【完結】「魔獣と戦う僕より、幼馴染の方がよっぽど危険だった件」

ブヒ太郎

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第26話『大聖堂からの攻防戦(デート後半)』

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昼食を終え、穏やかな午後の陽光が降り注ぐ王都の石畳を、二人は並んで歩いていた。先ほどの馬車事件の興奮も冷め、リアはノクスの隣で、買ってもらったばかりのカーディガンの袖を嬉しそうに何度も眺めている。その姿は、年の離れた兄にプレゼントを買ってもらって喜ぶ、無邪気な妹そのものだった。

「…さっきは、ごめんね」

リアが、ぽつりと呟いた。

「ん?何がだ?」

「馬車…あたしがちゃんと見てなかったから…」

「ああ、気にするな。怪我がなかったんだから、それでいい」

ノクスのぶっきらぼうな、しかし優しい言葉に、リアの胸が温かくなる。そんな穏やかな空気の中、彼女はふと、通りの向こうにそびえ立つ、荘厳な建物を発見した。

「あ、ノクス、あそこに大聖堂があるよ! 寄ってみよ!」

リアが、興味深そうに目を輝かせて指を差す。そこにあったのは、長い年月を経て飴色になった石造りの壁と、天を突くようにそびえる尖塔が印象的な、聖マリアンヌ大聖堂だった。孤児院の片隅にあった、質素で小さな礼拝堂しか知らない彼女にとって、その建物はまるでおとぎ話に出てくるお城のように見えた。

彼女は、有無を言わさずノクスの手を引くと、まるで宝物を見つけた子供のように、大聖堂に向かって駆け出した。

重厚な樫の扉を二人で押し開けると、ひんやりとした神聖な空気が、街の喧騒を断ち切るように彼らを包み込んだ。内部は、想像を絶するほどに広く、高い天井は美しいアーチを描いている。壁一面に嵌め込まれたステンドグラスから差し込む光が、床の大理石に赤や青、緑の幾何学模様を描き出し、まるで宝石箱の中に迷い込んだかのようだった。

「わぁ…きれい…」

リアは、そのあまりの美しさに、ただ息を呑む。
そんな二人を、入口の脇に立っていた、年配の慈愛深そうなシスターが、穏やかな微笑みで迎えてくれた。

「こんにちは、見学ですか?」

「はいっ!」

リアは、聖堂の荘厳さに圧倒されながらも、元気よく返事をした。
シスターは、そんなリアの純粋な瞳を見て、さらに微笑みを深くする。そして、そっと彼女の傍に立ち寄り、静かな声で語りかけた。

「神の愛は、常に我らと共にあります。その感謝のほんの一部を、お示しいただけると…」

そう言って、シスターはローブの袖から、そっと手を差し出した。それは、この大聖堂を維持するための、暗黙のお布施の要求だった。
しかし、孤児院の礼拝堂では祈ることにお金など必要なかったリアには、その仕草の意味が全く分からない。彼女はただ、ぽかーんと口を開けて、シスターの顔と差し出された手を、きょとんとした顔で見比べるだけだった。

(…感謝の一部? なんだろう? 握手かな…?)

リアが本気で握手をしようかと悩み始めた、その時だった。
すっと隣から伸びてきた手が、シスターの手に数枚の銀貨を乗せた。ノクスだった。

「気持ち程度ですが…」

彼は、慣れた様子で、ごく自然に対応する。そのスマートな振る舞いは、リアの知らない「大人」の世界そのものだった。

「ありがとうございます。神の導きがあらんことを」

シスターは恭しく一礼すると、静かにその場を離れていった。
リアは、その一連の流れを呆然と見つめていたが、やがてノクスの袖をくいっと引っ張り、小声で尋ねた。

「…ねぇ、今のなに?」

「お布施だよお布施。教会といっても、完全な慈善団体ではないからね。この美しいステンドグラスを維持するのにも、お金はかかるんだ」

「えぇ!? なんで!? 神様って、もっとこう…寛大で、見返りを求めない存在じゃないの!?」

静寂に包まれた聖堂に、リアの素っ頓狂な声が響き渡る。数人の信者が、何事かとこちらを振り返った。

「妹よ…声がおっきいです…。神に仕えるシスターたちも、霞を食べて生きてるわけじゃないんです…。衣食住は必要なの」

ノクスは慌ててリアの口を手で塞ぎながら、必死に声を潜めて囁いた。そのフォローは、世間知らずな妹の失態を庇う、兄のそれだった。

「そ…そうなんだ…」

リアは、初めて知る現実に、素直に驚き、そして納得した。彼女にとって、また一つ、ノクスから新しい世界を教えてもらった瞬間だった。



シスターは、リアが素直に納得したのを見て、慈愛に満ちた笑みを崩さぬまま、再び二人の元へとにじり寄ってきた。その動きは、どこか商売上手な老舗の女将を彷彿とさせる。

「ウフフ…ご理解いただき、ありがとうございます。本日は、見学以外に何かございますか?よろしければ神の祝福を…」

その言葉は、さりげなく追加のサービス、つまりは追加のお布施を提案する、熟練の営業トークだった。ノクスが「いえ、見学だけで十分です」と断ろうとした、まさにその時だった。

