18 / 43
第2章:正義を騙る暴露系YouTuberの闇
第18話 調達屋の眼
しおりを挟む
スズキのアクアパッツァと、香ばしい焼きトウモロコシ。
佐藤任三郎が振る舞った「戦場の晩餐」によって、チーム「Octogram」のメンバーたちの荒んだ胃袋は満たされた。
皿の上には、きれいに平らげられた魚の骨だけが残っている。
深夜1時。
窓の外では、相変わらず暴徒化した野次馬や迷惑系YouTuberたちが、スピーカーで何かを喚いている。
だが、今の彼らにとってそれは、遠くで鳴く野犬の声と同程度のBGMに過ぎなかった。
美味しい食事には、世界を隔絶する結界のような力がある。
佐藤は一人、キッチンの勝手口から裏路地へと出た。
ゴミ出しと、そして少しばかりの冷たい空気を吸うためだ。
この裏路地だけは、表通りの喧騒から死角になっており、奇妙な静寂に包まれていた。
夜気は湿り気を帯びており、小雨が降り始めていた。
「……ミャ……」
ふと、足元のダンボールの隙間から、消え入りそうな音が聞こえた。
ノイズだ。
佐藤は眉を顰めた。今の彼は神経が張り詰めている。些細な音でも聞き逃さない。
彼はスマホのライトを点け、濡れたダンボールを退けた。
そこに、それはいた。
泥にまみれた、掌よりも小さな黒い塊。
へその緒がついたままの、生後間もない子猫だった。
雨に打たれ、体温を奪われ、震える力さえ残っていないように見える。
母猫の姿はない。カラスにでも狙われれば、一巻の終わりだろう。このまま放置すれば、朝を待たずに命の灯火は消える。
「……非合理的ですね」
佐藤は独り言ちた。
この非常事態に、手のかかる生物を拾うメリットは何もない。手間がかかる。金がかかる。部屋が汚れる。そして何より、いつか死ぬ時に精神的ダメージが発生する。
リスク管理の観点から言えば、見捨てるのが正解だ。
佐藤は背を向け、歩き出した。
一歩、二歩。
「……ミャ……」
背後で、必死に命を繋ぎ止めようとする声がした。
その声が、10年前の記憶と重なる。
――お兄ちゃん、助けて。
ネットの悪意という冷たい雨に打たれ、誰にも助けてもらえずに震えていた妹の声と。
「……チッ」
佐藤は舌打ちをし、踵を返した。
彼はダンボールの前にしゃがみ込むと、愛用の高級ハンカチを取り出した。
躊躇なく泥だらけの子猫を包み込み、抱き上げる。
微かな温かさ。
「今回だけですよ。……特別案件です」
子猫は佐藤の体温を感じ、彼の胸元に頭を擦り付けた。
佐藤がオフィスに戻ると、メンバーたちがギョッとした顔をした。
佐藤の胸元から、泥だらけの黒い毛玉が覗いていたからだ。
「ちょ、社長!? 何それ!」
田中襟華が叫ぶ。
「拾得物です。……小林先生、至急オペを」
「えっ、猫!?」
小林弥生が飛んできた。
彼女は一瞬で「医師」の顔になり、子猫の状態を確認する。
「生後1日……低体温症を起こしてる。お湯とタオル! それとブドウ糖!」
オフィスの一角が、野戦病院と化した。
佐藤と弥生が付きっきりで体を温め、スポイトで数滴ずつミルクを含ませる。
他のメンバーも、固唾を呑んでその様子を見守っていた。
殺伐とした作戦会議室に、張り詰めた糸が緩むような、不思議な空気が流れる。
一時間後。
子猫の体が温まり、規則正しい寝息を立て始めた。
「……ふぅ。峠は越えましたね」
弥生が汗を拭う。
「生命力強い子だ。……社長、飼うんですか?」
「里親が見つかるまでの預かり対応です」
佐藤はそう言いながらも、眠る子猫の頭を指先で優しく撫でていた。
その表情は、メンバーたちが今まで見たこともないほど穏やかだった。
「名前、どうするの?」
松本愛永が覗き込む。
「クロとか?」
佐藤は少し考え、キッチンのボウルに残っていた卵液を見た。
