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二章(アーネスト視点)

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 治療を初めて、一ヶ月が経っていた。政務を優先していたアーネストは、アンに中々会えないでいた。
 会ってはいる。彼女が眠りについた頃に屋敷に戻って、寝顔だけを見てはいる。起きているアンとなると、数えるほどしか会えていなかった。

 この一ヶ月、毒との攻防が続いていた。長年の病で衰えた身体は毒に対抗出来ずに、なかなか体外に排出されなかった。薬を飲ませたくとも強い薬は体質的に受け付けず、弱い薬だと効果が薄い。食べさせようにも多くは食べられず、無理はさせられない。一時の予断も許されなかった。

 医者や看護婦だけでは限界があった。彼らにも仕事がある。アンの世話係として、侍女を付けた。ソニアは、母がアーネストの家庭教師だった縁で、使用人として雇っていた。仕事は堅実で我慢強く、アンの世話をするには最適だった。

 ソニアを仕えさせると、アンの様子を知りたいアーネストの為に、毎日日誌をつけて執務室に置いてくれた。何を食べたか、どんな会話をしたかなど、密偵のような報告だったが、これが医者にも役立って、彼女の好む食事へと改善するのにも使われた。
 会えない日は続いたが、アーネストにとって、この日誌を読めば彼女がどんな一日を過ごしたか知れた。ソニアは真面目な性格ゆえか、非常に細かな記述をしてくれた。

 アンは、部屋から出ずに、一日の大半を読書をして過ごしていた。よく読むのは大衆小説。恋物語ばかりで、好みなのだろう。新聞も読みはするそうだが、全ては読まず、決まった欄しか読まないという。
 かろうじてソニアには顔を見せてはいるが、それ以外の使用人には一切見せないという。黒のベールは毒の特定の為に医師に渡し、代わりに白のベールを与えていた。あれを寝るときでも手元において、いつでも被れるようにしているのをアーネストは知っていた。
 言葉は少なく、ソニアとの会話も業務の域を出ていなかった。気心しれた者が傍にいないのでは、アンも休めないだろう。かといって、ソニア以上の優秀な者はいない。
 顔のただれを治すために、洗顔する水には褐藻かっそうを入れるように指示をしていた。ぬめりけのある水になるため、傷にしみにくく炎症も抑えられた。彼女はこの水を大層気に入っているそうだ。褐藻かっそうは藻の一種だから、港でいくらでも入手できた。彼女が望むなら、いくらでも使うようにと、日誌に書き込んでおいた。

 アーネストは日誌にアンの好みをもっと聞いておくようにと書き込んだ。口数が少ないといっても、喋るのが嫌いなわけでは無い。花園の彼女の通りならば、いつまででも話していられる性格の筈だ。

 ソニアは上手くアンと話をして、毎日彼女の好みを記入してくれた。好みそうな蔵書の購入し、青が好きだいう彼女の為にカーテンを青に変えた。一日中、寝間着でも快適なように、最上級の生地を仕入れて仕立てた。白のベールも改良して、季節に合わせて通気性の良いものに変えた。

 相変わらず夜、眠る彼女しか会えなかった。そっと彼女に触れて、呼吸を確かめた。金の指輪がきらりと光る。少しは、指輪の大きさにはまるようになっているようだ。抜けそうだった指輪は今、アンの指にしっかり食い込んでいた。
 
 執務室に入ると、ソニアが部屋にいた。手には日誌を持っていた。

「どうしたソニア。もう夜も遅い。はやく寝たほうが」
「お話したいことがありまして」
「アンになにかあったのか?」

 ソニアが暗い顔をしているのは、決して部屋が暗いせいではないだろう。思い詰めたような深刻そうな顔に、アーネストは日誌に書けないほどの重大な事が起こったのかと身構える。  

「奥様、旦那様がユルール候爵様だと知らないようでした」
「……………」
「ここがユルール侯国だと、かつてのニッヒラビだと教えますと、とても驚かれておりました」

 ソニアの指摘に、アーネストは自分の身分を話していなかったと気づいた。確かに話した記憶が全くない。元婚約者の弟だとは言ったが、自分が候爵だとら明かしていなかった。

「……忘れていた」
「忘れていた?正気ですか。奥方様になんと説明して、ここに来てもらったのですか。騙して連れてきたのですか」
「…………」
「…本当に騙したのですか」
 
 騙したのは間違いない。結婚していないのに結婚したと嘘をついた。あの後、既成事実を作るために、教会に書類を偽造させた。偽装工作に専念して、肝心のアンに、己の身分を話していなかった。なんて抜けているのか。

 ソニアは呆れ顔をする。

「奥様がご病気だとしても、ご自分の身分くらいはいつでもお話できた筈です」
「…それで、アンには話したのか」
「ええ。求められましたので。そうしましたら」

 そこで言葉が途切れる。何だと顔を見ると、視線を逸らされる。ソニアは言い淀むような顔をしている。

「なんだ。言ってみろ」
「旦那様が奥様を大変気にかけて細かな配慮をなさっておられます。私も僭越ながら、お忙しい旦那様の為にと、日誌を作成してきました」
「回りくどい。本題を」
「その…奥様はご自分が滅んだ家の者だからと大変恐縮されて、子を産めない身体なのを大層苦になされておられました」
「……そんなことを」
「もちろん、旦那様が奥様を妻に迎える為に候爵になったとお伝えしたのですが、あの様子ではおそらくはまだ気に病んでおられるかと」

 これを言いたいが為に遅くまで待っていたのか。日誌にはおそらくは書かれていない。書けるような内容では無かった。
 候爵だと言わなかったのは、自分の過失だが、要らないと言った子を気にするのは、アンの問題だ。いや、彼女がそう思うのも無理はなかった。貴族同士の結婚とは子を産む為で、初めから跡継ぎを産めない女を妻にするべきではない。恋愛は妻とするのでは無く、愛人とするもの。それが貴族の常識だった。

 だがそうはしたくなかった。愛する人は一人だけ。得られないと思っていた人を得られた今、他の女と子を作るなど、おぞましい。考えたくもなかった。

 一ヶ月。会う時間は少なかったが、やはり愛していた。十年以上ぶりの再会でも、自分が抱いていた恋心はそのまま、いやそれ以上だった。近くにいるのに会えないのは、長らく会えなかった時よりも辛かった。寝顔を一目見ると、その時は落ち着くが、部屋を出ると会いたくなる。自分はやはりこの人しかいなかった。

「ソニア、日誌を」
「…旦那様」
「お前だけに話しておくが、今後の回復次第では、子を望めるようになるかもしれない」
「でしたら、それを奥様にお伝えしては?」
「確実に回復するかは分からないし、出産は命懸けだ。たとえ子を宿せるようになっても、俺は望まない」

 ソニアは何とも言えない、と言った顔をしていた。女性の側からしたら、勝手に一人で決め込んでしまっている結論が気に食わないのだろう。立場が違いすぎるから、そこまで突っ込んではソニアも意見しなかった。
 

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