「いえっ!お聞きしたいことがあります!」

リアが、ぱっと顔を輝かせてシスターの言葉に割って入った。

「はい、なんでございましょう?」

「ここで式は挙げられますか?」

その、あまりにも唐突な爆弾発言に、ノクスの背筋に嫌な汗が伝った。
シスターの目は、商機を見出した鷹のように、キラリと輝いた。

「結婚式でございますか?もちろん、出来ますよ。多少、神への感謝が必要ではございますが…ウフフ。本日は、そちらの内容を聞きに、お兄様をお連れしたのでしょうか?」

完全に、この妹の結婚間近の相談だと誤解している。

「あ…いや、彼女は義理の妹で…」

ノクスが慌てて訂正しようとするが、その言葉は、リアの決定的で、あまりにも嬉しそうな声にかき消された。

「はい!近日中にこの人と結婚する予定なんです!」

そう宣言すると同時に、リアはノクスの腕にこれでもかと纏わりついた。その動きは、獲物を捕らえた蛇のようにしなやかで、有無を言わさぬ力強さに満ちている。既成事実を作ろうという、彼女の鋼の意志の表れだった。

ノクス(あ、、、この流れ…知ってる…。いつも最終的に僕がひどい目に遭うやつだ…)

彼は茫然として、もはや何も言えなかった。完全にリアのペースに巻き込まれている。
しかし、シスターの表情は、先ほどまでの営業スマイルから一転、道徳的な困惑の色に染まっていた。

「その…お兄様と…。近親婚は、この国の法律で固く禁じられておりますが…」

シスターの脳裏では、先ほどのノクスの「妹よ」という言葉が反芻されていた。目の前の若者たちは、禁断の愛に身を焦がす、罪深き兄妹なのではないか。
その、あまりにも真っ当な指摘に対し、リアは胸を張って言い放った。

「大丈夫ですっ!愛があるんで!!」

法律よりも愛が勝るという、あまりにも危険な思想。シスターは完全に言葉を失い、その視線は、ゆっくりと、軽蔑の色を帯びてノクスへと向けられた。

「あの…お兄様?」

その声には、慈愛など微塵も残っていなかった。ただ、得体の知れない変態を見るような、冷たい響きだけがあった。

「ち、違います!違うんです!」

ノクスは、シスターの視線に耐えきれず、必死に弁明を始めた。汗が額から滝のように流れ落ちる。

「その…彼女とは同じ孤児院からの付き合いで、血は繋がっていません!義理の妹なんです…!」

その言葉を伝えた途端、シスターの顔が、まるでスイッチが切り替わったかのように、再び輝きを取り戻した。

「んまぁ!いいじゃないですか! いいじゃないですか!幼い時からの繋がりを、結婚という、より強固な絆にしようと言うわけですね!!とっても素敵だと思います!!」

義理の関係と分かって安心したのか、彼女は先ほどまでの道徳的な困惑をかなぐり捨て、完全に商売モードへと移行した。その変わり身の速さは、もはや芸術の域に達している。

「式はいつになさいますか!?ちょうど日取りが空いてますので、来週末には開けますよ!」

鼻息荒く、畳みかけるような営業攻勢に、今度はノクスがたじろぐ番だった。

「本当ですか!!じゃぁ、すぐ予約しちゃいます!!」

リアが、目を輝かせてその話に食いつく。彼女は本気で、今この場で結婚式の予約をする気満々だった。

「やめろやめろ!そもそも僕たちは、彼氏彼女の関係ですらないだろう!?」

ノクスは、纏わりつくリアを必死に引きはがしながら、手をバタバタと振って否定する。完全にパニック状態だ。
その言葉に、シスターの輝いていた顔が、すっと真顔に戻った。

「あら…そうなんですか…それは、残念ですね」

商売のチャンスを逃し、心底がっかりしたような声だった。

「大丈夫大丈夫、い」

「今からそういう関係にはなりません」

まだ諦めきれないリアの言葉を、ノクスがきっぱりと遮る。
その瞬間、リアの中で何かが切れた。

「うわぁぁぁぁぁ、お兄のけちぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!」

彼女は、神聖な大聖堂の床に、大の字になって転がると、手足をばたつかせて駄々をこね始めた。その姿は、お菓子をねだる子供そのものだった。

「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」

ノクスの、恥辱に満ちた絶叫だけが、荘厳な聖堂に虚しく響き渡った。
シスターの、冷ややかな視線が、痛い。



大聖堂での大騒動をなんとか収拾し、ほうほうの体で脱出した二人は、王都を流れる川にかかる古い石橋の上にいた。先ほどの混沌が嘘のように、辺りは穏やかな午後の光に満ちている。