黒い毛並みと、金色の瞳。
「……『出汁』」
「はあ? 猫にダシって……」
襟華が呆れる。
「料理の基本であり、深みを与える存在です。……悪くありません」
佐藤は満足げに頷いた。
ネーミングセンスは壊滅的だったが、こうしてチームの9人目のメンバー、黒猫のダシが加入した。
ダシの寝顔を見ていると、不思議と焦りが消えていった。
メンバーたちは再び、それぞれの持ち場に戻る。
愛永と襟華はモニターの前で情報収集、彩と千尋は相関図の作成、グレタは武器の手入れ。
そして佐々木紘子は、窓際のアームチェアに深く腰掛け、タブレット端末を眺めていた。
手にはリンゴが一つ。ナイフを使わず、皮ごと豪快に齧っている。
そのガラス玉のように透き通った瞳は、画面の中のジャッジマン・タナカを映しているが、焦点はどこか遠くを見ているようだった。
「……何か見つかりましたか、紘子さん」
佐藤がコーヒーを差し出すと、紘子は視線を上げずに答えた。
「面白いものを見つけたわ」
「タナカの弱点ですか?」
「いいえ。……私の『作品』よ」
紘子はタブレットをテーブルに放り投げた。
画面には、タナカが「オールドメディアの嘘」について熱弁を振るっている配信アーカイブの静止画が映っている。
薄暗い部屋。白い仮面の男。
その背後には、本棚のようなものがあり、乱雑に積まれた資料やフィギュアに混じって、一つの「壺」が置かれていた。
青磁色の、古めかしい壺だ。
「これ?」
襟華が覗き込む。
「ただの骨董品じゃないの? おじいちゃんの家とかにありそうな」
「そう見えるでしょうね」
紘子はリンゴを齧り、クスクスと笑った。
「素人の目には、これは『明時代の染付』に見える。龍の絵柄、釉薬のひび割れ、そして底の高台の削り方。……どれをとっても、一級品の風格があるわ」
「へえ、タナカって意外と金持ちなのね」
愛永が悔しそうに言う。
「スパチャで稼いだ金で買ったのかしら」
「違うわ」
紘子が首を振った。
「これは偽物よ」
全員の視線が集まる。
彼女は立ち上がり、モニターの画面を指差した。
「よーく見て。この龍の爪の数。……明時代の皇帝に献上された壺なら、爪は5本描かれるのが通例。でも、これは4本しかない。そして何より……」
彼女は画像を拡大し、壺の底の方を指差した。
「ここの釉薬の垂れ方。……私がわざと『失敗』させた跡よ」
「……あなたが作ったのですか?」
佐藤が驚きを隠せずに尋ねる。
「作らせたのよ。3年前、中国の福建省にある裏の工房でね」
紘子は懐かしそうに目を細めた。
「当時、ある華僑の富豪から『本物そっくりの贋作が欲しい』という奇妙なオーダーが入ったの。私は最高の職人を使って、炭素年代測定さえ騙せるレベルの贋作を作らせた。……でも、最後の最後で、職人が釉薬の調合をミスして、微かに青みが強くなってしまったのよ」
彼女はその「失敗作」を、廃棄せずに日本の裏ルートに流したのだという。
「横浜の港にいる故買屋……『老・陳』の店に卸したわ。あそこは、盗品だろうが贋作だろうが、金さえ積めば何でも引き取るブラックホールだから」
佐々木紘子。
表の顔は古書店主だが、裏では世界中のブラックマーケットに通じる調達屋。
彼女の眼は、モノの価値だけでなく、そのモノが辿ってきた歴史さえも見通す。
「つまり……この壺を買った人間が、タナカの協力者、あるいはタナカ本人ということですか?」
彩が眼鏡の位置を直す。
「ええ。そして、私は自分の商品を誰が買ったか、決して忘れない」
紘子は不敵に微笑んだ。
「ラオ・チェンの顧客リストは頭に入ってるわ。……この失敗作の壺を、『本物だ』と信じ込んで高値で買った間抜けな日本人は、一人しかいない」
彼女は口紅のようなデバイスを取り出し、空中にホログラムのようにデータを投影した。
