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第2章:正義を騙る暴露系YouTuberの闇
第16話 見えない敵
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MIIKAの逮捕劇から1週間。
世間はまだその話題で持ちきりだったが、ネットの深淵では、すでに新たな「正義」が産声を上げていた。
佐藤任三郎のオフィス。
壁面の大型モニターには、動画共有サイト「YouTube」のライブ配信画面が映し出されている。
背景は漆黒。中央に座るのは、白い仮面を被り、ボイスチェンジャーで声を加工した男だ。
『ジャッジマン・タナカ』。
チャンネル登録者数は、この数日で爆発的に伸び、すでに50万人を超えている。
『……愚かな大衆諸君、こんばんは。ジャッジマン・タナカだ』
機械的な、しかし煽情的な響きを含んだ声が、オフィスに響く。
モニターの前では、松本愛永が腕を組み、鬼のような形相で画面を睨みつけていた。手には激辛スナックの袋が握りしめられている。
『先日のインフルエンサー逮捕劇。あれを見て「正義が勝った」と喜んでいる単細胞な諸君に、残念なお知らせがある』
タナカは仮面の奥で笑うように肩を揺らした。
『あれは、仕組まれたショーだ。……巨大な権力と、嘘つきなオールドメディアが結託して作り上げた、魔女狩りだ』
画面が切り替わり、愛永がキャスターを務める情報番組のキャプチャ画像が表示される。
そこには、MIIKAを批判的に報じる愛永の顔がアップになっていた。
『特に、この女。松本愛永』
タナカが指を差す。
『彼女は「国民的お姉さん」なんて面をして、正義の味方ぶっているが……その実態は、テレビ局の意向とスポンサーの顔色だけを伺う、操り人形だ。彼女はMIIKAの逮捕当日、なぜか「独占スクープ」を持っていた。……おかしいと思わないか? まるで、逮捕されることを事前に知っていたかのようだ』
鋭い。
佐藤は眉をピクリと動かした。
核心を突いている。もちろん、愛永が知っていたのは、我々が「処刑」を実行したからだが。
『テレビは嘘をつく。新聞は真実を隠す。……真実はネットにしかない』
タナカの声が熱を帯びる。
『俺は知っている。松本愛永が裏で、どれだけ汚い手を使ってライバルを蹴落とし、今の地位に登りつめたかを。……彼女こそが、断罪されるべき「偽りの偶像」だ』
コメント欄が加速する。
『愛永お姉さん、やっぱり怪しいと思ってた』
『テレビなんて信じてる情弱まだいるの?w』
『タナカさん、もっと暴露して!』
バキッ。
愛永が持っていたスナック菓子が、粉々に砕け散った。
「……言わせておけば、この三流YouTuberがぁぁ!!」
愛永が絶叫した。
「なによ『操り人形』って! 私は自分の意志で、自分の足でネタ拾ってきてんのよ! アンタみたいに安全圏から石投げてるだけの引きこもりとは違うっつーの!」
彼女はモニターに向かって中指を立てる。
「ああもうイライラする! 佐藤、こいつの住所特定して! 今すぐ乗り込んでマイクコードで絞め上げてやるから!」
「落ち着いてください、愛永さん」
佐藤は冷静にコーヒーを啜った。
「感情的になれば、相手の思う壺です。……それに、特定は容易ではありません」
佐藤は手元のキーボードを叩き、解析画面を表示させた。
「彼の配信は、海外の複数のサーバーを経由しています。ロシア、ブラジル、パナマ……。VPNとTorを何重にも組み合わせ、さらに音声データには特定のノイズを混ぜて声紋分析を妨害している。……素人ではありません。バックに相当な技術者がいるか、彼自身がプロのエンジニアか」
見えない敵。