橋の下の川辺では、数人の子供たちが元気に水遊びをしており、その楽しそうな笑い声が、心地よい川のせせらぎと共に風に乗って運ばれてくる。

ノクスは、橋の欄干に寄りかかりながら、その光景をぼんやりと眺めていた。

「この街もここまで来ると田園風景があるんだなぁ…長閑だな…」

先ほどの騒動でささくれ立った心が、目の前の平和な風景にゆっくりと癒されていくのを感じる。戦場や、リアが巻き起こす日常という名の戦場とは全く違う、穏やかな時間。

リアは、そんなノクスの隣に、そっと静かに立った。彼女もまた、子供たちの無邪気な姿に目を細めている。

「平和だねぇ…」

その声には、いつものような強引さや、計算高さはなかった。ただ、目の前の光景を素直に感じたままの、穏やかな響きがあった。

「そうだな」

ノクスもまた、静かに相槌を打つ。
二人の間に、言葉はなかった。ただ、同じ景色を見て、同じように「平和だ」と感じている。その共有された穏やかな時間が、大聖堂でのどんな祈りよりも、二人にとっては、よほど神聖なものに感じられた。



穏やかな風が、二人の間を吹き抜けていく。リアが、懐かしむようにぽつりと呟いた。

「子供の頃のあたしたちを思い出すねぇ」

「ああ…」ノクスは遠い目をする。「あの時はあの時なりの楽しさはあったな」

彼の脳裏に浮かぶのは、まだ純粋に兄を慕うだけだった、幼いリアの笑顔。その記憶は、ひどく甘酸っぱく、そして少しだけ、胸を締め付けた。

「ぉぃこら、変な思い出を思い出してないか?」

リアが、じろりとした視線でノクスを睨みつけた。その言葉は、今の自分が昔とは違う、歪んだ存在であることを自覚している者の、鋭いツコミだった。

「してないしてない」

ノクスは慌てて首を振る。

「しっかし、こうしてお兄とデート出来るなんて…追っかけてきて正解だったよ…」

リアもまた、幼い頃を思い出しているのか、その表情はどこか感慨深げだった。今のこの瞬間が、彼女にとってどれほど幸せなことか、その横顔が物語っている。
その、あまりにも穏やかで、ロマンチックな雰囲気に、ノクスはふと、彼女の名前を呼んだ。

「…リア」

二人の視線が、橋の上で交差する。リアは、その真剣な眼差しに、心臓が跳ねるのを感じた。彼女は、期待に胸を膨らませ、自然と、その瞳を閉じた。

完璧な流れ。完璧なムード。
だが、ノクスが紡いだ言葉は、その全てを粉々に打ち砕く、完璧なまでの空気の読めなさだった。

「お兄とデートって言うのやめて。僕、変態みたいじゃん」

「‥‥‥‥‥」

リアは、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、真っ白な虚無が広がっているだけだった。

「…ど、どうした?」

ノクスの問いに、リアは、にこっと、聖母のような笑みを浮かべた。

「いいよ。あたしはノクスが変態さんでも。受け入れてあげる♡」

「お・ま・え・が・い・う・な」



先ほどのロマンチックな空気を自ら破壊したノクスは、もはやこの流れを諦めたように、橋の欄干に肘をつき、遠くの景色に視線を逃がしていた。気まずさと、どうしようもない徒労感が、彼の背中から滲み出ている。
だが、リアは違った。彼女にとって、ノクスの失言は新たな攻撃の合図に過ぎない。彼女は、ノクスの隣に一歩にじり寄ると、先ほどの聖母のような微笑みを崩さぬまま、甘い声で囁いた。

「ねぇ、ノクス」

「…今度はなんだ?」

その声は、これから来るであろう理不尽な要求を、既に覚悟している者の響きだった。

「子供何人欲しい?」

「な、ん、の話だ…」

ノクスの声が、微かに震える。

「え?近い将来の話だよ?あたしたちの未来設計。…あ!もしかして、今年中に!?いや、流石にそれは無理だよ、赤ちゃんって十月十日もかかるんだよ!今から作っても、生まれるのは来年になっちゃう!」

リアは、指を折りながら真剣な顔で計算を始める。その思考は、もはや誰にも止められない。

「まてまてまてまてまて」

ノクスは、欄干から身を起こすと、必死に手を振ってその暴走を止めようとする。

「はっ!?まさか、子供はまだいいから、あたしを」

「やめて!そういうのを堂々とお外で言わないで!?」

「じゃぁ、中ならいいの?」

「順序!順序!!付き合うとかそういうのを全部すっ飛ばして、いきなり話が飛びすぎなんだよ!」

ノクスは、常識という名の最後の砦から必死に叫ぶ。だが、リアはそんな彼の抵抗を、楽しむかのように、さらに追い詰めていく。彼女は、ノクスの胸を人差し指でつん、と突きながら、小悪魔のように微笑んだ。