表示されたのは、一人の男の顔写真とプロフィール。
『権藤 剛』。
50代半ば。脂ぎった顔に、金縁の眼鏡。
職業:不動産投資家。都内に複数の雑居ビルやマンションを所有する資産家。
「……ビンゴね」
渡辺千尋が写真を見て呟く。
「権藤なら知ってるわ。港区の裏社会じゃ有名なパトロンよ。表向きは不動産屋だけど、裏では半グレ集団にアジトを提供したり、違法な賭博場を運営させたりしてる。……タナカのバックにいるのがこいつなら、資金源もサーバーの隠蔽工作も説明がつくわ」
「権藤は骨董品の収集癖があるの」
紘子がリンゴの芯をゴミ箱に投げ入れた。
「でも、審美眼はゼロ。私が流した贋作を、数千万円で掴まされたカモよ。……まさか、その壺が自分の破滅の引き金になるなんて、夢にも思ってないでしょうけど」
見えない敵の尻尾を、掴んだ。
タナカは海外サーバーを使ってデジタルな足跡を消していたが、物理的な空間に残された「モノ」の記憶までは消せなかったのだ。
「……場所は?」
佐藤が静かに問う。
「権藤が所有していて、かつ現在『空室』扱いになっている物件。……さらに、高速なネット回線が引かれている場所」
襟華がキーボードを叩き、権藤の資産リストと、電力使用量のデータを照合する。
数秒後。
地図上の一点が赤く点滅した。
「あった。……港区、白金台。高級マンション『メゾン・ド・プラチナ』の最上階、ペントハウス」
襟華が叫ぶ。
「ここだけ、誰も住んでないはずなのに、夜間の電力消費量が異常に多い。サーバーをフル稼働させてる証拠だ!」
決まりだ。
佐藤の膝の上で、目を覚ましたダシが「ミャア!」と高く鳴いた。
まるで「突撃合図」のように。
「……よくやりました、皆さん」
佐藤はダシをそっとソファに降ろした。
そして、ジャケットのボタンを留め、表情を引き締める。
「敵の居場所は特定されました。……法が通じない相手なら、直接伺って、礼儀を教えるまでです」
「待ってたわ、その言葉!」
愛永が立ち上がり、拳を鳴らす。
「私を嘘つき呼ばわりした罪、たっぷり償わせてやるわ」
「不法侵入と器物損壊の準備は?」
彩が苦笑しながら尋ねる。
「万端だ」
グレタが車のキーを回した。
「私の車なら、白金台まで15分で着く。……もちろん、信号は無視するが」
「麻酔薬の補充もOK」
弥生がバッグを掲げる。
「今回は『悪夢を見るガス』も追加しておいたよ」
チームの士気は最高潮だ。
閉塞感など微塵もない。
紘子の眼と、ダシがもたらした温もりが、彼らに反撃の力を与えた。
「紘子さん、感謝します」
佐藤が紘子に向き直る。
「あなたの『眼』がなければ、この突破口は開けなかった」
「いいのよ。……自分の失敗作が、こんな形で役に立つなんてね」
紘子は艶然と微笑み、佐藤に近づいた。
「報酬は……わかってるわね?」
「ええ。次回は『ケバブ』をご用意しましょう」
「交渉成立」
佐藤は全員を見渡した。
指揮官。
潜入者。
交渉人。
執行者。
分析官。
守護者。
供給者。
扇動者。
8人のスペシャリストが、再び動き出す。
今度の敵は、姿なきネットの亡霊ではない。
住所を持ち、実体を持ち、そして恐怖を感じる生身の人間だ。
「行きましょう。……『反撃』の時間です」
佐藤がオフィスの照明を落とす。
暗闇の中で、8対の瞳だけが鋭く光っていた。
ダシはソファの上で、彼らの背中を見送るように、小さくあくびをした。
彼らが戻ってくる頃には、また一つ、この街のゴミが片付いていることだろう。
佐藤任三郎が振る舞った「戦場の晩餐」によって、チーム「Octogram」のメンバーたちの荒んだ胃袋は満たされた。
皿の上には、きれいに平らげられた魚の骨だけが残っている。
深夜1時。