MIIKAのように承認欲求で隙を見せるタイプではない。
慎重で、狡猾で、そして明確な悪意を持ってこちらを標的にしている。
「……デジタルでの特定には時間がかかります」
佐藤は立ち上がった。
「今日は一度解散しましょう。相手の手の内が読めるまで、下手に動くのは危険です」
「はあ!? このまま言われっぱなしでいろっての!?」
「『倍返し』のための助走期間だと思ってください」
不満げな愛永をなだめ、佐藤はジャケットを羽織った。
「私は出かけます。……必要な物資の調達がありますので」
「調達? また紘子の店?」
「いいえ。今回は……専門家の同行が必要です」
佐藤は視線を、部屋の隅に向けた。
そこには、白衣を着て顕微鏡を覗き込んでいた小林弥生がいた。
「……小林先生。出番ですよ」
「え? 私?」
弥生が顔を上げ、きょとんとする。
「デートの時間です。……横浜まで付き合ってください」
横浜、中華街。
極彩色の門をくぐると、そこは香辛料と熱気が渦巻く異世界だった。
シュウマイの湯気、甘栗を焼く匂い、そして独特な漢方の香り。
「わあ~! 久しぶりの中華街!」
小林弥生が、子供のようにはしゃいでいる。
今日の彼女は、いつもの白衣ではなく、淡いピンクのニットに白いロングスカートという、デート仕様の可愛らしい服装だ。小柄な彼女が人混みに埋もれないよう、佐藤は自然に彼女の背中を庇って歩く。
「社長、何食べます? 小籠包? 北京ダック?」
「食事は後です。まずは買い出しを済ませます」
佐藤が向かったのは、メインストリートから一本入った路地裏にある、古びた漢方薬局だった。
店内には、壁一面に木製の引き出しが並び、乾燥した植物や動物の一部が瓶詰めにされている。
独特の、土と薬草の匂い。
「いらっしゃい」
店主の老人が顔を出す。
「例のものは入っていますか」
佐藤が尋ねると、老人は無言で奥から包みを取り出した。
「……トリカブトの根、乾燥させたマムシ、それに……これは珍しい、南米産のクラーレの原料か」
弥生が包みの中身を覗き込み、目を輝かせた。
「すごい! これ、正規のルートじゃ絶対手に入らないやつじゃん!」
「声が大きいですよ、先生」
佐藤が人差し指を唇に当てる。
「今回の敵、ジャッジマン・タナカは警戒心が強い。物理的な接触が難しいため、もしアジトに突入することになった場合、通常の催涙ガスや麻酔では対処できない可能性があります。……より強力で、かつ証拠に残らない『特殊な薬剤』が必要です」
「なるほどね。神経系に作用して、一時的に運動機能を麻痺させる……でも後遺症は残さないギリギリのライン」
弥生はトリカブトの根を手に取り、うっとりとした表情で見つめた。
「任せて。この子たちを使えば、最強のブレンドを作れるわ。……ふふ、毒と薬は紙一重。使い手次第で、神にも悪魔にもなるの」
その横顔は、可憐な少女のようでありながら、マッドサイエンティストの狂気を孕んでいた。
佐藤は、彼女のこういう二面性を信頼している。
純粋すぎるがゆえの、狂気。それは佐藤自身の潔癖性とも通じるものがある。
買い物を終えた二人は、中華街の喧騒に戻った。
「さて、報酬の時間です」
佐藤が連れて行ったのは、観光客向けの派手な店ではなく、路地裏にある小さな広東料理店だった。
看板には『薬膳火鍋』の文字。
運ばれてきたのは、紅白二色のスープが入った鍋だ。
赤いスープには大量の唐辛子と花椒、白いスープにはナツメ、クコの実、高麗人参などが浮いている。
「わあ、薬膳! 社長、わかってるぅ!」
弥生が歓声を上げる。
「あなたの顔色が優れなかったのでね。最近、ラボにこもりきりでしょう。ビタミン剤だけでは補えない『気』を養う必要があります」