「まぁまぁ、そう固いこというなよノクス。男の子だろぉ?」

「それ、男側のセリフッ!!」

ノクスの魂のツッコミも虚しく、リアの暴走は、美しい夕暮れの空にどこまでも加速していくのだった。



リアとの、もはや痴話喧嘩という名の戦闘行為に、ノクスの精神力は限界に達していた。夕暮れの美しい景色も、今の彼には何の癒しにもならない。ただ、この暴走機関車からどうにかして逃げ出したい。その一心だった。

「…リア」

「なあに、ノクス?♡ やっぱり、あたしの魅力にメロメロになっちゃった?」

「ちょっと読みたい資料があるんだ。少しでいいから、図書館に寄っていいか?」

完全に疲弊しきった声だった。それは、デートの提案などではなく、現実的な用事を盾にした、必死の現実逃避だった。
リアは、そんなノクスの魂胆を見透かしたように、ニヤニヤと意地悪く笑った。

「やだ。って言ったら?」

その言葉に、ノクスは一瞬、絶望の表情を浮かべたが、すぐに諦めたように力なく答えた。

「…なら、諦めるが」

あっさりと引き下がる宣言。それは、もはや彼女と渡り合う気力すら残っていないことの証明だった。
だが、その反応はリアの期待とは全く逆のものだったらしい。彼女は、少しだけ不満そうに頬を膨らませた。

「いや、そこは無理やり連れていってくれると、リアポイント高いです」

また始まった。彼女独自の、謎のシステム。ノクスは、その理不尽な要求に、しばらく無言で空を見つめていた。

「…」

「‥‥‥」

リアが「どうするの?」と、楽しそうに彼の顔を覗き込む。
その瞬間、ノクスの内で、何かがぷつりと切れた。
彼は、おもむろにリアの腰に手を回すと、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。

「よし、行くぞリア」

「うひゃぁ!?ホントにやるの!?まさかホントに!?」

自分から提案しておきながら、予想外の強引な展開に、今度はリアがパニックに陥る番だった。実際にやられると、途端に動揺してしまうのが彼女の可愛いところであり、そして、面倒なところでもあった。

「うるさい。ほら、ついてこい」

「そ、そんな強引にぃぃぃぃ」

ノクスは、腰を引いて抵抗しようとするリアを、半ば引きずるようにして図書館へと向かい始めた。
結果的に、彼女が望んだ通りの展開になったわけだが、その主導権は、いつの間にか完全にノクスの手に渡っていた。



王都図書館の静寂は、まるで聖域のように、外の喧騒を遮断していた。高い天井まで続く巨大な本棚が、知の森のように立ち並び、古い紙とインクの匂いが心地よく鼻腔をくすぐる。窓から差し込む午後の光が、床に落ちた埃をキラキラと輝かせていた。
二人は、その森の最も奥まった場所にある、年季の入った革張りのソファーに腰を下ろした。そこは、他の利用者の視線も届かない、二人だけの隠れ家のような空間だった。

「で、なんの本持ってきたの?」

リアが、ようやく落ち着きを取り戻したのか、好奇心に満ちた瞳でノクスの手元を覗き込んだ。ノクスは、本棚から抜き出してきた、分厚く、そしておそろしく退屈そうな装丁の本を彼女に見せる。

「**『複式簿記詳解』**って本」

「なに!?そのくっそ難しそうな名前の本!」

リアの絶望的な叫びが、静寂な図書館に小さく響き渡る。

「確かに難しいが、仕事上必要な知識でなぁ。買うと高いしコレ」

ノクスの説明は、どこまでも実用的で、ロマンチックの欠片もない。

「なるほど…」

リアは、少しだけがっかりしたような、しかし納得したような複雑な表情で頷いた。

「リアはなんか読みたい本とかないのか?」

「あたしは今の課題図書でお腹いっぱいです…またレポート出さないといけないし…」

「ふむ…僕一人で読んでて暇じゃないのか?」

ノクスはそう言いながら、早速分厚い本のページをめくり始めた。

「まぁ…別にいいかな?」

「…そうか」

少しだけ、静かな時間が流れる。ノクスが真剣な顔で難解な専門書を読み解き、リアはそんな彼の横顔を、ただぼんやりと眺めている。それは、これまでの喧騒が嘘のような、穏やかで、不思議と心地よい時間だった。
だが、その平穏を打ち破ったのは、やはりリアだった。

「で…ぐへへ…こんな人気がない場所を選んで何を狙ってるんだい?ぐへへ」

彼女は、口元を手で隠しながら、完全に邪な考えを隠そうともしない、下品な笑い声を漏らした。
しかし、ノクスは本から目を離さぬまま、淡々と答える。

「そういうことを言うと思ったから、ここにした」

「・・・・・・・・・・・・」

リアの笑い声が、ぴたりと止まる。

「なんだ?」

ノクスは、ようやく本から顔を上げ、きょとんとした顔で彼女を見た。その反応の薄さが、リアの心をさらに抉る。

「…え?あたしって変態だと思われてる?」

「違うのか?」

迷いのない、あまりにも純粋な疑問。それは、もはや肯定よりも残酷な、完全な変態認定だった。

「ち、ちがわい!!」

「・・・」

「ぉぃこら」

ノクスは、そんなリアの抗議を完全に無視し、再び本の世界へと戻っていく。その姿に、リアは悔しさと、そして、なぜか胸の奥がチクリと痛むのを感じていた。
だが、彼女はこのままでは終わらない。