窓の外では、相変わらず暴徒化した野次馬や迷惑系YouTuberたちが、スピーカーで何かを喚いている。
だが、今の彼らにとってそれは、遠くで鳴く野犬の声と同程度のBGMに過ぎなかった。
美味しい食事には、世界を隔絶する結界のような力がある。
佐藤は一人、キッチンの勝手口から裏路地へと出た。
ゴミ出しと、そして少しばかりの冷たい空気を吸うためだ。
この裏路地だけは、表通りの喧騒から死角になっており、奇妙な静寂に包まれていた。
夜気は湿り気を帯びており、小雨が降り始めていた。
「……ミャ……」
ふと、足元のダンボールの隙間から、消え入りそうな音が聞こえた。
ノイズだ。
佐藤は眉を顰めた。今の彼は神経が張り詰めている。些細な音でも聞き逃さない。
彼はスマホのライトを点け、濡れたダンボールを退けた。
そこに、それはいた。
泥にまみれた、掌よりも小さな黒い塊。
へその緒がついたままの、生後間もない子猫だった。
雨に打たれ、体温を奪われ、震える力さえ残っていないように見える。
母猫の姿はない。カラスにでも狙われれば、一巻の終わりだろう。このまま放置すれば、朝を待たずに命の灯火は消える。
「……非合理的ですね」
佐藤は独り言ちた。
この非常事態に、手のかかる生物を拾うメリットは何もない。手間がかかる。金がかかる。部屋が汚れる。そして何より、いつか死ぬ時に精神的ダメージが発生する。
リスク管理の観点から言えば、見捨てるのが正解だ。
佐藤は背を向け、歩き出した。
一歩、二歩。
「……ミャ……」
背後で、必死に命を繋ぎ止めようとする声がした。
その声が、10年前の記憶と重なる。
――お兄ちゃん、助けて。
ネットの悪意という冷たい雨に打たれ、誰にも助けてもらえずに震えていた妹の声と。
「……チッ」
佐藤は舌打ちをし、踵を返した。
彼はダンボールの前にしゃがみ込むと、愛用の高級ハンカチを取り出した。
躊躇なく泥だらけの子猫を包み込み、抱き上げる。
微かな温かさ。
「今回だけですよ。……特別案件です」
子猫は佐藤の体温を感じ、彼の胸元に頭を擦り付けた。
佐藤がオフィスに戻ると、メンバーたちがギョッとした顔をした。
佐藤の胸元から、泥だらけの黒い毛玉が覗いていたからだ。
「ちょ、社長!? 何それ!」
田中襟華が叫ぶ。
「拾得物です。……小林先生、至急オペを」
「えっ、猫!?」
小林弥生が飛んできた。
彼女は一瞬で「医師」の顔になり、子猫の状態を確認する。
「生後1日……低体温症を起こしてる。お湯とタオル! それとブドウ糖!」
オフィスの一角が、野戦病院と化した。
佐藤と弥生が付きっきりで体を温め、スポイトで数滴ずつミルクを含ませる。
他のメンバーも、固唾を呑んでその様子を見守っていた。
殺伐とした作戦会議室に、張り詰めた糸が緩むような、不思議な空気が流れる。
一時間後。
子猫の体が温まり、規則正しい寝息を立て始めた。
「……ふぅ。峠は越えましたね」
弥生が汗を拭う。
「生命力強い子だ。……社長、飼うんですか?」
「里親が見つかるまでの預かり対応です」
佐藤はそう言いながらも、眠る子猫の頭を指先で優しく撫でていた。
その表情は、メンバーたちが今まで見たこともないほど穏やかだった。
「名前、どうするの?」
松本愛永が覗き込む。
「クロとか?」
佐藤は少し考え、キッチンのボウルに残っていた卵液を見た。
黒い毛並みと、金色の瞳。
「……『出汁』」
「はあ? 猫にダシって……」
襟華が呆れる。
「料理の基本であり、深みを与える存在です。……悪くありません」
佐藤は満足げに頷いた。
ネーミングセンスは壊滅的だったが、こうしてチームの9人目のメンバー、黒猫のダシが加入した。
ダシの寝顔を見ていると、不思議と焦りが消えていった。
メンバーたちは再び、それぞれの持ち場に戻る。
