【完結】アンダーテーカーの手 外伝 ― ところどころ

なな

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後ろ姿(改)

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 私は月岡はな。五十四歳……いや、五十五歳になったのかもしれない。
 記憶障害を持つ、左利きで、左半身不随の女。
 これは、私の、ところどころの記録だ。

 顔が思い出せない人に一目惚れした。
 名札も見ていない。
 ちゃんと正面から見た記憶がない。でも会いたいんだ。
 いま思えば、どうしてあのとき私は顔を見なかったのだろう、と考える。
 けれど、その問いに答えられるほど、私の記憶は整っていない。

 でも、売店でオレンジジュースを取ってくれた姿は残っている。
 冷蔵ケースの前で、少し腕を伸ばして、迷いなくそれを取った。
 私が飲みたそうにしていたのを、見ていたのかもしれない。
 ケースの白い光が腕に当たって、ひどく現実的だった。
 あのとき、私は確かにそこにいた。

「お魚は大事だよ。〇〇酸が体にはとてもいいんだ。骨粗しょう症予防にもなる。」

「ざーんねん。あたし骨粗しょう症の検査でほめられたもん。ちゃんと考えてるもん。」

 栄養士の話みたいな話もしてくれた。
 栄養の講義でも、医療の説明でもなく、ただ日常の延長のように。
 その声の温度は覚えているのに、声の高さや速さは思い出せない。

 病室でビート・イットを流していたとき、
「マイケル・ジャクソン好きなんだー」
 と、少し笑った。その声も、言ったことだけがそこにあって、全部置き去り。
 その“だー”の伸び方だけが、なぜか残っている。

 どうしてそこだけ残ったのかは、わからない。
 顔は浮かばないのに、語尾だけがある。

 平行棒にぶら下がる姿も覚えている。
 体重を預けるように腕に力を入れて、少しだけ肩が下がった。
 私は車いすからその姿を見ている。
 正面ではなく、彼の横から。
 いつも私は、横か、背中しか見ていなかった。

 膝に触れられたこともある。
「落ち着き給え」と何度も言われた。
 手のひらの重さと、膝に伝わる温度は覚えている。
 でも、そのときの顔は、ない。
 目がどこを見ていたのかも、わからない。

 最後の日の後ろ姿も、覚えている。
 少しだけ早足だった気がする。
 振り向かなかった。
 私も、呼ばなかった。
 呼べなかったのかもしれない。

 私の記憶は、ところどころだ。
 点のまま、つながらない。
 それでも、その点の一つ一つは、確かにあった。

 顔は思い出せない。
 それでも私は、あなたがいたことを、覚えている。
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