「いいよ、僕はリアが変態でも☆」

橋での意趣返しとばかりに、ノクスが顔を上げて悪戯っぽく笑った、その瞬間だった。
リアは、顔を真っ赤にして俯くと、もじもじしながら、震える声でこう言ったのだ。

「いや、ちょっと、というか凄い胸がトキメイタというか、ドキドキするというか…」

ノクスの、勝利を確信していたはずの笑顔が、ぴしりと凍り付いた。

ノクス(…本物っ!?)

彼の予想を、リアの反応は遥か斜め上に超えてきた。からかい返したはずが、彼女にとっては最高の褒め言葉として受け取られてしまったのだ。

「あ、あたしたちって相性…いいんだね」

顔を赤らめ、潤んだ瞳でこちらを見つめてくるリア。そのあまりの純真な狂気に、ノクスの思考は完全に停止した。

「…ソーダネ…」

完全に無になったノクスの、魂が抜けたような相槌だけが、静かな図書館の片隅に、虚しく響き渡った。



静寂が戻った図書館の片隅。ノクスは、もはやリアの常軌を逸した反応にツッコミを入れる気力すら失い、ただ静かに『複式簿記詳解』のページをめくっていた。その横顔は、悟りを開いた賢者のように、穏やかですらあった。
リアは、そんなノクスの様子に満足したのか、先ほどの興奮が嘘のように落ち着きを取り戻していた。

「うへへ…」

彼女は、幸せそうな、そしてどこか気の抜けた笑い声を漏らしながら、こてん、とノクスの肩に頭を乗せた。そして、安心しきった猫のように、彼の腕に自分の身体をすり寄せる。

「ちょっと…安心した…ノクスを取られる心配が少し減った…かも」

吐息と共に囁かれた言葉は、彼女の本心だった。今日一日、ノクスが見せた不用な優しさ、そして、自分をからかいながらも、決して突き放そうとはしない態度。その全てが、彼女の乾いた心を満たしていた。

ノクス(どういうことっ!?変態同士仲良くしましょうってこと!?僕ノーマルなんですけど!!)

しかし、ノクスの内心は、穏やかな水面の下で荒れ狂う嵐そのものだった。リアの言葉を、彼は全く別の意味で解釈していた。変態認定されたことを、彼女は「仲間」として認められたと勘違いしているのではないか。その恐るべき発想の飛躍に、彼の心のツッコミは、もはや悲鳴に近い。

それでも、彼はリアを振り払わなかった。諦め、という名の優しさ。あるいは、この心地よい重みに、少しだけ絆されてしまっているのかもしれない。
5分ほど、ただ黙って本を読んでいると、肩にかかる重みが少しずつ増していくのを感じた。横目でちらりと見ると、リアがすーすーと穏やかな寝息を立てていた。

「…黙ってると確かに綺麗だよなぁ…」

ノクスは、思わず本音を漏らした。その寝顔は、かつて孤児院で見ていた、無邪気な少女のそれと少しも変わらない。いつから、こんなにも複雑で、面倒で、そして、目が離せない存在になってしまったのだろう。その思いは、恋愛感情というより、失われた時間への、どうしようもない懐かしさに近かった。

それから、二時間が過ぎた。
閉館を告げる柔らかなチャイムの音が、静寂を破る。

「ンぁ…ん?」

リアが、身じろぎしながらゆっくりと顔を上げた。

「起きたか、よく寝てたな」

ノクスが、本から目を離さずに言う。

「ふぁぁぁ…よく寝たかも、30分くらい寝てた?」

「2時間だ。そろそろ閉館だから起こそうかと思っていた」

「へ!?2時間」

「うん」

リアの目が、驚きに見開かれる。そして、次の瞬間、その顔は羞恥で真っ赤に染まった。

「2時間寝顔見られてた!?もしくは身体を!?…いや、身体は見られてもいいか」

「いいんかいっ!!」

思わず、ノクスのツッコミが炸裂する。

「べっつに減るもんじゃないしー」

開き直ったリアの、そのあまりにもオヤジ臭いセリフに、ノクスは再び言葉を失った。

ノクス(やはり中身はおっさん!?)

「って、まぁいいか。ほら、閉館近いから出るぞリア」

「うんっ!次はどこ連れてってくれるの?」

図書館を出て、夕暮れの街を並んで歩く。リアは、もうすっかりいつもの調子を取り戻していた。

「そろそろお腹減ったろう?夕飯食べに行こう」

ノクスの、ごく自然な提案に、リアの足がぴたりと止まる。

「やっったっ!」

子供のように飛び跳ねて喜ぶリア。

リア(………いや、何気に今日、ずっと一緒に居るよな…自然と夕食食べに行く流れに…これは…まさかっ!!)