佐藤は具材――ラム肉、キノコ、冬瓜――を鍋に入れる。
「いただきまーす!」
弥生はフウフウと息を吹きかけ、スープを啜る。
「ん~っ! 染みる~! この白湯スープ、八角と桂皮のバランスが絶妙!」
彼女は薬剤師らしく、瞬時にスパイスを分析しつつ、美味しそうに頬張る。
「社長も食べてくださいよ。ほら、私の見立てじゃ、社長は『虚証』気味です。エネルギー不足。このラム肉食べてスタミナつけて」
弥生が自分の箸で、佐藤の皿に肉を乗せる。
佐藤は一瞬、潔癖症の反射で身を引こうとしたが、彼女の無邪気な笑顔を見て、大人しくそれを受け入れた。
「……いただきます」
熱い鍋を囲む。
湯気の向こうで、弥生が真剣な顔になった。
「ねえ、社長。……タナカって奴、許せないですね」
「ええ」
「愛永さんのこと、あんなふうに言って。……愛永さんは確かに性格悪いし口も悪いけど、仕事に対しては誰よりも真面目だし、嘘はつかない。あの人がテレビで笑ってる裏で、どれだけ努力してるか、私は知ってるもん」
弥生は悔しそうに唇を噛んだ。
「画面の向こうから石投げるだけの奴に、彼女の人生を否定する権利なんてない」
「同感です」
佐藤は頷き、白いスープを口にした。
複雑な薬味の味が、体に染み渡っていく。
「世界は毒で溢れています。タナカのような悪意という毒が。……ですが、毒には必ず解毒剤がある」
彼は弥生を見た。
「あなたが薬を作るように、我々も解決策を作る。……どんなに姿を隠そうと、必ず尻尾を掴んで、社会的に解毒してやりましょう」
「うん!」
弥生は力強く頷き、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、打倒タナカと、愛永さんの名誉回復を祈って……乾杯!」
「……ここは水ですが」
「気分ですよ、気分!」
チンッ。
安っぽいコップが触れ合う音がした。
佐藤は、この小さな「主治医」との時間を、悪くないと思った。
彼女の明るさと、生命に対する真摯な姿勢は、殺伐とした彼の心を中和してくれる清涼剤だ。
その夜。
オフィスに戻った佐藤と弥生を待っていたのは、さらに悪化した事態だった。
モニターの前で、松本愛永が頭を抱えている。
田中襟華が、深刻な顔でキーボードを叩いていた。
「……社長、戻った?」
襟華が振り返る。
「状況が悪化してる。タナカの野郎、次の動画を上げやがった」
「内容は?」
「愛永お姉さんの『過去の捏造写真』だよ」
モニターに映し出されたのは、若き日の愛永と思しき女性が、泥酔して男性と抱き合っている写真や、違法カジノに出入りしているかのような合成写真だった。
明らかに粗悪なフェイクだが、ネットの拡散力はそれを「真実」に変えていく。
『清純派の裏の顔w』
『やっぱりズブズブじゃん』
誹謗中傷のリプライが、滝のように流れている。
「……スポンサーから電話があったわ」
愛永が虚ろな目で呟く。
「『事実確認ができるまで、CMの放送を見合わせる』って。……番組の降板も時間の問題ね」
彼女の手が震えている。
悔しさで、唇から血が滲んでいた。
佐藤は買ってきた漢方の包みをデスクに置いた。
そして、静かに愛永の肩に手を置いた。
「……大丈夫です。これは、想定内の攻撃です」
彼の中に、冷たい怒りの炎が灯る。
仲間を傷つけ、尊厳を踏みにじる行為。
それは、佐藤任三郎が最も許さない「領域」だ。
「弥生先生。……例の薬の調合を急いでください」
「了解。今夜中に仕上げる。……最高に効くやつをね」
弥生が白衣を羽織り、ラボへと走る。
「襟華、タナカの動画の背景、音声ノイズ、すべて解析班に回せ。0.1秒のズレも見逃すな」
「わかってる! 絶対尻尾出してやる!」
佐藤はモニターの向こうの、白い仮面の男を睨みつけた。
