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二章(アーネスト視点)
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しおりを挟むアンに会えない日が続いていた。というのも、勢いで結婚した為、どちらの両親にも、主君である皇帝にも、何も報告していなかった。
本来なら婚約を経るものだが、全てを飛び越して結婚してしまっている。修道院にはアンを連れ出したのを暫く伏せるように伝えてあるが、いつまでも秘密にしておくわけにはいかない。
修道院で被っていた黒のベールには毒が付着していた。誰が毒を仕込んだのか。そんなものは調べるまでもなかった。
アンの実家であるランドリット侯爵家。それしかなかった。
ランドリット侯爵──アンの父親は、全く想定していなかった知らせに、目を丸くした。
「…本当か?」
家令は本当です、と頭を下げる。白髪の老人とはいえ、まだ呆ける年ではない。報告を間違えるようなことはしない。
ランドリット侯爵は頭をもたげる。家令の言っていることが本当なら、こういうことだ。
──アンはユルール候爵夫人となった。
とっくに修道院を出て、教会の許しも得て式も終えたという。しかもユルール候爵本人が、直々に屋敷に来て、既に応接間で待っているという。
全く寝耳に水だった。修道院に入れてから、ほとんどアンの存在を忘れかけていた。
ここに来てアンの名を聞こうとは。こちらの了承も無しに妻にするなど、こんなことがまかり通るわけがない。
しかも相手はメアリーの夫、ウィレム卿の弟とは。ランドリット侯爵は奥歯を噛みしめる。
弟がいることは認識していた。メアリーの式にも出席していた。ウィレムと双子なのかと思うほど容姿が似ており、何度か間違えそうになった程だ。
戦争もめっぽう強く、ニッヒラビを占領し、ユルール侯国を皇帝から拝命されていた。戦争で爵位を受け取る前例はあるが、いきなり侯爵の位は異例だった。
いくら優秀でも、こちらには歴史がある。長年、皇帝に仕えてきた候爵と、いつまた占領されて消えるか分からない領地を持つ候爵とでは、同じ爵位でも天と地ほどの差がある。
アンを妻にしたというのは、結局はそこを求めてのことだろう。少しでも格を上げるために、捨てられた候爵令嬢に目をつけたのだろう。
「…いかがなさいますか?」
控えめな家令の伺いに、候爵は思考を一旦止める。勝手に結婚したユルール候爵が、一体どんな顔をして挨拶をしてくるのか。ランドリット侯爵は吸っていた葉巻が終わるまではと、煙をくゆらせた。
応接間に赴くと、青年が立っていた。窓際に立ち外を眺めていた。扉を開ける音に気づいてこちらに体を向ける。
会うのは式以来、二度目だが、やはりよく似た兄弟だと思えた。兄は人当たりの良い笑みを浮かべているが、弟は無表情でニコリともしない。愛想笑いすらもしない。
「ユルール候爵、僻地からご苦労だったな」
ちょっとした嫌味を交ぜてみるが、表情は変わらない。冗談を解さない朴訥なのかもしれない。
「ランドリット侯爵、時間が惜しい。手短に話す」
挨拶すらもせず、無礼な態度を取られ、呆気に取られる。後から怒りが追いついていて、追い出してやろうかと思ったがアンの結婚のことがある。堪えて、ランドリット侯爵は、ぞんざいに椅子に腰かけた。ユルール候爵に座れとは言わない。先に無礼を働いたのだから、これくらいは当然だった。
話すように視線だけで促すと、ユルール候爵は口を開いた。
「──そちらに融通した借金を返してもらいたい」
何を言い出すかと思えば、金の話などなんと無粋な。ランドリット侯爵は髭を撫でる。
そもそも借金をしたのは、皇帝の戦争に付き合ったせいだ。何度も出兵を命じられ戦費が嵩み、仕方なくウィレムに借金返済の補填をしてもらっていた。だがウィレムだけでは膨らんだ借金を返すには足りず、弟にも手伝ってもらったと言っていた。
つまり兄弟で融通してもらったわけだが、直接、弟から借りた訳ではない。
「もちろん返す。だが、ウィレム卿に返す。借金の話なら彼に聞いてくれ」
「契約書を渡している筈だが?私はランドリット侯爵と契約を交わしている。そちらに取り立てるのは道理だ」
「知らんな。そんな契約書など見たこともない。何かの間違いではないか?」
契約書は受け取っていた。確かにユルール候爵の名前入りのものを。心優しいウィレムが、これはただの書面上のやり取りだけだからと、無視してくれればいいと言ってくれていた。