朝から始まり、服を買い、パフェを食べ、昼食をとり、大聖堂で騒ぎ、橋の上で語らい、図書館で眠り、そして、これから夕食へ。一日中、途切れることなく、二人は共にいた。その事実に、リアの恋する乙女の妄想は、もはや限界を知らなかった。


夕暮れの喧騒が嘘のように静まり返った裏路地。ノクスが案内したのは、昼とは違う、少し高級感のあるレストランだった。磨き上げられた真鍮のドアノブ、控えめな灯りが漏れる小窓。店の前には、昼の店のような親しみやすい価格表は見当たらない。その佇まいは、選ばれた者だけが足を踏み入れることを許される、秘密の隠れ家のようだった。

「まぁ、予約してないけど、大丈夫だろ。混むような店でもないし」

「ちょちょちょちょちょちょ!!!混むような店でもないって、それって高くて気楽に入れないってことじゃないの!?」

リアが、悲鳴に近い声でノクスのジャケットの袖を掴む。その指先は、これから訪れる未知の世界への恐怖で、微かに震えていた。

「そうだけど?」

「そうだけど!?いや、もっと安い店でいいよ!!屋台の串焼きとか!」

「大丈夫大丈夫。1回ここ来てるし」

ノクスが、うっかり口を滑らせた。その瞬間、リアの顔から血の気が引いていく。彼女の瞳が、ゆっくりと、しかし確実に、怒りの色に染まっていくのを、ノクスはまだ知らない。

「・・・は?誰とよ」

「…」

「まっった、あ・の・お・ん・な・かっ!?」

「…確かにあの女もいたが、局長もレーヴェさんも居たから…」

「…そのメンツはなんの集まり?」

「仕事だよ仕事。ほら、入るぞー」

「ぐぬぬ…なんか余裕があるお兄、むかつく」

ノクスが躊躇なく扉を開けると、そこは別世界だった。高い天井には豪奢なシャンデリアが輝き、床には足音を吸い込む深紅の絨毯が敷き詰められている。壁には重厚な絵画が飾られ、テーブルの上では銀食器がキャンドルの光を反射して、星のようにきらめいていた。

「…うわ…何ここ…お城?」

「いらっしゃいませ、何名様でございますか?」

「2名です」

「承知致しました。当店のご利用は初めてですか?」

「いえ、仕事で何度か」

「何度か!?」

リアの小声のツッコミに、ノクスは振り返り、人差し指を口に当てる。その仕草は、まるで悪戯を嗜める兄のようだ。

「はいはい、リアくんは黙ってようねー」

「ぐぬぬ…」

案内人は、二人のやり取りとノクスの落ち着いた態度から、支払いの滞りはないと判断したのか、にこりと笑い、二人を奥の個室へと案内した。
個室は、外の喧騒とは完全に隔絶された、二人だけの空間だった。柔らかな間接照明が、磨き上げられたマホガニーのテーブルを照らし出し、壁には抽象的な現代アートが飾られている。窓の外には、ライトアップされた小さな庭園が見え、ロマンチックな雰囲気を演出していた。

「お飲み物は?」

「月の涙で」

「承知致しました」

案内人が静かに去っていく。リアは、ふかふかの椅子に浅く腰掛けたまま、落ち着かない様子で周囲を見回していた。

「ね、ね、月の涙ってなに?そんな名前のお酒、聞いたことないよ」

「ロゼワインだよ。ここの名物で、月の光を浴びながら熟成させた葡萄を使ってるらしい。飲みやすくて美味しいよ」

「へぇ…。でも、お高いんでしょう…?」

「んまぁ、その辺のお店のワインよりも10倍くらいの?」

「いや!高いわ!高すぎるわ!!なんだ!?あとで身体で払えってか!?」

リアの、あまりにもストレートな、そして品のない言葉に、ノクスの表情がすっと冷えた。

「リア」

「あひゃぃ!」

彼の、低く、静かな声。それだけで、リアの背筋が凍り付く。

「はしたないですよ、そんなこと言うのは」

「…すみません…」

ノクスが(うんうん、今のはお兄ちゃんらしい)と一人頷いていると、別の給仕がやってきた。

「本日はご来店いただき、誠にありがとうございます。本日は、狩人コースと海神コース。どちらになさいますか?」

「かり、、、?わだ…つみ?」

「肉か魚か、どっちがいい?」

「お肉でっ!」

「では、狩人コースでお願いします」

「承知致しました。さきにこちら食前酒の月の涙でございます」

給仕が、グラス2個と、美しい曲線を描くボトルを銀色のワインクーラーに入れて、恭しくテーブルに置く。

「ボトルで!?」

グラスに注がれる、夕焼けのような美しいロゼ色の液体を、リアはまじまじと見つめていた。その輝きは、まるで宝石のようだ。
給仕が会釈して出ていくと、リアはじっとりとした目でノクスを眺めた。その瞳には、羨望と、嫉妬と、そして、底知れない独占欲が渦巻いていた。