「ジャッジマン・タナカ。……あなたは、喧嘩を売る相手を間違えました」
見えない敵との戦争が、本格的に幕を開けた。
今度は、こちらの番だ。
世間はまだその話題で持ちきりだったが、ネットの深淵では、すでに新たな「正義」が産声を上げていた。
佐藤任三郎のオフィス。
壁面の大型モニターには、動画共有サイト「YouTube」のライブ配信画面が映し出されている。
背景は漆黒。中央に座るのは、白い仮面を被り、ボイスチェンジャーで声を加工した男だ。
『ジャッジマン・タナカ』。
チャンネル登録者数は、この数日で爆発的に伸び、すでに50万人を超えている。
『……愚かな大衆諸君、こんばんは。ジャッジマン・タナカだ』
機械的な、しかし煽情的な響きを含んだ声が、オフィスに響く。
モニターの前では、松本愛永が腕を組み、鬼のような形相で画面を睨みつけていた。手には激辛スナックの袋が握りしめられている。
『先日のインフルエンサー逮捕劇。あれを見て「正義が勝った」と喜んでいる単細胞な諸君に、残念なお知らせがある』
タナカは仮面の奥で笑うように肩を揺らした。
『あれは、仕組まれたショーだ。……巨大な権力と、嘘つきなオールドメディアが結託して作り上げた、魔女狩りだ』
画面が切り替わり、愛永がキャスターを務める情報番組のキャプチャ画像が表示される。
そこには、MIIKAを批判的に報じる愛永の顔がアップになっていた。
『特に、この女。松本愛永』
タナカが指を差す。
『彼女は「国民的お姉さん」なんて面をして、正義の味方ぶっているが……その実態は、テレビ局の意向とスポンサーの顔色だけを伺う、操り人形だ。彼女はMIIKAの逮捕当日、なぜか「独占スクープ」を持っていた。……おかしいと思わないか? まるで、逮捕されることを事前に知っていたかのようだ』
鋭い。
佐藤は眉をピクリと動かした。
核心を突いている。もちろん、愛永が知っていたのは、我々が「処刑」を実行したからだが。
『テレビは嘘をつく。新聞は真実を隠す。……真実はネットにしかない』
タナカの声が熱を帯びる。
『俺は知っている。松本愛永が裏で、どれだけ汚い手を使ってライバルを蹴落とし、今の地位に登りつめたかを。……彼女こそが、断罪されるべき「偽りの偶像」だ』
コメント欄が加速する。
『愛永お姉さん、やっぱり怪しいと思ってた』
『テレビなんて信じてる情弱まだいるの?w』
『タナカさん、もっと暴露して!』
バキッ。
愛永が持っていたスナック菓子が、粉々に砕け散った。
「……言わせておけば、この三流YouTuberがぁぁ!!」
愛永が絶叫した。
「なによ『操り人形』って! 私は自分の意志で、自分の足でネタ拾ってきてんのよ! アンタみたいに安全圏から石投げてるだけの引きこもりとは違うっつーの!」
彼女はモニターに向かって中指を立てる。
「ああもうイライラする! 佐藤、こいつの住所特定して! 今すぐ乗り込んでマイクコードで絞め上げてやるから!」
「落ち着いてください、愛永さん」
佐藤は冷静にコーヒーを啜った。
「感情的になれば、相手の思う壺です。……それに、特定は容易ではありません」
佐藤は手元のキーボードを叩き、解析画面を表示させた。
「彼の配信は、海外の複数のサーバーを経由しています。ロシア、ブラジル、パナマ……。VPNとTorを何重にも組み合わせ、さらに音声データには特定のノイズを混ぜて声紋分析を妨害している。……素人ではありません。バックに相当な技術者がいるか、彼自身がプロのエンジニアか」
見えない敵。
MIIKAのように承認欲求で隙を見せるタイプではない。
慎重で、狡猾で、そして明確な悪意を持ってこちらを標的にしている。
「……デジタルでの特定には時間がかかります」