金などは貴族がする話ではなく、商人がするもの。貴族が金の話をするなど恥でさえあった。いやしい身分を晒しているようなものだ。
「残念だが、こちらには心当たりが無い。…ああ、娘と結婚したそうだな。おめでたい。修道院に入れたはずだが、いつの間にかそちらの家に収まっていたのだな。あそこの修道院は戒律が厳しいと聞いていたが、婚姻を斡旋する風紀の乱れがあったとはな。驚きだ」
話をすり替えて、ランドリット侯爵は自分の聞きたいことを聞いた。てっきり相手はこの話をしに来たものだと思っていたが。
ユルール候爵は首を傾げて、ああ、と言った。
「まだその話を?家令に話をしたからもう済んだものと思っていた」
ぬけぬけと言ってみせたユルール候爵に、怒りを抑えきれず机を叩いた。
「…無礼だろう!親である私の了解も取り付けずに勝手に妻にするなど!」
「捨てたのはそちらだ。こちらは拾っただけ。安心しろ。結婚したからと言って、ランドリット侯爵の親類になろうとは思わない」
「当たり前だ!誰が貴様を息子だと思うものか。それにアンを捨てた訳では無い。系譜にも残してある」
「なら何故アンを毒殺しようとした」
冷たい眼差しに、縫い留められたように動けなくなる。だがそれは一瞬で、直ぐに正気に戻ったランドリット侯爵は、身を乗り出さんばかりに前のめりになる。
毒殺?アンを?聞き間違いかと錯覚するほど、非現実な言葉だった。
「…何の話だ?」
「修道院に指示していただろう。黒のベールに毒を塗り込んで。私が連れ出さなければ一ヶ月も持たなかった」
「何の話をしている。アンを毒殺?私が指示したというのか」
「他に誰がいる。教えてくれよ」
突拍子もない話に、理解が追いつかない。いや、こんな話はデタラメだ。
「でっち上げて、アンとの結婚を認めさせようとしているのだろう。変な話を持ち出すな」
馬鹿にすると、ユルール候爵はこちらを凝視した。見定められるような眼力に、ランドリット侯爵はたじろぐ。
「な、なんだ」
「であれば、私は毒を塗った犯人を捕まえなければならない」
「本当にそんな話があるのなら、そうすればいいだろう!私は知らない!」
「──トビアス!」
ユルール候爵が声を張り上げる。地に響くような凄みのある声に、ランドリット侯爵はまたも怯む。
呼びかけに、扉を開けて入ってきたのは、ユルール候爵の従者だった。同じく長身の若い男は、持っていた箱を開けて、中から丸めた紙を取り出した。
「こちらです」
「下がっていろ」
当事者だけが分かる短いやりとりを終えて、従者は部屋を出ていった。
「もう一度聞くが、アンを毒殺しようとした訳では無いのだな?」
「何度も言わせるな!本当に無礼な奴だな!」
「では、これを」
従者が取り出した紙を差し出される。訝しみながら受け取り広げて──その内容に目を疑う。顔を上げるが、ユルール候爵の表情は全く変わらない。
「これは──」
「調査報告書です。毒のベールをアンに与えたのは、ブリアナという修道女だった。ブリアナを拷問にかけたところ、指示したのはダジュール侯爵夫人、つまりメアリーだった。俺はてっきり卿から指示を受けたものだと思っていたが…」
言葉が途切れる、と同時に舌打ちが聞こえる。
「何も知らないようだな。となると下手人はメアリーか」
「こんなことは嘘だ!いくらメアリーがアンを嫌っていると言っても、こんな事までするような娘ではない」
「嘘か真か。それは陛下がお決めになる」
「陛下…?陛下だと?」
す、と指を指される。その先が手元にある報告書だったので更に読み込んで見ると、一番下、記名欄に、当代宗主国の皇帝の名があった。
この毒殺の報告書は既に皇帝の目に留まり、記名があるということは、了承を得たということ。毒殺の騒ぎを起こしたのはメアリーだと、断言しているようなものだ。
紙が震える。否、己の手が震えていた。いきなりやって来て、娘との結婚祝いかと思えば、こんな、大事件を持ち込んでくるとは。
「ランドリット侯爵ジェローム卿」
ただ名を呼ばれただけなのに、体が震える。男の冷たい相貌が、まだ若輩のくせに、鋭く威嚇してくる様は、歴戦の勇士のようだ。
「重ねて聞くが、卿は、アンに毒を盛ったのではないんだな?」
これはまるで蛇に睨まれたカエル。そんな気分だ。そんな気分を、初めて味わって、ランドリット侯爵は戦慄した。
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