「なんだ。目が怖いぞ。なんか言いたいことあるのか?」

「ある」

「どうした?言ってごらん?」

「ますます逃がさないという決意が更に高まったよ。って」

「こわっ!?…まぁ、とりあえず、飲もう。…じゃぁ…」

ノクスが、その不穏な空気を断ち切るように、グラスを掲げる。

「祝杯を」

「二人の明るい未来にっ!」

「怖いって!!」

カチン、とグラスが触れ合う澄んだ音が、静かな個室に響いた。
痴話喧嘩をしながらも、リアはワインを一口飲む。フルーティーな香りが鼻に抜け、甘く、しかしすっきりとした味わいが口の中に広がった。

「ん…これ甘くて美味しい」

「一応アルコール入ってるから、ぐいぐい飲むと潰れるからな?」

慣れた手つきでグラスを傾けながら、ノクスが応えた。

「潰れたら、介抱してくれる?お部屋まで連れてってくれる?」

「ん、そりゃな?」

「ゴフッ!?」

「どうしたどうした!?今日のお前おかしいぞ」

「おぉ、おお、おかしいのはどっちだ!?最近急に攻めてくるな!?潰れたら部屋まで連れてってくれるのか!?」

「…うむ。潰れてるから別に何かされる心配ないし」

「反応が現実的!?」

その後、運ばれてくる豪華な料理の数々に、リアはいちいち子供のようにはしゃぎ、目を輝かせた。前菜のテリーヌの美しさに感嘆し、スープの深みに唸り、メインの肉料理の柔らかさに涙ぐむ。その純粋な反応を、ノクスはどこか愛おしげに、そして少しだけ寂しそうに、ただ静かに眺めているのだった。



夜の帳がすっかり下りた王都の石畳を、二人の影が寄り添うように伸びていた。レストランの柔らかな光を背に、ひんやりとした夜気が火照った頬に心地よい。リアは、美味しい料理とワインのせいか、少しだけ足元がおぼつかない。

「ちょちょちょ、なんか、地面がふわふわする…」

「なんだ、酔ったか? 肩、貸そうか?」

ノクスが、呆れながらも優しい声で言うと、リアはぶんぶんと首を振った。

「酔ってない! それより、さっきの金額っ! は、払おうか! 少しでも!」

「ふふんっ。お兄ちゃん、こう見えて、そこそこ稼いでおりますっ!!」

ノクスは、わざとらしく胸を張って見せる。その、普段は見せない子供っぽい仕草に、リアは一瞬、言葉を失った。

「ご、あ、あ、あ」

目の前が、真っ白になる。それは、金額への驚きだけではない。ノクスの、不意に見せた余裕と優しさが、彼女の心の許容量を完全に超えてしまったのだ。

「まぁ、なんだかんだ楽しかったな。リアの新しい反応も面白かったし」

「こ、こ、こ」

「?」

ノクスが不思議そうに首を傾げる。リアは、俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。

「…今度のデートは、あたしが払うから…」

「………」

ノクスの、憐れむような、それでいてどこか温かい沈黙が、リアの心を抉る。

「なんだその目はぁぁぁぁ」

「まぁまぁ、、、妹よ。無理するな。まだキミ補助隊員なんだし、生活もあるだろ」

「お兄は、生活大丈夫なの?」

「あんま使うことないからな」

その、あまりにも寂しい言葉に、リアの胸がチクリと痛んだ。

「ぐぬぬ…余裕があるお兄が、なんだか腹立つ」

「はははー、普段はやられっぱなしだからなー」

軽口を叩き合いながら、二人は兵舎へと続く道を歩く。その時間は、今日一日の中で、最も穏やかで、自然なものだったかもしれない。

「さて、部屋まで送っていくよ。方角はこっちのほうでいいのか?」

ノクスがそう言った時、リアの足がぴたりと止まった。

「まだ寄りたいとこがある…」

「どこだ?もう20時回ってるし、店も閉まりかけてるけど」

リアは、潤んだ瞳でノクスを見上げると、はっきりと、しかし、どこか恥ずかしそうに言った。

「…部屋」

「…どうした?酔ってるのか?少し休むか?」

「ノクスの、部屋」

「…へ?」

次の瞬間、リアはノクスの手を掴むと、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。

「さぁ!行くよ!」

「だめだめだめ!年頃の娘がそんな!だいたい何かあったらどうするの!?」

ノクスの、もはや母親のような心配性の言葉に、リアはジト目で見返した。

「なんかあったほうが好都合じゃん!」

「ひぃぃ、貞操観念壊れてらっしゃる!!」

「おらぁぁぁ、行くぞぉぉぉぉぉ」

「いやぁぁぁぁ、だめぇぇぇ。今度にしてぇぇぇ」

「ちっ…!」

「舌打ちやめなさい。みっともない」

ノクスがため息をつき、歩き出そうとするが、リアは動かない。

「どした?やっぱ酔ったか?」

「今度っていつよ」

「今度です」

「だから、いつ!?」

「やっぱ…あの女のほうが…」

リアの瞳に、再び嫉妬の炎が宿り始める。その面倒な気配を察知したノクスは、咄嗟に、そして、致命的な口約束をしてしまった。

(なんと言えばいいか…付き合う事になったら、とか言ったら、今から付き合おう!とか言い出すし、この子…あ、そうだ)