佐藤は立ち上がった。
「今日は一度解散しましょう。相手の手の内が読めるまで、下手に動くのは危険です」
「はあ!? このまま言われっぱなしでいろっての!?」
「『倍返し』のための助走期間だと思ってください」
不満げな愛永をなだめ、佐藤はジャケットを羽織った。
「私は出かけます。……必要な物資の調達がありますので」
「調達? また紘子の店?」
「いいえ。今回は……専門家の同行が必要です」
佐藤は視線を、部屋の隅に向けた。
そこには、白衣を着て顕微鏡を覗き込んでいた小林弥生がいた。
「……小林先生。出番ですよ」
「え? 私?」
弥生が顔を上げ、きょとんとする。
「デートの時間です。……横浜まで付き合ってください」
横浜、中華街。
極彩色の門をくぐると、そこは香辛料と熱気が渦巻く異世界だった。
シュウマイの湯気、甘栗を焼く匂い、そして独特な漢方の香り。
「わあ~! 久しぶりの中華街!」
小林弥生が、子供のようにはしゃいでいる。
今日の彼女は、いつもの白衣ではなく、淡いピンクのニットに白いロングスカートという、デート仕様の可愛らしい服装だ。小柄な彼女が人混みに埋もれないよう、佐藤は自然に彼女の背中を庇って歩く。
「社長、何食べます? 小籠包? 北京ダック?」
「食事は後です。まずは買い出しを済ませます」
佐藤が向かったのは、メインストリートから一本入った路地裏にある、古びた漢方薬局だった。
店内には、壁一面に木製の引き出しが並び、乾燥した植物や動物の一部が瓶詰めにされている。
独特の、土と薬草の匂い。
「いらっしゃい」
店主の老人が顔を出す。
「例のものは入っていますか」
佐藤が尋ねると、老人は無言で奥から包みを取り出した。
「……トリカブトの根、乾燥させたマムシ、それに……これは珍しい、南米産のクラーレの原料か」
弥生が包みの中身を覗き込み、目を輝かせた。
「すごい! これ、正規のルートじゃ絶対手に入らないやつじゃん!」
「声が大きいですよ、先生」
佐藤が人差し指を唇に当てる。
「今回の敵、ジャッジマン・タナカは警戒心が強い。物理的な接触が難しいため、もしアジトに突入することになった場合、通常の催涙ガスや麻酔では対処できない可能性があります。……より強力で、かつ証拠に残らない『特殊な薬剤』が必要です」
「なるほどね。神経系に作用して、一時的に運動機能を麻痺させる……でも後遺症は残さないギリギリのライン」
弥生はトリカブトの根を手に取り、うっとりとした表情で見つめた。
「任せて。この子たちを使えば、最強のブレンドを作れるわ。……ふふ、毒と薬は紙一重。使い手次第で、神にも悪魔にもなるの」
その横顔は、可憐な少女のようでありながら、マッドサイエンティストの狂気を孕んでいた。
佐藤は、彼女のこういう二面性を信頼している。
純粋すぎるがゆえの、狂気。それは佐藤自身の潔癖性とも通じるものがある。
買い物を終えた二人は、中華街の喧騒に戻った。
「さて、報酬の時間です」
佐藤が連れて行ったのは、観光客向けの派手な店ではなく、路地裏にある小さな広東料理店だった。
看板には『薬膳火鍋』の文字。
運ばれてきたのは、紅白二色のスープが入った鍋だ。
赤いスープには大量の唐辛子と花椒、白いスープにはナツメ、クコの実、高麗人参などが浮いている。
「わあ、薬膳! 社長、わかってるぅ!」
弥生が歓声を上げる。
「あなたの顔色が優れなかったのでね。最近、ラボにこもりきりでしょう。ビタミン剤だけでは補えない『気』を養う必要があります」
佐藤は具材――ラム肉、キノコ、冬瓜――を鍋に入れる。
「いただきまーす!」
弥生はフウフウと息を吹きかけ、スープを啜る。
「ん~っ! 染みる~! この白湯スープ、八角と桂皮のバランスが絶妙!」
