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二章(アーネスト視点)
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しおりを挟む「脈は安定しています。呼吸も正常ですので、気を失うというよりは、眠っているだけです」
医師の診断に、アーネストは取り敢えずは安堵する。だが予断は許さない。目を覚ますまでは、安心できない。
アーネストは目覚めるまで、アンに付き添った。ソニアも下がらせて、二人だけ。燭台一つだけを灯して、眠っているアンの顔を見下ろした。
眠っているアンは、憂いを帯びた常の顔は消え失せて、穏やかに見えた。眠っている時しか安心していられない生活など、体にも心にも負担だったろう。彼女を縛るのは止めて、解放してあげなければ。
「…すまない」
一人つぶやく。謝罪の言葉は音にもならず、暗闇に消えていった。
朝方にソニアがやって来た。音を殺すように扉を開けたソニアと目が合うと、彼女は驚いた顔をした。
「まだ起きてらっしゃったのですか?…もしや、一晩中?」
問いには答えず、顔を戻す。アンの眠りを妨げないように、そっと手を離す。握っていた手は、熱を共有してほのかに温かくなっていた。
「ソニア、後を頼む。彼女が起きたらいつものように頼む」
立ち上がり、アンに背を向ける。扉近くに控えていたソニアが近づく。
「…どこへ?」
「自分の部屋で休む」
「ここは夫婦の寝室ですよ。旦那様もお休みになれる場所です」
アンを起こさないように声を落として会話する。ソニアの言い分に、アーネストは首を横に振る。
「彼女が休めない。ソニア、どいてくれ」
扉の前に立つソニアは首を横に振った。
「時間が解決すると言いましたよ私は。今ご一緒しなくていつ共に過ごすと言うんですか」
「昼間に話せばいい」
「ではあちらをご覧になってください」
ソニアが差したのは、アンが寝ているベッドだった。先まで握っていたアンの腕が、ベッドから投げ出されていた。
「旦那様が手を離されてから、ああなりました」
「…………」
「無意識に、旦那様を求めていらっしゃるように見えませんか」
手を繋いでいた。一晩中。手を離して、寒くないようにとアンの腕を上掛けの中に入れておいたのに。白く小さな手は、ソニアの言う通り、誰かを求めてのように思えた。
それが自分でないと分かりきっていた。同じ顔をした別人を求めて、彷徨ったのだ。
「……………」
だが今は、その手がいじらしくてたまらない。たとえ身代わりでも必要とされるなら、アーネストはそれでも構わなかった。
アーネストが立ち尽くしている間に、ソニアは部屋を出ていった。もう朝になるが、気を遣って起こしには来ないだろう。誰も踏み入れない密室の中で、アーネストはもうこれで最後のつもりで、そっと寝台に潜り込んだ。
見慣れた寝顔。結婚してから、ほとんど寝顔しか見たことがない。その寝顔さえも、もう見ることは叶わなくなる。美しい横顔を、アーネストはいつまでも見守っていた。
僅かな振動で目を覚ます。顔をあげると、アンの顔が目の前にあった。アンの体に覆いかぶさるように密着させて、眠っている間にこんなことをしてしまっていたらしい。
身を引こうと体を起こす。連日の激務と、寝不足がやって来て、目眩がする。起きていられず、倒れ込む。鼻先がアンの首元に当たる。
名を呼ばれる。囁きのような声。アーネストと呼んでくれた嬉しさよりも、申し訳無さがやって来る。
ちゃんと話さなければ。アーネストはアンの首元に顔を埋めたまま切り出した。
「──お前が、兄を忘れられないのなら無理強いはしない。兄を忘れろとは言わないが、今は俺が夫だ。少しくらいは俺にも、何でもいいから親愛を向けてほしい。それが俺が出来る精一杯の誠意だ」
かなり未練がましい懇願だった。本音でもあった。諦めなければと思いながら、離縁だけはどうしても言えなかった。
「お、お待ち下さい。私、全然そんなこと思ってません。ウィレム様は確かに婚約者でした。でももう何でもありません」
アンの言葉に、一気に目が覚める。アーネストは顔を勢いよく上げた。
「何でもない…?だ、だったら…何故拒む。俺は愛していると言ったのに」
顔を近づけて言うと、アンに顔を背けられる。長いまつ毛が頬に影を落とすのを、この上なく美しいと思ってしまう。
「だって…こんな顔…無理に私を愛する必要はありません」
まだそんなことを?こんなに愛らしく、美しい顔なのに。
ソニアの言葉を思い出す。時間が解決すると。同じ時を過ごせば、お互いの気持ちも分かると。
最初の出会いを思い出す。花を見て綺麗だと思う。同じ感情を共有して、一つになる。
今が、その時だった。今まさにあの花園を追体験する。アーネストは腹をくくった。
「俺がいつ、お前の顔を醜いと言ったんだ」
「…言われておりません」
「俺を嫌いでもない。兄に未練があるわけでもない。醜い醜いと自分で言い続けて、俺の言葉を聞きもしない」
「すみません…」
「もしお前が、お前の言う醜い姿でないとしたなら、俺の『愛している』を信用するか?」
分かって欲しい。その一心だった。
沈黙が降りる。既に日は登って、鳥の鳴き声が今は、けたたましく感じた。
アンの瞳には、アーネストが映っていた。彼女も同じことを思っているに違いない。そうであって欲しかった。
「本日は、お仕事はあるのでしょうか」
アンは起き上がってそう問いかけた。
政務には終わりが無い。故にいつ休むかは、アーネストがいつでも決められた。
「──いや、何もない」
するとアンは胸の辺りで両手を握りしめた。
「貴方様の妻となって半年経ちました。妻としての役目を果たせておりません」
「子などいらないと言っただろう」
「夫婦の営みの話です」
初めは何を言っているのか分からなかった。意味に気づいて、アンがアーネストの手を取って自身の腹に当てた動作で、確信に変わる。
「私が間違っておりました。お許しください。私…馬鹿で…愛されてるなんて分からなくて」
「そう言うな。俺を信じてくれるのなら、それでいい」
「アーネスト様さえよければ、どうか」
アンが今度は胸にアーネストの手を当てようとした。意図に気づいて、慌てて手を引っ込めた。
「駄目だ」
「……………」
「嫌というわけでは無い。アン、まだお前は体力が戻っていない。今、身体を労らなければ、二度と回復が望めなくなる。養生してほしい」
「…医者の方は、診察だけして何も教えてくれません」
「俺が口止めしていた。悪いことを教えたくなくて。初めは、もう長くないとまで言われていた。それが今は、人並みに生きられるようになるとまで言われている。やっとそこまで回復したんだ」
医師の話を伝えると、アンは少し困ったような顔をした。口を引き結んで、怒っているようにも…否、これは───
アンの気持ちが分かって、アーネストは笑いかける。
「──愛している」
彼女に、この言葉が伝わっているのがはっきり分かった。彼女は、泣きそうな顔で、あの時のように笑い返してくれた。それが素直に嬉しかった。彼女の笑顔が自分の全てだった。幸福感で満たされていく。この瞬間を一生忘れない。そう決意した。
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