愛永と襟華はモニターの前で情報収集、彩と千尋は相関図の作成、グレタは武器の手入れ。
そして佐々木紘子は、窓際のアームチェアに深く腰掛け、タブレット端末を眺めていた。
手にはリンゴが一つ。ナイフを使わず、皮ごと豪快に齧っている。
そのガラス玉のように透き通った瞳は、画面の中のジャッジマン・タナカを映しているが、焦点はどこか遠くを見ているようだった。
「……何か見つかりましたか、紘子さん」
佐藤がコーヒーを差し出すと、紘子は視線を上げずに答えた。
「面白いものを見つけたわ」
「タナカの弱点ですか?」
「いいえ。……私の『作品』よ」
紘子はタブレットをテーブルに放り投げた。
画面には、タナカが「オールドメディアの嘘」について熱弁を振るっている配信アーカイブの静止画が映っている。
薄暗い部屋。白い仮面の男。
その背後には、本棚のようなものがあり、乱雑に積まれた資料やフィギュアに混じって、一つの「壺」が置かれていた。
青磁色の、古めかしい壺だ。
「これ?」
襟華が覗き込む。
「ただの骨董品じゃないの? おじいちゃんの家とかにありそうな」
「そう見えるでしょうね」
紘子はリンゴを齧り、クスクスと笑った。
「素人の目には、これは『明時代の染付』に見える。龍の絵柄、釉薬のひび割れ、そして底の高台の削り方。……どれをとっても、一級品の風格があるわ」
「へえ、タナカって意外と金持ちなのね」
愛永が悔しそうに言う。
「スパチャで稼いだ金で買ったのかしら」
「違うわ」
紘子が首を振った。
「これは偽物よ」
全員の視線が集まる。
彼女は立ち上がり、モニターの画面を指差した。
「よーく見て。この龍の爪の数。……明時代の皇帝に献上された壺なら、爪は5本描かれるのが通例。でも、これは4本しかない。そして何より……」
彼女は画像を拡大し、壺の底の方を指差した。
「ここの釉薬の垂れ方。……私がわざと『失敗』させた跡よ」
「……あなたが作ったのですか?」
佐藤が驚きを隠せずに尋ねる。
「作らせたのよ。3年前、中国の福建省にある裏の工房でね」
紘子は懐かしそうに目を細めた。
「当時、ある華僑の富豪から『本物そっくりの贋作が欲しい』という奇妙なオーダーが入ったの。私は最高の職人を使って、炭素年代測定さえ騙せるレベルの贋作を作らせた。……でも、最後の最後で、職人が釉薬の調合をミスして、微かに青みが強くなってしまったのよ」
彼女はその「失敗作」を、廃棄せずに日本の裏ルートに流したのだという。
「横浜の港にいる故買屋……『老・陳』の店に卸したわ。あそこは、盗品だろうが贋作だろうが、金さえ積めば何でも引き取るブラックホールだから」
佐々木紘子。
表の顔は古書店主だが、裏では世界中のブラックマーケットに通じる調達屋。
彼女の眼は、モノの価値だけでなく、そのモノが辿ってきた歴史さえも見通す。
「つまり……この壺を買った人間が、タナカの協力者、あるいはタナカ本人ということですか?」
彩が眼鏡の位置を直す。
「ええ。そして、私は自分の商品を誰が買ったか、決して忘れない」
紘子は不敵に微笑んだ。
「ラオ・チェンの顧客リストは頭に入ってるわ。……この失敗作の壺を、『本物だ』と信じ込んで高値で買った間抜けな日本人は、一人しかいない」
彼女は口紅のようなデバイスを取り出し、空中にホログラムのようにデータを投影した。
表示されたのは、一人の男の顔写真とプロフィール。
『権藤 剛』。
50代半ば。脂ぎった顔に、金縁の眼鏡。
職業:不動産投資家。都内に複数の雑居ビルやマンションを所有する資産家。
「……ビンゴね」
渡辺千尋が写真を見て呟く。
「権藤なら知ってるわ。港区の裏社会じゃ有名なパトロンよ。表向きは不動産屋だけど、裏では半グレ集団にアジトを提供したり、違法な賭博場を運営させたりしてる。……タナカのバックにいるのがこいつなら、資金源もサーバーの隠蔽工作も説明がつくわ」