彼女は薬剤師らしく、瞬時にスパイスを分析しつつ、美味しそうに頬張る。
「社長も食べてくださいよ。ほら、私の見立てじゃ、社長は『虚証』気味です。エネルギー不足。このラム肉食べてスタミナつけて」
弥生が自分の箸で、佐藤の皿に肉を乗せる。
佐藤は一瞬、潔癖症の反射で身を引こうとしたが、彼女の無邪気な笑顔を見て、大人しくそれを受け入れた。
「……いただきます」
熱い鍋を囲む。
湯気の向こうで、弥生が真剣な顔になった。
「ねえ、社長。……タナカって奴、許せないですね」
「ええ」
「愛永さんのこと、あんなふうに言って。……愛永さんは確かに性格悪いし口も悪いけど、仕事に対しては誰よりも真面目だし、嘘はつかない。あの人がテレビで笑ってる裏で、どれだけ努力してるか、私は知ってるもん」
弥生は悔しそうに唇を噛んだ。
「画面の向こうから石投げるだけの奴に、彼女の人生を否定する権利なんてない」
「同感です」
佐藤は頷き、白いスープを口にした。
複雑な薬味の味が、体に染み渡っていく。
「世界は毒で溢れています。タナカのような悪意という毒が。……ですが、毒には必ず解毒剤がある」
彼は弥生を見た。
「あなたが薬を作るように、我々も解決策を作る。……どんなに姿を隠そうと、必ず尻尾を掴んで、社会的に解毒してやりましょう」
「うん!」
弥生は力強く頷き、グラスを持ち上げた。
「じゃあ、打倒タナカと、愛永さんの名誉回復を祈って……乾杯!」
「……ここは水ですが」
「気分ですよ、気分!」
チンッ。
安っぽいコップが触れ合う音がした。
佐藤は、この小さな「主治医」との時間を、悪くないと思った。
彼女の明るさと、生命に対する真摯な姿勢は、殺伐とした彼の心を中和してくれる清涼剤だ。
その夜。
オフィスに戻った佐藤と弥生を待っていたのは、さらに悪化した事態だった。
モニターの前で、松本愛永が頭を抱えている。
田中襟華が、深刻な顔でキーボードを叩いていた。
「……社長、戻った?」
襟華が振り返る。
「状況が悪化してる。タナカの野郎、次の動画を上げやがった」
「内容は?」
「愛永お姉さんの『過去の捏造写真』だよ」
モニターに映し出されたのは、若き日の愛永と思しき女性が、泥酔して男性と抱き合っている写真や、違法カジノに出入りしているかのような合成写真だった。
明らかに粗悪なフェイクだが、ネットの拡散力はそれを「真実」に変えていく。
『清純派の裏の顔w』
『やっぱりズブズブじゃん』
誹謗中傷のリプライが、滝のように流れている。
「……スポンサーから電話があったわ」
愛永が虚ろな目で呟く。
「『事実確認ができるまで、CMの放送を見合わせる』って。……番組の降板も時間の問題ね」
彼女の手が震えている。
悔しさで、唇から血が滲んでいた。
佐藤は買ってきた漢方の包みをデスクに置いた。
そして、静かに愛永の肩に手を置いた。
「……大丈夫です。これは、想定内の攻撃です」
彼の中に、冷たい怒りの炎が灯る。
仲間を傷つけ、尊厳を踏みにじる行為。
それは、佐藤任三郎が最も許さない「領域」だ。
「弥生先生。……例の薬の調合を急いでください」
「了解。今夜中に仕上げる。……最高に効くやつをね」
弥生が白衣を羽織り、ラボへと走る。
「襟華、タナカの動画の背景、音声ノイズ、すべて解析班に回せ。0.1秒のズレも見逃すな」
「わかってる! 絶対尻尾出してやる!」
佐藤はモニターの向こうの、白い仮面の男を睨みつけた。
「ジャッジマン・タナカ。……あなたは、喧嘩を売る相手を間違えました」
見えない敵との戦争が、本格的に幕を開けた。
今度は、こちらの番だ。
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