「10回目のデートでな」

その言葉が放たれた瞬間、リアの顔が、ぱぁぁぁっ、と満月のように輝いた。

「やったやった!!なら明日から毎日デートすれば、9日後には!!」

「それは流石に破産します」

ノクスの悲痛な叫びは、美しい王都の夜空に、虚しく吸い込まれていった。



リアが住む女子寮の簡素な門の前で、二人はようやく立ち止まった。夜風が、火照ったリアの頬と、疲れ切ったノクスの心を優しく撫でる。今日一日、街の喧騒の中を駆け巡った二人の、長いようで短かったデートが、今、終わろうとしていた。

「んじゃぁ、今日はここまでな」

ノクスが、ようやく解放されるとばかりに、安堵のため息混じりに言う。

「いいじゃん、いいじゃん。あたしの部屋寄っていきなよー」

リアは、名残惜しそうにノクスのジャケットの袖を掴む。その瞳は、ワインのせいか、あるいは別の何かのせいか、潤んでとろりとしていた。

「寄りませんー」

「一日歩いて疲れたろー?一緒にシャワーでも浴びようぜー」

そのあまりにもストレートな誘いに、ノクスはもはや驚きもせず、ただただ無表情に首を横に振る。

「浴びませんー」

「減るもんじゃないのにケチー」

「メンタルは減りますー」

「だから、あたしと一緒にシャワー浴びれば、色々癒してあげるってー」

その、どこかで聞いたことのあるようなオヤジ臭い口説き文句に、ノクスの表情がすっと消えた。彼は、リアの瞳を真っ直ぐに見つめると、静かに、しかしはっきりと、彼女の名前を呼んだ。

「リアくん」

「あ、はい」

その、いつになく真剣な声色に、リアの背筋がぴんと伸びる。

「言ってる内容が、フィナさんみたいなおっさんになってきてるから、やめて」

ノクスの言葉は、淡々としていた。だが、その一言一言が、リアの心に深く突き刺さる。

「それだと僕、好きになれない」

「!?!?!?」

リアの瞳が、驚きに見開かれる。彼女の頭の中で、ノクスの最後の一言が、何度も何度も反響していた。『好きになれない』。それは、彼女が最も恐れていた言葉。しかし、その後に続くはずの絶望は、彼女の心には訪れなかった。

(え!?…え!?!?)

彼女の思考が、猛烈な速度で回転を始める。

(ふざけたこと言わなくなれば…あたしの事を、愛してくれるってこと!?)

それは、絶望からの、あまりにも都合の良い、しかし彼女にとっては唯一の光明だった。

(それって…ある意味プロポーズじゃ!?)

長い、長い沈黙の後、彼女は爽やかな笑顔でこう応えた。

「気をつけるね♪ノクス」

その、あまりにも素直な返事に、今度はノクスが驚いたが

「…(なんか凄い怖いんだけど…)わかれば宜しい。じゃあ、ちゃんと温かくして寝ろよー」

ノクスは、ひらひらと手を振って彼女に背を向けた。自分が、とんでもない攻略のヒントを与えてしまったことなど、露ほども知らずに。
リアは、去っていく彼の背中を、じっと見つめていた。そして、彼の姿が夜の闇に完全に消えた後、彼女の顔に、満面の、そして、どこか獰猛なまでの笑みが浮かんだ。

一人、自室へと続く夜道を歩きながら、ノクスは今日一日を振り返っていた。
リアの、緊張した顔、嬉しそうな顔、拗ねた顔、そして、時折見せる、驚くほど女の子らしい仕草。そのどれもが、彼の心を少なからず揺さぶっていたのは事実だった。
そして、何より…最後の、あの貞操観念の欠片もない、おっさんのような誘い文句。

「…普通逆じゃね?」

思わず、独り言が漏れた。
男が女を口説き、女がそれをいなす。それが世の常識のはずだ。だが、自分たちの関係は、どうしてこうも歪なのだろう。
そのどうしようもない現実に、彼は苦笑するしかなかった。

「まぁ、最後の笑顔は良かったかな。…なんか裏がありそうだけど…」

彼の予感は、悲しいかな、的中することになる。
今日のデートは、果たして一歩前進だったのか、それとも、ただただ混沌を深め、彼女に新たな武器を与えてしまっただけだったのか。
答えは、まだ夜の闇の中だった。

―――第27話へ続く
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