「権藤は骨董品の収集癖があるの」
紘子がリンゴの芯をゴミ箱に投げ入れた。
「でも、審美眼はゼロ。私が流した贋作を、数千万円で掴まされたカモよ。……まさか、その壺が自分の破滅の引き金になるなんて、夢にも思ってないでしょうけど」
見えない敵の尻尾を、掴んだ。
タナカは海外サーバーを使ってデジタルな足跡を消していたが、物理的な空間に残された「モノ」の記憶までは消せなかったのだ。
「……場所は?」
佐藤が静かに問う。
「権藤が所有していて、かつ現在『空室』扱いになっている物件。……さらに、高速なネット回線が引かれている場所」
襟華がキーボードを叩き、権藤の資産リストと、電力使用量のデータを照合する。
数秒後。
地図上の一点が赤く点滅した。
「あった。……港区、白金台。高級マンション『メゾン・ド・プラチナ』の最上階、ペントハウス」
襟華が叫ぶ。
「ここだけ、誰も住んでないはずなのに、夜間の電力消費量が異常に多い。サーバーをフル稼働させてる証拠だ!」
決まりだ。
佐藤の膝の上で、目を覚ましたダシが「ミャア!」と高く鳴いた。
まるで「突撃合図」のように。
「……よくやりました、皆さん」
佐藤はダシをそっとソファに降ろした。
そして、ジャケットのボタンを留め、表情を引き締める。
「敵の居場所は特定されました。……法が通じない相手なら、直接伺って、礼儀を教えるまでです」
「待ってたわ、その言葉!」
愛永が立ち上がり、拳を鳴らす。
「私を嘘つき呼ばわりした罪、たっぷり償わせてやるわ」
「不法侵入と器物損壊の準備は?」
彩が苦笑しながら尋ねる。
「万端だ」
グレタが車のキーを回した。
「私の車なら、白金台まで15分で着く。……もちろん、信号は無視するが」
「麻酔薬の補充もOK」
弥生がバッグを掲げる。
「今回は『悪夢を見るガス』も追加しておいたよ」
チームの士気は最高潮だ。
閉塞感など微塵もない。
紘子の眼と、ダシがもたらした温もりが、彼らに反撃の力を与えた。
「紘子さん、感謝します」
佐藤が紘子に向き直る。
「あなたの『眼』がなければ、この突破口は開けなかった」
「いいのよ。……自分の失敗作が、こんな形で役に立つなんてね」
紘子は艶然と微笑み、佐藤に近づいた。
「報酬は……わかってるわね?」
「ええ。次回は『ケバブ』をご用意しましょう」
「交渉成立」
佐藤は全員を見渡した。
指揮官。
潜入者。
交渉人。
執行者。
分析官。
守護者。
供給者。
扇動者。
8人のスペシャリストが、再び動き出す。
今度の敵は、姿なきネットの亡霊ではない。
住所を持ち、実体を持ち、そして恐怖を感じる生身の人間だ。
「行きましょう。……『反撃』の時間です」
佐藤がオフィスの照明を落とす。
暗闇の中で、8対の瞳だけが鋭く光っていた。
ダシはソファの上で、彼らの背中を見送るように、小さくあくびをした。
彼らが戻ってくる頃には、また一つ、この街のゴミが片付いていることだろう。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
清掃員と僕の密やかな情状
MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。
青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。
肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。
44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる