すみません…」
「…………」
「き、汚いですから、触ってはいけません」
散々醜いと言われたこの顔が、今どれほどまでに酷い有り様なのか、鏡を見ていないアンには分からない。とても見られたものではないこの顔を、美しい顔の夫に見られ、しかも触ってくるなど、そこまでとても許容出来なかった。
アーネストは、手をまた伸ばしてきた。身構えると今度は顔ではなく、背中に触れた。背中を支えていたクッションを取り払うと、アンを横に寝かせた。
「夜になったばかりだ。眠るといい」
何事もなかったように言われて、アンも頷くしかない。アーネストはアンの髪を一房手に取ると、口づけを落とした。
「これくらいは許せよ。おやすみ」
冷たい表情反面、優しい声音で言われる。されたことのない行為に呆気にとられて何も言えないでいる間に、彼はさっさと部屋を出てしまっていた。
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