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三章
6(従者トビアス視点)
しおりを挟む大きなため息が聞こえる。何度目になるだろうか。従者のトビアスは、ちらりとのぞき見る。主人のアーネストは執務台に頬杖をついて、空を眺めていた。机の上には捌かなければならない奏上が溜まっているのだが、そちらには目もくれない。
昔から仕えているトビアスでも、この事態に遭遇するのは初めてだった。
初めて会ったのは、トビアスが十になる頃だった。庭師の息子で、本来ならば従者に選ばれない身分だったが、ほぼ同い年なのを理由に大抜擢された。喜んだのも束の間、お仕えする主が実は家族から冷遇されていて、庭師の息子を従者に据えたのは、ただのいやがらせの一環だと知ったのは、屋敷に入って直ぐのことだった。
主は、いつも感情の無い、冷たい人間に見えた。子供とは思えない達観さもあって、近寄りがたい人だった。己の立場をよく理解しているのか、無口で周囲とは必要以上に会話をせず、いつも一人だった。トビアスにも勿論同じ対応だから、彼と一度も子供らしい遊びを一切しなかったのは、身分差によるものだけではないだろう。
孤独を好むような、突き放すような態度が、仕える者たちを守るための行動だと知るのは、愚かにも随分後になってのことだった。
「──なにか、悩み事ですか?」
主人の終わらないため息に耐えかねて、意を決して尋ねてみる。何でも一人で決め込んでしまう主人だが、ユルール候爵位を得てからは、自分を虐げる家族の縛りから解き放たれてなのか、少しずつ周囲の者に相談事をするようになっていた。奥方を迎えられてからは特に。トビアスは奥方と関わる機会が無いからあまり相談されないが、侍女のソニアとは頻繁にやり取りしているのを、何度か目にしていた。
「ため息が漏れております。私でよければ、相談に乗ります」
とも言ってみる。主は頬杖をついたまま、ゆっくりとトビアスに顔を向けた。無口な事が多い主だが、今はなんだか、心ここにあらずと言った様相で、反応が鈍い。
「…トビアス」
「は」
「性欲を抑えたいんだが」
「はい。…え?──は、はぁ!?」
聞き間違いか?いやそんなはずはない。音はちゃんと聞いた。遅れて言葉を理解して、情報が処理されずに聞き間違いと勝手に勘違いしてしまったのだ。それぐらい、主の発言は突拍子もなかった。
まさかの相談内容に、トビアスは混乱しているせいなのか、言葉足らずな主のせいなのか、事態が把握出来ない。原因があって結果がある。なぜ急に「性欲」などと言い出したのか。自分から言い出した手前、恐れ多くもトビアスには話を聞く必要があった。
「あ、あの…その、性欲とは?」
「止められないんだ」主は恥じらいもせずに言う。「彼女の前では理性的になれない。何か無いか?」
「あ、あの…?」
「あんなに毎日して、アンに身体だけ好きなのかって思われてないだろうか?」
「は…はぁ…」
「本当は遠駆けに行きたいし船にも乗せたい。オペラを観に行ったり動物園にも連れていきたい。他にしたいことはたくさんあるのに、馬鹿みたいにある仕事のせいで何処にも連れて行ってやれない。本一冊読む時間すらない。あるのは寝る時間だけ。となると一つしかやることが無くなってしまう」
「…補佐官を付けてはいかがですか?」
「既に二人居るの知ってるだろう。機密上これ以上増やせない」
「臨時に雇うのは」
「お前やってみるか?」
「無理です」
主は大きくため息をついた。
「アンに会いたい」
「お呼びしましょうか?」
なんとかそれだけを言う。動揺は収まらない。訊ねたのはこちらだが、でもこんな話だとは、思いもしないじゃないか。
主は不機嫌そうにこちらを睨みつけてきた。
「お前話聞いてないだろ。昨夜もアンを散々抱いて、彼女はまだベッドの中だ。休ませてやりたい。会いたいが、会うと自分を抑えきれなくなる。で、性欲を抑える方法知らないかって相談してるんだぞ」
そこまであけすけに言わなくても。トビアスは口ごもる。性欲を抑えるなど、そんなこと考えた事も無かった。トビアスが知るのは「元気になる」方で、逆など聞いたことも無い。
「薬は却下だ。アンにも影響が及んだら大変だからな」
付け足されても困る。トビアスは、若干後悔しながらも、何とか知恵を振り絞った。
「先に発散されては?」
「発散とは?」
「え、ええと…先に…その、自分のを…慰めるといいますか…」
「…なるほど」
真顔で納得するものだから、トビアスの方が恥ずかしく思ってしまう。決して初心な訳では無いのだが、こんなうわついた話一つすらしてこなかった関係で、いきなり夜の話は少し、いやかなり恥ずかしい。
トビアスの答えは、それなりに満足のいくものだったらしい。奏上書を手に取るその顔は、なんとなく晴れやかに見えた。
「話してみるものだな」
「そ、そうですか」
「アンもよくソニアに相談しているらしい。先に俺に話してくれと言ったが、やはり話しにくいこともある。後で訂正しておこう」
奏上を広げる。ようやく仕事をしてくれる気になり、話も終わったようなので一安心する。
トビアスは、彼が集中しやすいように視界の外に移動する。
「──ああ、トビアス」
「はい」
「来月にはご子息が入国される。ロワールの者たちから趣味嗜好を聞いておいてくれ」
「ご心配なく。既に把握しております。必要であればいつでも書類をお渡しできます」
「助かる。後で持ってきてくれ」
てっきり主がため息をついているのは、こちらの話だと思っていた。何せ来月には、養子を迎えられるのだから。トビアスは茶でも用意しようと、部屋を下がった。
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