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三章
8(アーネスト視点)
しおりを挟むアーネストが所属する帝国の名を、ダヴィアと言った。
ダヴィア帝国は大小の国を統括し、様々な民族の自治をも許した連合王国である。それ故に頂点に君臨する皇帝の権威は、周辺の王国からすれば弱い。先のロワール王国との戦いで、ダジュール候爵が、アーネスト一人を差し出したのが良い例だ。思うように兵が集まらなかったものの、何とか傭兵を雇い辛くもニッヒラビを制圧出来た。
だからと言って、皇帝の権力が弱い訳では無い。ニッヒラビをユルール侯国と名を改め、次男坊のアーネストを候爵に据えたのは、ほとんど皇帝の独断であった。その気になれば、貴族たちの爵位の剥奪やすげ替えも行えた。親から子への爵位の継承も、皇帝の許しがなければ行えない。皇帝が気に食わなければ、継承されないこともあった。貴族の栄辱は、皇帝が握っていると言ってもいいようなものだった。
「まぁ、極論だがな」
そこまで説明して、アーネストは間仕切りの向こうを覗き込んだ。視線は下。使用人が最後の仕上げにと首にリボンを結ぶと、小さな子供はそれをちょんちょんとつついていた。
「引っ張るなよ。取れるからな」
小さな子供──レイモンド、五歳になる。黒髪と黒目、白い肌に細い顎、一見すると女の子と間違えられそうな容姿だが、れっきとした男だ。兵隊の人形遊びを好みやんちゃの盛りを見せる一方で、アンが読み聞かせる物語にじっと耳を傾ける。そんな一面もあった。
レイモンドは、一度はアーネストの言うことを聞いて手を下ろしたものの、直ぐにリボンを引っ張って解いてしまった。
「レイモンド」
咎めるように呼ぶと、レイモンドは顔を歪めて首を横に振った。
「父上の話、分からない」
「訛のあるブライトン語だからな」
「ちがうもん!皇帝がどうとかじちがどうとか!父上はいつも難しい話ばっかり!」
分からない!と癇癪を起こして、レイモンドは走り去ってしまった。隣の部屋はアンの居室だ。そこへ逃げ込んだのだろう。
床に落ちた解けた紐を拾い上げ、取り敢えずポケットに突っ込む。
子供と接する機会が皆無だったアーネストにとって、レイモンドの扱いは難しかった。まだああやって怒ってくれるから、何が駄目なのかこちらも気づける。少し前までは怖がられて、話どころではなかった。
レイモンドとの距離が急激に縮まったのは、アンのおかげだった。
アンが襟巻きを仕立ててくれた。密かに編み上げてくれたらしい。レイモンドと揃いの白い毛糸の襟巻きで、二人で巻いて見せるとアンはとても似合うと褒めてくれた。アーネストは喜びを隠さずにアンを抱き上げて一回りすると、それを見ていたレイモンドが自分も、と手を伸ばしてきた。今度はレイモンドを持ち上げて回ると大はしゃぎして、それから何度もせがまれて、何度も回ってみせた。
あの出来事からレイモンドが逃げなくなり、慕ってくれるようになったものの、今度はアーネスト自身の問題が発生した。子供の扱いが全く分からなかった。取り敢えず教育をと思って、あれこれ話してみるのだが、どうもその内容が駄目らしい。正直、レイモンドと何を話せばいいのか分からない。子供の喜ぶ話など知らない。しかし将来の為には、帝王学を学ばせなければならない。うまく雑談と本命を織り交ぜて言えればいいのだが、そこまでの技術をアーネストは身につけていなかった。
事態の収束はアンがしてくれるだろう。アーネストは小椅子に座り、二人がやって来るのを待った。
皇帝の即位記念の式典に出席する為、三人はダヴィア帝国の首都、クリーンに数日前から滞在していた。
皇宮の中でも、他国の王族を滞在させるという部屋を与えられ、使用人も付き、何不自由なく過ごせている。細やかな気遣いに、アンだけでなくレイモンドもリラックスしているようだった。
今日がその即位記念式典の日。この吉日に、自分たちの運命も変わる。アンはもうとっくに覚悟している。まだこの期に及んでも、アーネストは迷い、憂えていた。まだ今なら、何事もなく終われる。だがそれをしてしまったら、アンは一生自分を恨むだろうし、その先に未来は無かった。
覚悟が出来ないのなら、出来ないままで行くしかない。アンが決めた道を、自分が阻むわけにはいかない。
アーネストは心を殺して、殺しきれず、肘掛けを強く握りしめた。
着替え終えたアンがレイモンドを伴ってやって来る。手を繋いで、レイモンドは笑顔ですっかり上機嫌だった。
「母上、とってもきれい。よくお似合いです」
レイモンドがそう褒め称えるのも無理は無い。アーネストもその出来栄えに満足だった。彼女の今日のドレスは、スカートの膨らみが無く、アイボリー色で統一されているから、一見すると貧相に見えるかもしれない。だが、生地は上質なシルクで光沢感があり、スパンコールで刺繍しているから、見る角度によっては、花柄が浮かび上がるようになっている。見る者が見たならば、一級品だと分かる作りだ。
アンは、はにかみながらレイモンドの頭を撫でる。彼に礼を伝えて、アーネストにも同じく礼を言った。
「このような良い物を。ありがとうございます」
「着心地は?慣れない衣装だと疲れるだろう。無理をしないようにな」
「とても軽いです。衣装の細かな調整をお針子さんがしてくれましたので、動きやすいです」
「ならよかった」
最後の仕上げに、とアーネストは用意していたベールを見せる。今までしていた顔を隠すようなベールでなく、網み目が荒いから、相手からもアンの顔が分かるようになっている。
アンの髪に取り付ける。晩餐会で食事をするために、長さも目元までしかなく、鼻から下は素肌が晒されている。
口元は弧を描く。アンはくすくすと笑い出した。
「どうした」
「小さなことです」
「気になるな。教えてくれよ」
笑ったまま、アンはベールの端をつまんだ。
「懐かしいと思っていたのです」
「懐かしい?」
「ベールを頼りにしていた頃を思い出していました。あの時のアーネスト様は、とってもぎこちなくて、不器用な方でした」
ベールが外される。大きな黒の瞳には、アーネストの姿が映っている。まだ再会して一年。ベールが手放せなかった頃を懐かしいと思えるほど、昔では無いのだが。彼女の中では過去のことなのだろう。
レイモンドを迎えてから、アンはベールをしなくなった。顔を隠していると、レイモンドは怖がって近づかなくなるから、自然とベールは使われなくなった。
何よりレイモンドは事あるごとにアンを褒める。「きれい」「かわいい」と言う。自分もあんな風に率直に話せていたらとは思わない。全てがうまく行っているのだから、子供相手に憎らしいなどと思ったりはしない。決して。
アンが自ら外したベールを奪うと、再び髪に取り付けた。不思議そうな顔をするアンと、抗議するレイモンドを無視する。これでいい。今は。次にレイモンドが外したリボンを結びなおす。解くなよと念をおして、アーネストは肩に手を置いた。
「今日はレイのお披露目だ。堂々とな」
歯を見せて、子供はニッと笑う。やんちゃ盛りのレイモンドは、アーネストの腕にぶら下がって足をバタつかせた。
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